そのひとのこと
ストーリー 小松洋支
出演 坂東工
ぼくがそのひとを初めて見たのは、
10月のよく晴れた日のことだった。
午後まだ早い時間だというのに、
陽の光には斜光のようなセピアがまじっていた。
ぼくはクリーニング屋とコンビニの間の細い路地を抜け、
遅い昼食をとるために、顔なじみの喫茶店に向かっているのだった。
その喫茶店のウインドウの前に、そのひとは立っていた。
何を注文するか、あらかじめ心づもりをしておくんだろうな。
そう考えて、気にもとめなかった。
ちょっと驚いたのは、
食事を終えてぼくが店の裏手から戻ってきたとき、
そのひとがまだそこに立っていたことだ。
さっきと同じ姿勢で身動きひとつせず、
もの想わしげな表情で、ピザやホットケーキやナポリタンが陳列された
ウインドウを見つめている。
やせた小柄なひとで、まっすぐな黒い髪をうしろで束ね、
化粧気のない顔は白いというより青白く、
頬骨のあたりにうすいそばかすがある。
手には少し汚れた布製のバッグを提げていて、
中からなにかのパンフレットがはみだしている。
ぼくは気がかりなものを感じて、
何度もふりかえりながらその場をあとにした。
次にぼくがそのひとを見たのは、
1週間ほどたってからのことだった。
ぼくは商店街が川と交差するあたりを歩いていた。
アーケードがそこだけ切れて、空とひくい丘が見えるのが好きだった。
ふと見ると、橋を渡ったところにある古い洋食屋の前に
誰かが立っていた。
喫茶店の前にいたひとだった。
わずかに腰をかがめ、ウインドウを一心にのぞきこんでいる。
右手の人さし指と中指を下くちびるにあてている。
近寄っていってそっと視線をたどってみると、
どうやら目玉焼きののったハンバーグを見つめているらしかった。
ぼくはなんだか胸がくるしくなった。
そのひとはぼくの気配に気づいたのか、
ちらっとこちらを見て、真剣な表情をほんの少しゆるめ、
それからまた目をウインドウに戻した。
「あの、ぼくにできることはありませんか」
そう声をかけたかったけれど、もちろんできない相談だった。
3度目にそのひとを見たとき、
そのひとは区役所のそばの建物に入っていくところだった。
白いシャツを着て、ダンボールの箱を抱えていた。
その建物には看板が出ていた。
でもぼくにはそれが読めなかった。
ずっとあとになって、公園に住んでいる長老の虎猫が
あそこでは人間たちが食品模型というものをこしらえているのだと
教えてくれた。
出演者情報:坂東工 http://blog.livedoor.jp/bandomusha/
動画制作:庄司輝秋
公園の虎猫に、ぼくもいろいろ
教えてもらいたいです。