2023年07月01日

執筆者佐藤延夫

東京国立博物館

富士山 「最古の絵画」

日本の美術史を紐解くと、
現存する絵画の中で
富士山が描かれた最も古いものは「聖徳太子絵伝」。
11世紀の作品だ。

黒い馬に乗った聖徳太子が、
颯爽と富士山を飛び越えている。
しかしこの富士山はあまりにも実物と形が違うため、
想像で描かれたのではないかという説がる。

今日は7月1日。
富士山の山梨側、吉田口のルートは、今日が山開き。

2023年07月01日

執筆者佐藤延夫

Photo by J Lippold

富士山 「異名」

富嶽。芙蓉峰。蓬莱山。
これは全て、富士山の別の名前。
いわゆる異名だ。
そのほかにも、
竹取山、二十山、四面山など
もはやどこの山ともわからない名前も存在する。
その数、百を超えるという説も。
それだけ富士山が偉大だということかもしれない。

今日は7月1日。
富士山の山梨側、吉田口のルートは、今日が山開き。

2023年07月01日

執筆者佐藤延夫

富士山 「登頂者」

富士山に登頂した最初の人物は、
役小角とされている。
奈良時代の山岳呪術者で
修験道の開祖とも言われている。
699年。
伊豆大島に流刑になると
海を走って駿河に渡り、
富士山で修行した、という話が
平安時代の説話集に残されている。
その真偽はともかく、
役小角は実在する人物だったようだ。
富士山にまつわる伝説は多い。

今日は7月1日。
富士山の山梨側、吉田口のルートは、今日が山開き。

2023年07月01日

執筆者佐藤延夫

富士山 「水墨画」

富士山が描かれた水墨画と言えば、
「富士三保清見寺図」。
室町時代の水墨画家、
雪舟等楊の作品とされている。
三保の松原越しに見える富士山という構図は、
後世の作品に多大な影響を与えたそうだ。
富士山の山頂は、三つに分かれる
「三峰型」になっているが、 
それは信仰の対象として
三という数字が重んじられていた証と言える。
その後、江戸時代中期なると
富士登山が人気を博し、多くの絵師たちが
富士山を描くようになった。

今日は7月1日。
富士山の山梨側、吉田口のルートは、今日が山開き。

2023年07月01日

執筆者佐藤延夫

富士山 「女性初」

明治5年まで、
女人禁制が厳しく守られていた富士山。
実は江戸時代、
密かに登頂に成功した女性がいる。
その人の名前は、高山たつ。
豪農の娘で、尾張名古屋藩の奥女中だったと伝えられている。
彼女が登頂したのは1832年。
髪を切り、男の髷を結って
5人の協力者とともに頂上を目指したという。
たつはその後、男女平等を説き、
女性の富士登山が実現するように力を尽くしたそうだ。

今日は7月1日。
富士山の山梨側、吉田口のルートは、今日が山開き。

2023年07月01日

執筆者佐藤延夫

富士山 「オールコックとフジヤマ」

初めて富士山に登った西洋人。
それは、初代駐日英国公使、ラザフォード・オールコック。
今から150年以上前、1860年9月のことだ。
外交官は日本国内どこでも旅行できる権利がある、という
日英修好通商条約にもとづき、
富士登山に挑戦している。
当時は桜田門外の変や
浪士による外国人殺傷事件が相次いだため、
幕府は登山をやめるよう必死に引き留めたという。 

オールコックは幕府を説き伏せたものの
旅は当初の希望とは逆の大所帯になった。
インド海軍の大尉、武装した公使館の職員、植物学者、
科学観察要員。そして犬一匹。
幕府側も、役人や目付のほか通訳、
荷物を運ぶ荷役、馬は30頭にも及んだ。

藤沢を過ぎて酒匂川を渡り、小田原へ。
道中では、熱く蒸したさつまいも、魚のフライ、
ブドウや季節の果物にも舌鼓を打った。
とりわけ薄く切ったスイカはお気に召したようだった。
さらに箱根から三島に移動し、
沼津を越えて吉原宿に到着すると台風がやってきた。
ようやく登山を始められたのは、その数日後。
4時間ほど登って、当時の六合目で宿泊。
次の日も4時間ほど登り続け、頂上に辿り着いた。
山頂ではイギリス国旗を掲げ、シャンパンで乾杯したそうだ。

富士山に登ったのは合計8時間。
帰りは3時間足らずで下山したと記録には残されている。

富士山の山梨側、吉田口のルートは、
今日7月1日が山開き。
オールコックの記念碑がある富士宮ルートは
もうちょっと先なのでご注意を。

2023年06月25日

執筆者中山佐知子

松竹看板女優 「川田芳子」

開設されたばかりの松竹蒲田撮影所に
川田芳子が入所したのは1920年。

当時は女性役を女形が演じることも珍しくなかったが、
松竹は女優の起用に積極的だった。
芳子はすでに舞台で活躍しており、
最初からスターとして迎えられたのだ。

日本髪の似合う美貌と芯の強さ。
川田芳子は当時の日本女性の理想を体現した看板女優だった。

2023年06月25日

執筆者中山佐知子

松竹看板女優 「栗島すみ子」

栗島すみ子は川田芳子に続く
松竹蒲田撮影所の看板女優だった。
デビュー作は「虞美人草」で、
この映画のヒットとともにすみ子はスターになった。

19歳でデビューし、
33歳で引退した栗島すみ子の女優歴は短く、
蒲田撮影所が大船に移るとき引退を発表した。

それから19年後、突然ゲスト出演した映画がある。
栗島すみ子の存在感は圧倒的で
共演した田中絹代、杉村春子、山田五十鈴らが
戦々恐々とした様子が伝えられている。

2023年06月25日

執筆者中山佐知子

松竹看板女優 「柳さく子」

柳さく子は映画女優になる前からスターだった。
少女歌舞伎の看板女優だったのである。
しかし19歳で劇団が解散。
さく子は松竹蒲田撮影所の大部屋女優として
映画の道に踏み出した。

身長140数センチの小柄なさく子だったが
気の強さと堅実な演技力で
やがて主演の座を勝ち取っていった。
1925年、大阪毎日新聞の人気投票では
130万票を集めて堂々一位の座についている。

さて、その頃である。
似たような体つきの小柄な少女が
さく子の吹き替えをつとめるようになった。
14歳の田中絹代だった。

柳さく子は1924年、蒲田撮影所から下加茂撮影所へ移籍、
田中絹代は1925年、下加茂から蒲田へ移籍。
すれ違いのような一瞬の出会いだった。

2023年06月25日

執筆者中山佐知子

松竹看板女優 「田中絹代」

田中絹代が日本初のトーキー映画に出演したのは
1931年、21歳のときだった。

絹代のセリフには訛りがあったが
それがかえって甘い効果をもたらし、
初めて彼女の声を聴く観客を魅了した。

すでに栗島すみ子を抜いて
松竹蒲田の看板女優になっていた絹代は
トーキーの時代になってもその座を降りることなく
スターでありつづけた。