佐倉康彦 2015年6月14日

1506sakura

林を抜けて

       ストーリー 佐倉康彦
          出演 清水理沙

    橋の架かっていないところがいいと思いました。
    もちろんトンネルでつながってもいない。
    そんな島にすると決めていました。
    今のわたしには、
    本土から切り離された場所が必要でした。
    それほど気安く行き来のできない島。
    クルマでも自転車でも徒歩でも行けない、
    船でしか渡ることができない、ということが
    わたしの気持ちと立場を
    すこしだけ助けてくれるのではないかと
    勝手に思い込みながら。
    そして、
    そんな場所に向かうじぶんに軽く酔っていました。

    フェリーから見える瀬戸内の海は、
    少しも悲壮感がなくて
    穏やかで温かくて。
    擦り切れささくれ立ったわたしのなかのなにかを
    静かに撫でてくれているような、
    そっと手当をしてくれているような感じで…
    期待していた結界となるような強さも、拒絶もなく、
    どちらかと言えば
    曖昧に甘くひらけたやさしさばかりでした。

    同じフェリーに乗り込んだ観光客たちも
    一様に目を細め
    僅かに笑みを湛えながら、
    閉じた海を遠い目で眺めては、
    スマホの電子的なシャッター音を響かせ
    ときおり満足げに空などを
    見上げたりしていました。
    そんな風景の中にわたしも溶け込んでいるのかと思うと
    それも存外、悪くはないのかもしれないと考えました。

    乗船する前から、
    わたしの左手をギュッと強く握りしめたままの
    小さな右手は、
    少し汗ばみながら
    石塊のように硬く閉じられたままでした。
    その小さな手と同じように、
    かたくなに結ばれた口元は、
    唇が白くなるほど真一文字に閉ざされ
    一切の言葉も発することはありませんでした。
    そして、
    その小さなふたつの瞳は、
    海面が照り返すいくつもの光の粒を
    怒ったように凝視したまま
    けっしてわたしを見つめることは
    ありませんでした。
    もう一方の腕で抱きかかえられた
    手足の長い薄汚れたゴム人形の瞳だけが
    キラキラとわたしを見上げ、
    その口元は小さく微笑みを投げ掛けてくるのでした。

    わたしの手を
    痺れるほど強く握りしめ、
    怒気を孕んだ瞳で光の海を凝視する

    柔らかくて甘い匂いのする
    もうひとりの小さなわたし。
    この子は、
    今のじぶんの境遇を
    どう思っているのかということは、
    わたしの左手が痛いほど感じていました。

    あと数分で島に接岸するというときのことでした。
    フェリー乗り場の少し先に、
    山というよりは小高い丘のようなものが
    見えてきたときのことでした。
    固くにぎられた小さな掌から力がふっと抜けました。
    わたしは、
    そっとちいさな横顔をのぞき込みました。
    その丘の緑のせいなのか、
    ちいさなふたつの瞳にあった刺々しさが
    ほろほろと抜け落ちて行くようでした。
    わたしの瞳からも
    なにかが流れて落ちてゆきました。

    わたしは、
    あの丘の近くに部屋を借りようと思いました。
    丘に至るまでのあの林の道を抜けて
    この子と手をつないで
    ずっといっしょに昇っていこうと決めていました。

    その淡い淡いみどりいろのオリーブの林の先にある
    なにかを探しに。
                       了

出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

 

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勝浦雅彦 2015年6月7日

1506katuura

オリーブ

      ストーリー 勝浦雅彦
         出演 長野里美

病室の扉をあけた私は、眠っている祖母を見て愕然とした。
髪は抜け、肌は黒ずみ、右頬に大きなしみができている。
体中に差し込まれた無数のチューブが、彼女をこの世に留めていた。

「もってあと数日です」、と担当医は母に言ったそうだ。
大学出たての若い女医にまるで「いい天気ですね」と言うような口調で
そう告げられ、母は戦う意思のようなものを失くしたのだという。

「最近よく言ってたんよ。貴美子の夢を見るって」
私は母の呟きに答えず、祖母の顔を見つめていた。

私が離婚して、別の人と一緒になる、と言ったとき、
緞帳が降りたように、さあっと変わった祖母の顔色を今も覚えている。

それが、世間で言うところのW不倫であり、
相手が15歳も年上であったことが、当然のごとく我が家の問題など
軽々と飛び越え小さな街の大事件になった。

彼は測量技師であり、街の再開発工事のために長期で滞在していた。
私は小さな工務店に勤めていて彼と出会った。型紙のようによくある話だ。

不思議なことに、私も彼もお互いの夫婦関係に問題はなかった。
どちらも子供はいなかったが、セックスレスでも、冷え切ってもいなかった。
ただ、そうあるべき相手に出会ったとき、
あらゆる事情を踏み越えて二人は共同して事にあたるべき、
という認識が瞬時に出来上がったのだ。

私は彼のことを「相棒」と呼んだ。
恋人とか夫婦とか、
ショウケースの中のハンバーグやケーキくらいわかりやすくて
確かなものに意味を失った私たちは、
自分たちにしかわからないルールを決めて一緒に守っていく、
というかたちでしかその関係を続けられなかったのだと思う。
私たちはあやふやなものなかにある確かなものを必死でたぐりよせようとした。
それがこんがらがった毛玉に二人して手をつっこむような
愚かな行為だったとしても、私たちは真剣だったのだ。

当時、祖母はとにかく泣いた。
離婚なんてとんでもない、我慢がたりないんじゃないの、
感謝が足りないんじゃないの、そんなことをして神様が許すと思うの、と。
祖父をはやくに亡くし、
小学校の教師をしながら母を育てた祖母は、敬虔なクリスチャンだった。
毎週末、必ずミサに参加していたし、
私も時どき連れて行かれた。
カトリックの教えでは離婚は禁じられていた。

私の離婚が成立すると、私と相棒は街を出た。
それ以来、私は祖母と一度もつながりをもっていない。

翌日の朝、母は着替えを取りに帰り、私は祖母と二人きりになった。
空の表情はすっかり機嫌を取り戻していたが、
病室の中には湿った空気があふれ鼻腔をついた。
それは紛れも無く、死の匂いだった。

部屋の外窓にはいくつかの大ぶりの鉢植えが置かれていた。
珍しいことにオリーブの木があった。
濃い緑が、日の光に揺れている。

祖母からよく聞かされた、「ノアの方舟」を私は思い出した。
世界を覆う大洪水から逃れるために、
ノア一家と動物たちは男女のつがいになり方舟に乗り込む。
そのノアたちに新世界の到来を告げたのが、
オリーブの葉をくわえた鳩だった。
話を聞きながら、私はいつも疑問に思ったものだ。
その乗り込んだつがいの、
組み合わせが間違っていたらどうするの・・・。

「・・・さん、・・・さん」
振り向くと祖母の口がひらき、微かな声が漏れている。
慌ててベッドに駆け寄った。
「おばあちゃん、私よ。どうしたの、苦しいの?先生?」
次の瞬間、祖母の唇が動き、名前がこぼれた。
私は、たしかにそれを聞いた。

次の日、付き添いの母が眠りに引きずり込まれている間に、
祖母はこの世を去った。一瞬の悲しみのあとに、
手続きの嵐がやってきた。
母は速記官のように書類を記入し、判断をくだしていった。

病室の片づけを終え外庭に出ると、視界がぼやけた。
そこには東京にいるはずの「相棒」がいた。
ベンチに座り、シャツの裾をまくって鳩に餌をやっている。
どうして偶然のように、この人はいつも私の側にいるのだろう。
今、私はこのさえない年上の男を愛おしくただ会いたい、
と願っていたのだ。

「おばあさん」と彼は言った。
「うん、今しがた」
そう、と餌をやる手を止め、彼は深く溜息をついた。
「ひと目、と思っていたけどね。入る勇気なかった」
「うん」

私は、ポケットに手を突っ込み、
さっきまで一つの命を抱えていた白い病棟を見上げた。

最後に祖母が口にした名前。それは、祖父のものではなかった。
知らない名前だった。
私は別れの一歩手前で、はじめて祖母のことを理解したような気がした。
祖母は、誰と方舟に乗ったのだろうか。
それがあるべき「つがい」であることを私は祈った。

病棟から出てきた母が相棒をみとめ、会釈をした。
慌てて頭を下げた相棒の手から残りの餌がこぼれ落ちると、
鳩が一斉に飛び立った。

出演者情報:長野里美 株式会社 融合事務所所属:http://www.yougooffice.com/

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中山佐知子 2015年5月31日

1505nakayama2

クチベニが死んだ

     ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

クチベニが死んだ。
死んだ仲間は
たいがいこのあたりの浜辺に打ち上げられるが
クチベニは小さいし、目立たないから
誰も気づいてやれないかもしれない。

クチベニは外から見ると
爪の先くらいの白いちっぽけな貝だった。
固くて分厚い殻に閉じこもっていた。
艶も模様もない、ただ白いだけの制服を着て
しっかり口を閉じて生きてきたのだと思う。

クチベニを見ていると
僕は修道院のシスターを思い出すことがあった。
人生に多くを望まず
海の底で生きるために食べ、食べるために生きていたに違いない。
誰かにかまわれることがほとんどなかったし
たぶん死ぬときもひとりで死んだのだろう。

死んだクチベニの残した貝殻は
ぐるぐると波に遊ばれ、砂浜に運ばれる。
そして、それを拾った人が気づくのは
貝の内側にすっと引かれた赤い紅の色だ。

生きているときは決して見せなかった口紅の色。
表からは決して見えなかった色。

女は自分にしか見えない
もうひとつの顔を持っていると気づいたのは
その赤い色を見つけたときだったが、
赤という色の鮮やかさを知ったのも同じときだった。

 
出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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中川英明 2015年5月24日

1505nakagawa

     ストーリー 中川英明
        出演 地曵豪

ヤア、オ待タセ! 待ッタカイ。
会社ヲ出ル直前ニ、上司ニ捕マッテシマッテネ。
折角ノデートナノニ、遅レテ御免ネ。

トコロデ、ハイ! コレ、プレゼント。
キティチャンノ、ヌイグルミ。
前二君ガ好キダッテ言ッテタカラサ。
タマタマ通リガカッタ、店デ見カケテネ。
コンナニ大キイノハ、珍シイカラ、君ガ喜ブト思ッテ。

トコロデ、アノ話、考エテクレタカナ?
ウン、ソウ。僕ト、オ付キ合イシテ欲シイッテ話。

エ? ダメ? オ付キ合イハ無理? 出来ナイッテ?
ド、ドウシテ?

……エ? 
ダッテ、アナタ、本当ハロボットデショウッテ?

ハハハ、一体何ヲ言ッテルンダイ。
コノ僕ガ? ロボット? 

ソンナ訳ナイジャナイカ。
僕ハ、レッキトシタ人間ダヨ。

ウン? マズ、シャベリ方ガオカシイ? ソウカナ。
言ワナカッタッケ、僕、帰国子女ナンダヨ。
海外生活ガ長カッタカラ、日本語ガ片言ナンダ。
エ、片言ノ意味ガ違ウ?
ソウ言ウテイストノ片言ジャナイッテ?

ソレニ、動キガ、ギクシャクシテル?
アト、歩クタビニ
体内カラ、モーター音ガ響イテ、
ウィンウィン、ウルサイッテ? 
ハハハ、ソレハモータージャナクテ、キット筋肉ノ音サ。
ン? 普通ノ人間ハ、筋肉ノ音モ、体内カラハ響カナイ?
アレ? 人間ッテ、ソウダッタッケ?

ソレニ、コノ前、僕ガ
深夜ノガソリンスタンドデ、
1人デ、コッソリ、ガソリンヲ飲ンデイタッテ?
口ニ、ノズルヲ差シ込ンデ、燃料ヲ給油シテイタダロウッテ?
シカモ、ソレガ、ハイオクダッタッテ?

フーン、ソウカ。ソンナコト、アッタカナア。
チナミニ、アクマデ、参考マデニ聞クンダケド、
今ノ話ッテ、
ハイオクナノガ問題ニナッテルワケジャナイヨネ?
軽油ダッタラ許サレルッテ話? …ジャナイ、ヨネ。ヤッパリ。
イヤ、一応聞イタダケ。

マア、トモアレ、
ソノ、ガソリンスタンドデ君ガ見タッテ人ハ、
キット他人ノ空似ジャナイカナ。

ダッテ、知ッテルカイ?
人間ニハ、自分ト全ク同ジ顔ヲシタ人ガ
コノ世界ニ、アト2人ハ、イルンダッテサ。

ダケド、考エテミルト、変ダヨネ。
ドノ人ニモ、自分ト同ジ顔ヲシタ人ガ、
アト2人イルワケデショ。

ト、言ウコトハダヨ、
モシ今、地球ノ人口ガ、全部デ72億人イルトスルト、
人ノ数ハ72億デモ、顔ノ数ハ、全部デ24億種類シカナインダ。
コレッテ何ダカ変ダヨネ。ハハハ。
人数ノ割ニ、顔ノラインナップガ、不足シテルヨネ。

エッ、顔ト言エバ、
何ヨリ、僕ノ顔ガ一番嫌?
ソノ妙ニ人間ニソックリナトコロガ、見テイテ気持チガ悪イッテ?
ソックリモ何モ、人間ダカラネエ。

ヘエ、ソウ言ウノヲ「不気味ノ谷」ッテ言ウンダ?
フムフム…
ロボットノ顔ガ、人間ノソレニダンダン近ヅイテ行クトキ、
最初ノウチハ、似テクルホドニ、親近感ガ増スガ、
アル一点ヲ超エルト
急ニソレガ、不気味ナモノニ感ジラレルヨウニナル。
ヘエー、ソウ言ウ現象ガアルンダネ。

デ、僕ノ顔デ、ソノ「不気味ノ谷」現象ガ発生シテルッテコト?
ソリャ心外ダナア。

ダカラ、オ付キ合イハ無理? 気持チ悪イッテ?
チョット待ッテヨ。ウーム。

……分カッタ。
君ガナゼ、僕ヲ、ロボットト思ッテルカハ解セナイケド
愛スル君ノタメダ。
少シ待ッテテネ。チョット今、トイレニ行ッテクルカラ。

…………。

ヤア、オ待タセ!
ドウカナ。トリアエズ、今マデノ顔ヲ、丸ゴト首カラ外シテ、
サッキノ、キティチャンノ顔ヲ、代ワリニ乗セテミタンダケド。

エ? 人間ハ、顔ヲ取リ換エタリ出来ナイッテ? 
ア、 ソウダッタッケ。ジャア嘘、嘘。今ノ無シ。忘レテ。
メモリーノ消去…モ、人間ッテ出来ナインダッタッケ?

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

 

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直川隆久 2015年5月17日

1505naokawa

治療してはいけないのでしょうか?

      ストーリー 直川隆久
         出演 岩本幸子

妊娠2ヶ月目の母親です。
母子ともに大変健康な状態ではあるのですが、
今、悩んでいることがあります。
お腹の子の顔に、遺伝子美容治療を施すかどうかです。

わたしも夫も、また両家の両親も、十人並以下の容貌ですので、
認めたくはありませんが、
娘のルックスに大きな期待はできないと思います。
ですが、それでは娘が不憫です。
将来自分の容貌には自信を持って生きられるように
させてやりたいと思うのです。

ネットでいろいろと調べましたところ、
2,000万円ほどだせば、胎児の遺伝子を操作し、
ほぼ芸能人レベルの顔にする治療が病院で受けられるようです。

わたしとしても、娘の顔が自分にも主人にも似ていないものに
なってしまうことには寂しさを感じますし、
事実主人はこの話に乗り気ではありません。
また、「子どもの人権を侵害する」とのことで、
一部の団体のみなさんからこの治療はかなり攻撃されていることも
知っています。

実は、わたしも娘を授かる前はそう思っていました。
でも、自分が妊婦となり、
ママ友さん達の輪の中で実際に治療を受けられた方の話を
何度か聞いている間に、少しずつ考え方が変わってきました。

その種の団体の方々はいろいろなことをおっしゃいますが、
その方々は娘の人生に責任を持ってくれるのでしょうか。
娘が人生を最大限楽しむことを阻む権利が、
あの方々にあるのでしょうか。
容貌のよさが娘の人生に自信を与えこそすれ、
何か不具合をもたらすとは思えません。

「自分と同じ顔に生まれてほしい」というのも
「親のエゴ」ではないでしょうか。
しかも、2,000万という、ローンさえ組めれば手がとどく金額なら、
できるだけのことをしてやるのが親の務めではないでしょうか。
(これが『1億』といわれればむしろあきらめもついて、
 気が楽だったかもしれませんが)

以前、どこかの国のプリンセス姉妹の、
妹さんのほうにばかりマスコミの注目が集まったことがありましたね。
お姉様の心労はいかばかりだったでしょう。
結局、世間というものは、女の顔しか見ていないのです。
悲しいですけれど。

たしかにもし娘が大きくなってこのことを知れば、
多少はショックかもしれません。
でも、「生まれてからいじった顔」ではなく「生まれ持った顔」なのだから、
なんら恥じることはないのよ、と話せば、
わかってくれるのではないかと思います。

わたしは、間違っているでしょうか。
3ヶ月目に入ると、遺伝子操作のリスクが高まるということなので、
近々に結論を出さねばならず、
ネットユーザーの皆さんのお知恵をお借りすべく、
書き込みさせていただきました。

ご回答、よろしくお願い申し上げます。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・

この質問に、回答しますか?

出演者情報:岩本幸子 劇団イキウメ http://www.ikiume.jp/index.html


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川野康之 2015年5月10日

1505kawano

自分のお尻を見たことがありますか

        ストーリー 川野康之
           出演 遠藤守哉

自分のお尻を見たことがありますか。
いえ鏡でじゃなくて直接にです。
ないですよね。
体の構造から言ってそれはむずかしい。
多分ふつうの人は一度も自分のお尻を見ないまま一生を終わる。

別にそれはそれでいいような気もしますが、
でもお尻の気持ちになって考えてみてください。
それはちょっとさびしいのではないか。

人間の体の中でお尻ほどむなしさを抱えたパーツはないだろうと思う。
人の後ろに、人の下に、いつでもお尻はそこにいる。
どこに行く時でもお尻はついてくる。
なのに人はお尻を一度も見たことがない。
その存在を意識することすらほとんどないのだ。

どんなに晴れた日でも、初夏の風がさわやかな日でも、
お尻はパンツとズボンに覆われていて、
薄暗く湿った空気の中で、息をひそめている。
お尻に光をあてられることはめったにない。
思い出してみてください。
今までに一度だって、自分のお尻を太陽の光にあてたことがありますか。
お尻もたまには新鮮な空気に触れてみたいだろうし、陽の光を浴びてみたいだろう。

「頭隠して尻隠さず」、という言葉がある。
物陰から生白いお尻が露わに見えているビジュアルは、
想像するだけでも恥ずかしい。
世の中のものを悲劇的存在と喜劇的存在に分類すると、
お尻は明らかに喜劇である。
泣いている赤ん坊に「お尻」とつぶやくと、泣き止んで笑い出します。

笑われるのはいいんです。
でも隠されたり無視されるのはいや、とお尻は思う。

お尻が生白いのはお尻のせいじゃない。
太陽の光にあたったことがないからなんです。

お尻は顔がうらやましい。

ある夜、人が寝静まるのを待って、お尻は顔に話しかけた。
「おい、顔」
最初のうちなかなか気づかなかった顔は、やっと、返事した。
「なんだ、お尻か。きみ、しゃべってたのか。ぶつぶついうから、おならかと思った」
そう言ってぷっとふきだした。
「いや笑ったりしてすまない」
「話がある」

顔とお尻はひさしぶりに駅前の屋台で一杯飲んだ。
一つのベンチに背中合わせに座っている。
体の構造から言って、お互いに向かい合うことはできないのだ。

「おれの人生って何だ」
お尻は話し始めた。
「おれは生きていると言えるのだろうか。
 おれの毎日はいつも人の目に触れないところに隠れて、
 パンツのしみを眺めているだけだ。おれは存在していると言えるのだろうか」
顔は黙って聞いている。
「顔、お前はいいなあ、個性があって。人間の顔は一人一人みんな違うんだ。
そうだろ。おれはどうだ。お尻なんてみんな同じじゃないか」
「だってきみはお尻なんだぜ。お尻ってことが個性じゃないのか」
「その通りだ。泣いてもいいか」
背中を通してお尻のむせび泣くのが伝わってきた。
顔は胸の奥がちりりと痛んだ。
お尻はいつもそこにいたんだ。
なのに自分はちゃんと見てやったことがない。
いや、ときどき彼の存在を忘れていた。
恥ずかしいと思うことだってあった。
背中からお尻のさびしさが伝わってきた。
自分は今までお尻を、お尻の気持ちを、
お尻の存在をあまりにも粗末にしてきたのではないか。
お尻だって人間なのに。いや人間の一部なのに。
お尻、すまない。
顔はお尻を抱きしめてやりたかった。
だけど体の構造から言ってそれはできない。
そのとき、お尻が言った。
「おれは顔になりたい」

男は目が覚めた。
寝相が悪かったのだろうか、背中が痛い。
きのうは酒を飲まなかったはずなのに、なぜか二日酔いがする。
顔でも洗おう。
ふらつく足で洗面所に行って、鏡をのぞいた。
顔がない。
正確に言うと、顔の位置に顔じゃないものがある。
お尻だった。

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

 

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