遺言
最愛の妻ジュスティーヌ。きみのおかげで幸せな人生だった。
「ありがとう」という言葉を君には数え切れないほど言ってきたけれど、
この「ありがとう」が最後の「ありがとう」になると思う。
おそらく、私は、1週間もしないうちに神に召される。
その前に最後の気力と体力を振り絞って、
君に言っておかなくてはならないことがある。
言うべきなのか、言わざるべきなのか。ずいぶん迷った。
そもそも、このことを君は知っているのだろうか。知らないのだろうか。
世の中の人は、まったく知らない。
その証拠に、私はかつて一度たりとも、
スキャンダルに見舞われたこともなければ、
それを公然の秘密として、周りに囁かれたこともない。
ごく一部の男の友人たち、ジャン・ピエール、パトリック、
ジャン・リュイ、フランソワ、ジャン・クロードだけしかしらない。
彼らは私の恋人たちだ。
子供の頃から、自分が女性を愛せないということは気がついていた。
ただ、わたしは必死に隠した。
君も知っての通り、私の家は厳格で
1ミリたりともスキャンダルを許さない家柄だった。
本当の自分を封じこめて暮らしているうちに、
私の中の、どうしても男性を愛したいと言う気持ちが
薄まってきたような気がした。
もしかすると、女性とも生きていけるのではないかという
希望のようなものが生まれた。
その頃、リシャール伯爵が紹介してくれたのが、
ジュスティーヌ、君だった。
わたしは、あの出会いを一目惚れだと思った。けれど、それは、
クラナッハが描く女性像を美しいと思うのと同じことだった。
君は、女性として、人間として素晴らしかった。
君との暮らしは楽しく充実していた。
プッチーニやドニゼッティのオペラへ行き、
タイユヴァンで、牛の腎臓、血のソースや、子羊の脳みそのフライを食べ、
気持ちよく晴れた昼下がり、君はヴァージニア・ウルフを読み、
僕は、フラン・オブライエンを読んだ。
ふたりともセックスには淡白なことを、神に感謝した。
ある日。
橋の上で、コンドームをもらった。
くれたのは、ジャン・ピエールだった。
私の最初の恋人であり、本当の私を呼び起こしてしまった男だ。
もはや隠してもしょうがないので、言っておくと、
私は、男という字を書いただけで、ジャン・ピエールという名前を書くだけで、
性的興奮を覚えてしまう。
ジュスティーヌ、申し訳ない。それが私の本性なのだ。
ジャン・ピエールは、正確に私のことを見抜いていた。
彼の告白とも誘惑ともつかぬ、
“橋の上でいきなりコンドームを渡す”という行為が、
ポピュラーなものなのかどうかはわからない。
ただ、ストレートすぎて、逆にユーモアがあり、
なぜか、ボードレールの“人工楽園”を私に思い出させた。
その後の4人、パトリック、ジャン・ルイ、フランソワ、
ジャン・クロードとの出会いでは、
私が、橋の上でコンドームを渡す側にまわった。
それから、病を得るまで、
私たちは、極くふつうの恋人同士としてつきあってきた。
誰にも知られてはならないという以外、極くふつうの。
楽しかったばかりではない。夜遅く帰って君の寝顔を見るとき、
大好きな“ドン・ジョヴァンニ”のツエルリーナの
アリアを聴いている君の横顔を見るとき、
自ら命を絶つべきではないか、その前に5人の恋人たちを殺してから。
と思ったこともあった。
それにしても、“密室の恋”と“未必の故意”はよく似ている。
やはり、こうして真実を最後に君に伝えてよかったと思う。
ずっと、言えなかった。
ほんとうに、申し訳ない。そして、ほんとうに、ありがとう。
ところで、先週、橋の上で話していた相手はジュリエットだね。
君の新しい恋人だね。
それまでの君の恋人は、時系列で
デルフィーヌ、フランソワーズ、イヴォンヌ、ステファーヌ、
そして、今のジュリエット。
この5人でまちがいないよね。
出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP