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水下きよし 「しあわせの味」

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しあわせの味・上(水下きよし七回忌特集 )

   ストーリー 直川隆久
   出演 水下きよし

津田は、スーツのポケットの中で鍵束をじゃらりと鳴らし、
由貴子の部屋の鍵を手探った。  
一週間ぶりにあの女と顔を合わせる瞬間、どういう態度をとったものか思案する。  
開口一番怒鳴るべきか。だが、日頃大きな声を出し慣れてもいない。
声がうわずって間抜けな調子に見えてしまっては損だという気がする。
まさか刃物まで振り回しはしまいが、逆上して大声でもだされては面倒だ。
やはり強い態度ででるのはやめておこう。  であればにんまりと笑いながら
「あのさ。家に電話かけてきちゃ、だぁめ。ね?」というあたりが
体力的にも経済である。
怒らず。どならず。そうすれば根は素直な由貴子のことだ。
こちらの人間的スケールに感動さえおぼえるかもしれない。  
一石二鳥だ。そうしよう、と津田は心を決める。

5階で停止したエレベーターを降り、右手に曲がる。
由貴子の住むコーポの廊下は宅配便の配送センターに面していて、
トラックの出入りがよく見渡せる。
最近のネット通販には注文日当日届けというサービスまであるらしい。
以前なら、日本中に翌日荷物が届くということだけでも十分に驚異だった。
それが今や「当日」である。
えらいことだ。
世の中のサービス競争がどこまですすむか、それを思うと津田は半ば呆然とする。
果てしなく競争し続けられる人間しかいわゆる勝ち組になれないとしたら、
自分はどうなのだろう?
とはいえ津田はそれ以上考えを深めることもしない。
まあ、面倒なのだ。

津田という人間は簡単に言って、人生における当事者意識というものを欠く男だった。
先週、奥山由貴子が自宅に電話をかけてきたときも、
いつになったら一緒になれるの、とすすり泣く由貴子の相手をするのが
だんだん億劫になり、だまりこんでしまった。
面倒ごとがおこったときは、とりあえず考えることを停止し、
最終的には都合のいい結果を誰かがもたらしてくれるのを待つ。
そんな姿勢で四十数年生きて来た。そしてその戦略は不思議にも
それなりの結果をおさめてきたのだった。
だから今日ここに来たのも、みずから積極的に問題を解決するつもりというよりは、
そろそろ自分の顔を見せれば由貴子も機嫌が治るのではないかという
ある種の楽観からだった。

奥から2軒目。鉄のドアの郵便受けに、水道工事屋のチラシがつっこまれている。
鍵をとりだす。
そのとき背後から
「津田さん」
と声がした。
「お。奥山くん。お」
と津田があわてるのを見て、奥山由貴子はふふ、と照れくさそうに笑う。
黒いカーデガンをはおり、サンダル履きの素足が寒々しい。やせたようにも見える。
「でかけてたの」
「うん。これ買いに行ってたんです」
と由貴子が片手はポケットにつっこんだまま、スーパーのレジ袋をがさりと掲げる。
黄色い中華麺の袋がふたつ入っているのが透けてみえた。
「…今日ぐらい、来てくれると思ってた」
そう言いながら、奥山由貴子が体を津田のほうへ押し付けて来た。

その服の奥の、体の柔らかみを感じながら、津田は思い出している。
たしかに、津田と奥山由貴子の関係はラーメンからはじまったのだった。
奥山由貴子は津田の職場の派遣社員だった。
会話の流れからお互いラーメン好きと知れ、
津田が自分のブログを教えた。その翌日由貴子が
「津田さんのラーメンブログ、ステキです~ 
 ラーメンの印象をタレントにたとえるのがオリジナルですね!
 こんど津田サンの生コメントききたいです!」というメールをよこしてきた。
津田は、お、と思った。そういうことか、と。
津田の後ろでコピー機が空くのを待つ由貴子が、
いつも妙に体を近づけてくるな、とは思っていたのだ。
 奥山由貴子がそれほど美人でもないことがやや不満だったが、
逆に「この程度の女なら、それほど男への要求も高くはあるまい」
という自信を得た津田は、由貴子を食べ歩きにさそいだした。
二人は昼休みのラーメン屋探訪を重ねる。
ラーメン屋で、津田は饒舌であった。さしたる投資をせずとも、
誰でもがもっともらしいことを語れるのがラーメンのよいところだ。
津田のラーメン批評に感化されたのか、由貴子がときおり
「食べるって、つまり愛なんですよね」などと芝
居がかったセリフを言うのには鼻白んだが、
脂にぬめった唇を舐める由貴子の様子を眺めると、津田は興奮した。
外出は夜に時間を移し、さらに――と、あとはよくある話だ。
二人は男女の関係になり、二年がすぎる。

しかし――というべきか、やはり、というべきか――津田には妻子がいた。
二人の将来についての津田の考えを由貴子がおずおずと訊いてくるたび、
津田は言葉をにごして時間がすぎるのを待った。
そうしていると、きまって由貴子のほうから、
「ごめんなさい、へんなこと言って。忘れて」と謝ってきた。
由貴子は津田にとってたいへん都合のいい女だった。
由貴子のそんなところが、津田は好きだった。
だが先週、不穏な波風が立った。
由貴子がビーフストロガノフにはじめて挑戦したのだが、
料理好きの彼女のわりにはできが悪く、津田は半分残したのだった。
どうしたのと訊く由貴子に、まずいから、と正直に答えられず、
帰ってから妻のつくる料理を食べなければならないからだ、答えてしまった。
 
不用意な一言が、おさえにおさえてきた感情を決壊させたのか――
津田が自宅に戻ったころを見計らい、由貴子が半狂乱で電話をかけてきた。
 その後の顛末は先ほどの通りである。連絡をとらぬまま一週間をやり過ごし、
ほとぼりがさめた頃とふんだ津田は、今、ふたたび由貴子の家の玄関にいる。

津田がドアを開けると、何かあたたかな料理の匂いが漂って来た。玄関でかがみ、
靴ひもを解く。紐の先がほつれているのに気付く。
妻に言って買っておいてもらわないと―
「何かつくってるの?」と顔をあげて津田が訊く。
「わかります?」
「ラーメンのスープつくってるんです」
「ラーメン?家で?」
「津田さんの一番好きなものを、自分の手でつくりたいって思って、挑戦したの」 
背中をむけたままで由貴子が言う。
「味見してくれます?」
そう言って、少し顔を赤らめて由貴子は靴をぬぎ、あわてて津田の横をすりぬけた。
かわいいことを言うじゃないか。
津田は、テーブルにつき、料理ができるのを待った。
鍋の湯気でほどよくほとびた空気につつまれながら津田は考える。
たしかにおれは、勝ち組じゃない。
でも、平均よりは、ちょっとだけツイてる人生をおくってるのかもしれないな。

出演者情報:水下きよし 花組芝居 http://hanagumi.ne.jp/

 

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しあわせの味・下 (水下きよし七回忌特集)

   ストーリー 直川隆久
   出演 水下きよし

津田の目の前に、由貴子が丼を、片手で置いた。
その動作のぞんざいさに一瞬驚く。怒っているのか。
津田は、上目遣いに由貴子の顔をみやる。
しかし、目に入ったのは、屈託のない笑顔。
「サムゲタン風のスープなんですよ」と由貴子が言う。
津田は、ほっとしながら、へえ?と大げさに声をあげてみせる。
「朝鮮人参が入ってるの。最近寒くなってきたでしょう」
「うん――あ、え?朝鮮人参?なんか、すごい、本格的」
「津田さん、先週、ちょっと鼻声だったから」
たしかに、その日は少し熱っぽく、風邪のひきはじめのような感覚がしていた。
――一週間、連絡はとらずとも心配はしてくれていたのか。
妻からは「大丈夫?」の一言もなかったというのに。
由貴子。優しい女だ。
「食べて」

由貴子に促されて津田はレンゲを手にとり、湯気のたつスープを一口すする。
やわらかであたたかいうまみが、口の内側にしみこんでいくのがわかる。
しっかりと時間をかけてとられた出汁。
この間のビーフストロガノフとは随分違うじゃないか。
「おいしい?」
「うん」
「よかった」
「しみるね」
「うれしい」
「味にトゲがない。無化調だね」
むかちょう、つまり化学調味料を使っていない、というラーメン好きのジャーゴン。
妻は知らない言葉。
「鳥のだし?でも、鳥よりこってりしてるね」
「サムゲタン『風』だから」由貴子の顔に頬笑みが広がる。
「次の課題は麺なんですよねえ」
由貴子が津田の向い側のイスに腰をおろす。
「津田さん、わたし、本当に反省しているの」
 津田は麺をずず、とすする。
うん、たしかに、スープはこれだけピントがきたいい出来なのに、この麺はないよな。
スーパーで売ってる蒸し麺じゃさ。と津田は心の中で言う。
「この間はどうかしてたの」と由貴子は続ける。
丼を持ち上げてスープをすすりながら、その話か、もういいじゃないか、
と津田は思う。
「怒ってます?」
「怒ってないよ」
「ねえ、津田さん」
津田は丼から目をあげる。意外なほど近くに由貴子の顔があった。
「津田さんのためにこれからもずっと…ラーメンつくらせてくれる?」
由貴子のしおらしい言葉に、津田はあらためて安堵する。
やっぱり、ちゃんと反省してくれたんだな。それでこそ、由貴子だ。
手軽に会え、うまい料理をつくって待っていてくれる女。
麺も、これから改善されることだろう。
これを、ひょっとすると幸せと呼ぶのかもしれない。
津田はしみじみと、そのありがたみを感じた。

由貴子が笑顔で津田の顔をのぞく。
「津田さん」
「ん?」
「わたしのほうが、奥さんより、おいしい?」
「え」
「あ…ごめんなさい。へんなこと言って」
 由貴子は笑みをくずさない。
「忘れて。もうこんなこと言わない」
「ありがと、由貴子」
津田は、由貴子の手をとろうと、右手を、向いにすわる由貴子のほうへのばす。
――女にはスキンシップが大切だ、と最近読んだ新書にも書いてあった。
だが、目に入った彼女の左腕に、津田は違和感を感じる。
カーデガンの袖の様子が、妙だ。
「由貴子。腕…どうしたの?」
「これ?」
由貴子が左腕をもちあげた。
肘から先15センチほどのところまでは、袖の中身がある。
しかし、その先は…脱がれた靴下のように力なくたれさがっている。
「見つかっちゃった」
由貴子が顔を赤らめる。
「え…?」
困惑する津田に、由貴子は微笑みを崩さず、訊く。
「ほんとに、おいしかった?」
そのとき、さっきから目にしてきたいくつかの情景が津田の頭の中でつながり、
ある予感を…悪い予感を結んだ。
片手でもちあげた、スーパーの袋。
サムゲタン「風」のスープ――
突き動かされるように津田はたちあがり、台所に走る。
背後で、由貴子の声がした。
「ねえ、津田さん、おかわりは?」
答えず、津田は鍋を覗きこむ。
鍋の中には、青ネギとともに、白くゆであがった何かがうかんでいた。

五本の骨が見え、それが…大事なものをつかむかのような形に曲げられているのが見えた。
みぞおちを締め上げられるような感覚に襲われ、津田は、後ずさりする。
その背中に、由貴子のやわらかい体がぶつかった。彼女の両腕が津田の胸に回される。
「おいしかった?」由貴子が繰り返す。
5秒ほど、沈黙があった。
津田はゆっくりと振り返り、由貴子の顔を見る。
「うん」 
津田はうめくように言った。
「手作りだもんな」

出演者情報:水下きよし 花組芝居 http://hanagumi.ne.jp/

 

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水下きよし 「ちいさな旅人」



ちいさな旅人 (水下きよし七回忌特集)
                      

ストーリー 一倉宏
出演 水下きよし

その旅は私のささやかな そして曖昧な 自慢話だ

小学5年生になる春休みに はじめて長距離のひとり旅をした
電車を乗り継いで 関東のある街から 関西のある街まで
乗り換えは 上野 東京 そして京都 の3回
新幹線を京都で降りて 無事 叔母の住む街に向かうローカル線に乗った

平日の午後 乗客はまばらとはいえ 無人のボックスはなかったのだろう
私は車内を見渡し 窓際に白髪のそのひとのいる席の向かいに座った
おそらくは ちいさな会釈をして

いま知っていることばでいえば 「気品のある老紳士」
当時に知っていることばでいえば 「ちょっとかっこいいおじいさん」は
こころよく 小学生の私を迎え入れてくれた
なんだか・・・ どこかで見たような 頭のよさそうなおじいさん

2駅めも過ぎた頃だったと思う なにかの本を読んでいた私は 
向かいの そのひとに話しかけられたのだった
「本は 好きですか?」
決して口数が多いというタイプには思えない そのひとは
線路沿いの踏切が通り過ぎるあいだに ぽつりぽつりと私に話しかけた

「学校は 楽しいですか?」

いまでは 多くの悪口をいわれる「戦後民主主義教育」だけれど
すくなくとも 私の受けた学校教育はそんなものではなかった
それは 「希望」とか「理想」とか まっすぐに語るものだったから 
私はそれを 「大好きだ」と答えたと思う

そのひとはよろこんだ そして
「どの科目が好きですか?」 と 尋ねた

私はすこし考えて そして 2つに絞った
「国語 と 理科」
そう答えたら そのひとの眼が きらりと光ったことを忘れない

「そうですか・・・
 私もこどものころから 両方好きでした
 私は ずっと理科の勉強を専門にしてきましたが・・・
 どちらも すばらしい・・・
 そして はてしない
 ・・・宇宙も ・・・ことばも」

誰だったと思う?
その 向かいの老紳士は 誰だったと思う?

「どちらに進むにせよ
 ぼっちゃん がんばって勉強なさい」

そういって そのひとは 私の頭をなで 次の駅で降りた
そのひとは・・・ もしかして・・・

湯川秀樹博士 だったのではないか と思うのだ

その旅は私のささやかな そして曖昧な記憶の 自慢話だ
私の憧れが 勝手につくった思い出話でない限り

そのひとは素敵だった まっすぐに「未来」を語った

あの頃のこどもたちが みんな好きだった
「湯川博士」よ そして 「希望」よ 「理想」よ 「平和」よ
いつのまにか この時代のローカル線は・・・

どこへゆく?

*出演者情報 水下きよし 03-3709-9430 花組芝居所属

 

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中山佐知子 2020年2月23日「漢字変換」

漢字変換

    ストーリー 中山佐知子
       出演 大川泰樹

私ですか、はい、ここの神主です。   
といってもまだなりたてホヤホヤです。
去年父が倒れまして、私が跡取りだったもんですから、まあ。
大学のときに資格だけは取ってあったんですが
親父がたいへん元気だったので
安心してしばらく会社員をやっていたんです。
そしたらいきなりですもんね。
もともと定年まで勤める気はなかったですが、
まさかこんなに早く辞めることになるとも思いませんでした。
だいたい神社は世襲制なんですよ。
あ、お寺もそうですか、やっぱりね。

まあ、神さまにお仕えするということは
要するにしきたりを守るということですから
わかっていればそんなに苦労はないんです。

それより苦労したのがパソコンの漢字変換です。
神社の作法は覚えていましたし、
祝詞もどうにか唱えることができましたが、
会社でも家でも長年パソコンに頼っていたもんで
手を使って文字を書くことを忘れていましてね。
例えば厄払いの祝詞は神主が考えて作るんですが、
ぜんぶ漢字と万葉仮名で
平仮名やカタカナはひと文字も使えないんですよ。
せめて下書きくらいパソコンでと思っても
漢字変換がまるでできないんです。

神さまの名前も当然ながら全部漢字です。
見慣れた字でも読みかたが違います。
アマテラス、スサノオはともかく
アメノミナカヌシがすでにしてお手上げでした。
「天」とかいて「あめ」と読む最初の字が
雨雨降れ降れ の雨になってしまうんですね。
もちろん「テン」と入力すれば「天」になりますが
何しろ神さまのお名前ですからね、
そんなことしていいのかって、悩むじゃないですか。

少し短い名前でもう一度試してみようと
今度は山の神さまオオヤマツミを入力したら
すんなりとカタカナに変換されて
パソコン的にそれ以上の努力をしてくれませんでした。
試しにブラウザの検索窓でやってみたら
カタカナのオオヤマツミに
「真・女神転生」という文字がひっついてきました。
何ですかね、あれは。

文字を正しく書くってストレスが溜まります。
おかげで人生に対してすっかり気弱になりました。
え、ストレス解消法ですか。ええまあ、大きな声では言えませんが
毘沙門天、帝釈天、摩利支天、羅刹天、梵天って
仏教の神さまの名前を片っ端から漢字変換するんです。
こっちはスラスラ変換できます。ストレスゼロ。
お坊さんはいいですね。あなたが羨ましい。

あ、そうそう。
実は私たち、仏教用語を使うことを禁じられているんです。
この話はくれぐれもご内聞にお願いしますね。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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直川隆久 2020年2月16日「名前返上」

名前返上

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

いや、やっぱり、どう考えてもしたほうがいいよね。
名前の返上。
今さかんにテレビでやってるでしょ。
名前をさ、国に返上すれば、50万円もらえるってやつ。
来月いっぱいまでに手続きすれば、
さらにAmazonプライムが3年間無料になるって。

なんで国がそんなに躍起になってんのかわかんねえけどね。
ま、名前っていうもんで人間を管理するのがいろいろ非効率ってことらしいね。
同じ名前の人間もいるしね。
漢字とフリガナ、両方要るし。
国民ナンバーで管理したほうが簡単ってのは、ま、そうかな、と思うよね。
だったらもう、名前とかやめちゃおう、ってことなんじゃねえの。

でもおれ思うんだけどさあ、別に、なんの支障もないわけよ。
名前返上したって。
だから、みんなやっちゃえばいいと思うんだ。

今はさ、ネットで買い物するときとか、役所に届とか出すときに、
国民ナンバーと名前、両方を入れるでしょ。
あれ、めんどくさいじゃん。
みんなが名前を返上してさ…
もう、個人の特定のために名前ってものをつかわない、ってきめたらさ…
ネットショッピングで、名前とフリガナを入れる手間がなくなるんだよ。
大きいよ!あれ、ほんとめんどくさいもん。
全角カタカナでフリガナ入れたあとでさ、
半角で入れなきゃダメってのがわかったときのあの徒労感。すごいもん。

要するにさ、番号さえありゃ、事は足りるんだから。

え?日常生活はどうするのか?
いや、ふだんの生活は、
勝手に自分で自分にニックネームつけりゃいいわけだから。
明日から俺のことはタピオカって呼んでください!って
言やあいいんだから。言わねえけど(笑)。

でも、別にそれって新しいことでもないしさ。
オフ会で、ハンドルネームで呼び合うとか、あったでしょ。
本名知らないまま付き合うって、今はよくあるじゃん。
アメリカ行って、急にジミーとかむこうの名前で名乗るやつとかもいるでしょ。
まったくジミーって顔してないのに。
でも、ま、本人がジミーっていうんならジミーなんだろ、って、
そういうことになるわけだよな。むこうでは。
意外と、今までだって適当なんだからさ。
そうやって、みんな好き勝手な名前で生きてったらいいと思うよ。

子どもが生まれたときも、名前であれこれ悩まなくていいんだから、ラクだよ。
プリンでもポチでも適当な名前で赤ん坊のときは呼んでさ。
こどもが大きくなったら自分でニックネーム考えりゃいいんだから。
合理的だよ。

アイデンティティ?
…難しいこと言うね。
自分の名前は、自分そのもの?…ふうん、そんなもんかねえ。
自分そのものなら、自分の好きなようにすればいいんじゃないのかね。
よくわかんねえや。

まあ、そういうわけでさ、やっぱり俺、
来週あたり名前返上してこようと思うんだ。
そうなったら、50万円で何しようかな。
すげえでかい表札買って、そこに、番号彫るか。
意味ねえな(笑)。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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廣瀬大 2020年2月9日「パンチラ」

「パンチラ」

    ストーリー ストーリー 廣瀬大
       出演 地曵豪

「名前も知らない女学生の下着に、人生を救われたことがある」
小学生相手に、休日は、近所の空手道場で師範を務める、
堅物の親父の口から、
女学生の下着などという言葉が出て、
俺は面食らって親父の顔を見つめた。

この日、俺は大学四年生で、結局どこにも就職先を
見つけることができなかったことを報告しに、
実家に戻っていたのだった。
別に手を抜いていた訳でも、さぼっていた訳でもない。
最悪の就職難と言われた時代に、
俺は真面目に必死に就職活動をしたが働く先は見つからなかった。
「どうするんだ」とか、「なにやってんだ」とか、
そんなことはひとことも言わず親父は語り始めた。

「初めて言うんだけどな。大学時代に、
実は奇妙な新興宗教に片足を突っ込みかけたことがあって」
親父は俺と目を合わせることなく、縁側を眺めた。
下着とか、新興宗教とか、就職先が決まらなかった息子になんの話してんだ。
「最初はちょっとした東洋哲学を学ぶ勉強会だった。
加えて精神統一の仕方とか、それにともなう食事法とかね。
そこからちょっとしたヨガをやったりとか。
空手をやっていたこともあって、以前から座禅とかには興味があったし」
親父は苦笑いをしながら俺を見つめた。

「今、考えると没頭する性格が仇となった。
人間とはなんとも自分に都合のいい生き物だ。
時間を費やせば費やすほど、
その時間はムダではなかった、
そこには意味があったと思いたくなるもので。
その会でトレーニングを重ねるほどに、
彼らの信仰や言っていることにときに矛盾を感じても、
でも、この精神統一の方法は効果的なのではないか、
健康方法としては続けてもいいんじゃないか、
なんて自分に言い聞かせるようになって。
で、その会に参加するようになって一年が経ったころ、
大学のキャンパスで本格的に入信するように
迫られたわけだよ。遂に幹部二人に。
『生きる意味』だとか、『役割がある』だとか、
彼らはそんな言葉を使ってな。
その歳になるまで、そんなに自分が人に求められた
ことなんてなかったし、なんだか、話を聞いているうちに、
やってやろうじゃないか。
辞めたくなれば、そのとき辞めればいいじゃないか。
そんな風に思えてきて。
一度入ったら、絶対に辞められないんだけどな。
で、はい。入ります。やってみます。
と言いそうになったとき、ふと風が吹いたんだよ。

『人生の本質がうんぬんかんぬん』
『悟りがうんぬんかんぬん』
そんなことを話していた幹部二人と私の前を歩いていた
女学生のスカートをその風がめくった。
大仰な言葉を使って、高尚な話をしていたはずの
私たちの目はつい追いかけてしまった。
風のいたずらを。
パンチラを。
滑稽だろ。真面目な話をしてたのに。
私はもうおかしくてね。
笑いが止まらなくなって。
そのときふと、肩の力が抜け、楽に呼吸ができるようになった気がした。
で、冷静になって、入るのをやめることができたんだ。その宗教に。
つまり、あの日、あの名前も知らない女性のパンチラが
私を救ってくれたってわけだよ。
…この話がお前のこれからの人生にどう役立つかはわからないが」

アドバイスなのだか、よくわからないむちゃくちゃな
親父の話を聞いてから、もう15年以上が経つ。
僕は結局、その年、就職先を見つけることはできなかった。
でも、なんとかこうして生きて暮らしている。
親父の話が、当時の俺に役に立ったのかどうかはわからない。
だが、話を聞いて以来、人生に困難が訪れたとき、
俺はあの話を必ず思い出す。
若い真面目な親父の横を風が通り抜ける。
名前も知らない女学生のスカートをめくる。
それをつい追ってしまう親父。
見たことのないはずの滑稽な人間の姿が
はっきりと目に浮かぶ。
そして、俺の肩の力が抜ける。
ふと楽に呼吸ができるようになる。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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大江智之 2020年2月2日「クリぼっちセット」

「クリぼっちセット」

   ストーリー 大江智之
      出演 地曵豪

俺の名前は『大江智之』。
しかし、傍から見れば名などさして重要ではなく、
呼ぶ側の都合で俺は誰にでもなってしまう。

朝起きて顔を洗い、昨日の残り物を温める。
テレビから流れてくる浮かれた星占いが俺の今日最初の名前を告げた。
「今日の最下位はふたご座のみなさま!」
俺は『最下位のふたご座のみなさま』の一人になった。

時間は待ってくれない。
乾いた洗濯物を畳む間もなく、ドアを脚で開け放ち、燃えるゴミと一緒に家を出る。
2分早めてある腕時計を睨みつけながら、駅の階段を滑り降りた。
俺の努力を阻むように、改札機がパンポォーンと高らかに勝利宣言した。
「入れなかったお客様こちらで伺います!」
俺は『入れなかったお客様』になった。

この日の俺は、代わる代わる何度も別な何かになった。
『大江』『大江さん』『若手』『忘年会の幹事』『ご担当者』『みなさま』『組合員』
『Hi! Tomoyuki!』『大江くん』『みんな!』『ご提出がまだの方』…
そのたびに呼ばれた名前の人物を演じ、対応していく。

今日はクリスマスイブだった。
17時を過ぎた頃からだんだんオフィスの人も減ってきて、
特に予定の無い自分もなんとなく早めに上がったほうが良いような気がした。
ぼんやり眺めていたSNSに、ハンバーガーショップの広告が映る。
「クリぼっちセット販売中。自分らしいクリスマスを。」
ああ、ありがたい、今日くらい御飯作らなくても良いんだと思った。
暇な俺に少しでもクリスマスをくれるならと、家から少し離れた駅まで出向いた。
カウンターで「クリぼっちセット」を指差してこれくださいと注文する。
ここでは俺は、『お次にお並びのお客様』だ。

あまり来ない店だが、持ち帰りでとか、レシートは捨てといてくださいとか、
ルーチンのやり取りを上手にこなし、我ながらそつのないお客様になりきった。
脇によけて受け取り順を待っていると、
「112番のお客様ー!」
と店員が声を上げ、隣の『112番のお客様』らしき人が受け取った。
これはもしやと気がついたときにはすでに遅かった。
自分が誰か分からないのだ。
番号の名前が書かれているであろうレシートはすでにゴミ箱の中。
「113番でお待ちのお客様ー!」
自分の後ろにいた『113番でお待ちのお客様』らしき人が動く気配がした。
俺はいったいぜんたい誰なんだ?
自分の名前が分からないことにこれほどまでに恐怖したことはなかった。
「114番のお客様ー!」
周りが手元のレシートを確認している。
「114番の客さまー!!」
誰も動かない。
もしかして俺かもしれない。
しかし、俺だと断定するには証拠が足りな過ぎた。
「クリぼっちセットのお客様―――!!!」
俺だった。

クリスマスイブ。
そんな聖なる夜のラストに俺は、バーガーショップの全員が見守る中、
『クリぼっちセットのお客様』になった。
ネオンで彩られた夜の駅はとても美しかった。
メリークリスマス、俺。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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