礒部建多 18年10月14日放送

181014-08

葛飾北斎の発想

色鮮やかで、描写も構図も自由な浮世絵。

葛飾北斎は、誰よりも枠にとらわれず、
見る人を驚かせた。

徳川家斉に呼ばれ、
御前で即興の絵を書いていた時のこと。

細長い紙に、刷毛で藍色を塗ると、
籠に入れてきた鶏の足に朱色を塗って、
紙の上を歩かせた。
「これはこれ竜田川の景色なり」と言い残し、
その場を去ったという。

一つ一つの足跡が、
まるで清流に流れる紅葉のように見えたのだ。

「絵は筆で書く」、
そんな常識すらも超越する創意工夫が、
庶民だけでなく、時の将軍さえも驚嘆させた。

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河田紗弥 18年10月13日放送

181013-01
Photo by AdamSelwood
ちょっと不思議な「いただきます」 〜トマト〜

時は、大航海時代。
ジャガイモやトウモロコシ、唐辛子などともに
新大陸から旧大陸に伝わったのがトマト。

しかし、猛毒をもつベラドンナに似ていたため、
当時、毒を持つ植物と信じられ、食用にされなかったという。

この誤解を解いたのは、

飢餓に苦しむ南イタリアの青年であった。

空腹に耐えかねた青年は、
トマトを食べてみたところ、
毒がないどころか、美味しいことを発見した。

こうして、トマトは、
地中海沿岸の南ヨーロッパを中心に広まっていき、
マルタの主要農産物のひとつになっていった。

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河田紗弥 18年10月13日放送

181013-02

ちょっと不思議な「いただきます」 〜トマト〜

南米原産のトマトが
北米で食べられるようになったのは、
ヨーロッパよりも更に200年以上後のこと。

1820年、
ニュージャージー州の農場主であった
ロバート・ジョンソン大佐は
当時信じられていたトマトには毒がある、という説を否定するために
自ら命を張ることを決めた。

町の裁判所前に、人々を集めて、トマトを食べてみせたのだ。
この様子を見て、気絶してしまう人もいたんだとか。

後に、このジョンソン氏の勇気ある行動をたたえ、
ジョンソン・デーというお祭りが開催されていたとも言われている。

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河田紗弥 18年10月13日放送

181013-03

ちょっと不思議な「いただきます」 〜ポテトチップス〜

19世紀半ば。
ニューヨーク州のリゾート地サラトガ・スプリングスでのこと。

この地でシェフをしていたジョージ・クラム氏は
ある客に苛立ちを覚えていた。
というのも、わがままな客が、
クラム氏が作ったフレンチポテトが分厚すぎて気に入らないと言ったのだ。

仕方なく、薄く切って揚げたフレンチポテトを出しても、
まだ気に入らないと、
何度もやり直しをさせられた。

頭にきたクラム氏は、
皮肉を込めて、フォークでさせないくらいに
思いっきり薄くスライスしたジャガイモを揚げて出したところ、
これが大好評!

いまやおやつの定番であるポテトチップスは
こうして生まれたのであった。

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河田紗弥 18年10月13日放送

181013-04
Photo by [puamelia]
ちょっと不思議な「いただきます」 〜肉じゃが〜

日本帝国海軍が広めた料理は、カレーライスだけではない。

日本海軍のリーダーのひとりで、
日清日露戦争で大活躍をした東郷平八郎は、
ある日艦上で
「イギリスで食ったビーフシチューの味が忘れられん!作れ!
牛肉、ジャガイモ、人参が入っておった。」
とコックに命じた。

しかし、コックにはビーフシチューの知識がなく、
また材料もなかったため、
あり合わせの材料で、コックのイメージするビーフシチューをつくりあげた。

こうして完成したのは、
ビーフシチューではなく、現在の肉じゃが。

リクエストした東郷の想いは叶わなかったものの、
洋食の味にへきえきしていた他の乗組員たちは、大層喜んだという。

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河田紗弥 18年10月13日放送

181013-05
Photo by GeoTrinity
ちょっと不思議な「いただきます」 〜シリアル〜

アメリカ人の朝食の定番とも言える「シリアル」
このシリアルは、あるひとりの男の失敗によって生み出された。

ウィル・キース・ケロッグは
医学博士の兄に頼まれ、
研究助手や患者の食事の調理を受け持っていた。

ある日、パン生地の主要な原料である茹でた小麦をほったらかしにして
数時間後に慌てて戻ってみると、
小麦がフレーク状になっていた。

興味を持ったケロッグ氏は、
フレーク状態になったその小麦を焼いてみたところ、
カリカリのスナックが出来上がったのだ。

患者たちに食べてもらうと、これが大好評!
ケロッグはこれを大量生産することを決め、
現在のケロッグ社が誕生したのであった。

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大友美有紀 18年10月7日放送

181007-01
Photo by ajari
「低い山・近い山」 八王子市・高尾山

ミシュランの三ツ星を獲得した高尾山。
東京の小学生にとって、そこは遠足の山だ。
初心者向けから上級者好みのコースまで、
高尾山には10を超える登山コースがある。
標高599メートル。
低学年の子どもたちは、ケーブルカーかリフトで
中腹まで登り、そこから1時間ほどかけて山頂まで行く。
学年が上がるにつれ、難易度の高いコースを登っていく。

 中腹の駅まで
 ケーブルカーで約6分
 リフトなら12分ほど。
 
駅を出ると高尾山ビアマウントがある。
大人の遠足では、ここを素通りする方が
難易度が高いだろう。

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大友美有紀 18年10月7日放送

181007-02
Photo by koji_h
「低い山・近い山」 新宿区・箱根山

山手線内で一番高い山は、箱根山。
新宿の戸山公園内にある。標高44.6メートル。
江戸時代、尾張藩の下屋敷があった場所。
二代藩主の徳川光友が庭園を造った際、
池を掘った土でつくった築山。人工の山だ。
当初はお椀を伏せたような形で
玉円峰(ぎょくえんぽう)と呼ばれていた。
のちに庭園のなかに、宿場風の町家が並び、
ここを小田原宿に見立てて
箱根山と呼ばれるようになった。

 駒下駄で越すハ御庭の箱根山

文化5年、1807年の川柳にも詠まれている。
頂上まで登ると、登頂証明書がもらえる。
気軽に越せる「天下の険」だ。

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大友美有紀 18年10月7日放送

181007-03
Photo by Rubber Soul
「低い山・近い山」 港区・愛宕山

山手線内でいちばん高い人工の山は、新宿の箱根山。
では23区に自然地形の山はあるのだろうか。
それは、港区の愛宕神社がある愛宕山。
標高25.7メートル。天然の山で、23区内でいちばん高い。
神社正面の急な石段を登っていくと、三角点がある。
これは、山である証。
江戸開府のおり、徳川家康の命により、
山頂に愛宕神社が創設された。
江戸のいちばん高い場所に、
防火の神様として祀られたのだ。
当時は、山頂から町並みや芝浦、品川の海が見渡せた。
数多くの浮世絵も描かれている。

 多くの人が茶屋から眺めを楽しんでいる
 急な石段をそろりそろりと降りていく人々もいる
 眼下には江戸の町並み
 遠くには海と船

広重が描いた「芝愛宕山上見晴之図 」。
見晴らしがいいことから、お月見の時期などは
人気のスポットだった。
今ではもうビルに遮られて海は見えない。
でも見上げれば、空は見える。
23区内のいちばん高い山で、
月を眺めてみてはいかが。

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大友美有紀 18年10月7日放送

181007-04
Photo by *_*
「低い山・近い山」 文京区・椿山(つばきやま)

文京区は、青梅を頂点とする武蔵野台地の最東端。
5つの台地がある、坂の多い区だ。
その台地のひとつ、関口台地には南北朝の頃から
椿が自生する美しい場所だった。
椿山(つばきやま)と呼ばれていた。
このあたりには黒田備前守の下屋敷や
松尾芭蕉の庵もあったという。

 明治11年、1878年、軍人で政治家の
 山縣有朋が私財を投じ、つばきやまを購入。
 庭と邸宅をつくった。
 
山縣は、椿山荘(ちんざんそう)と命名する。
そう、現在ここには、ホテル椿山荘がある。

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