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いわたじゅんぺい 2019年6月9日「かんな 2019夏」

かんな 2019夏

     ストーリー いわたじゅんぺい
       出演 齋藤陽介

娘のかんなは3歳だ。
7月に4歳になる。

かんなは昨日より前の日は全部
「2歳の時」と表現する。
明日のことは「今日寝たら」。
自分に理解できる、というか、
実感できる言葉に置き換える。

「かんなちゃん2さいのとき、
おれがみかいたくて
せいゆうでないちゃったんだよね」

仮にそれがおとといのことであっても、
かんなには2歳の時のことになる。
3歳を全力でいきている彼女にとって、
昨日より前のことなど
遠い過去になるのだろう。
ちなみに、おれがみとは折り紙のことである。

「明日遠足だね」
と僕が言うと
「きょうねたら?」
とかんなは聞く。
「そう、今日寝たら、遠足」
今日寝ないと明日は永遠にやってこないのである。
大人が決めた時間の概念に惑わされない。

長男が3歳の頃とはだいぶおもむきが違う。
長男はとにかく何かを記憶しては披露していた。

「きいろはぎんじゃせん、あおはとうじゃいせん、
ちゃいろはふくとしんせん」
というように地下鉄の路線を教えてくれたり、
1から100まで読み上げたり、
道行くクルマの名前を教えてくれたり。

それにくらべると、
かんなはあきらかに数字に弱い。
「いち、にい、さん、しい、ごお、ろく、
しち、はち、きゅう、じゅう、じゅういち、
じゅうに、じゅうろく、じゅうよん、
じゅうろく、じゅうに!」
と、後半はほぼ12と16のループなのだが、
本人的には「言えた!」
という満足そうな表情なので、
あまりとやかく言わないようにしている。
それでも、ようやく
12まではちゃんと数えられるようになって、
親としてはほっとしている。

数字には弱いが、本は好きで、
よく自分が先生役になり、
壁に向かって読み聞かせをしている。

もちろん字は読めないので、
絵を見ながら話を創作して進めていく。
時々
「さやちゃん、おしゃべりしないよ。しっ!」
と見えないお友達を注意したりする。

「どんな話を読んでるの?」と僕が聞くと
「うさぎさんのごほんだよ。
おんなのこはかわいいおはなしがすきだからだよ」
「そっか。じゃあ男の子はどんな話が好きなの?」
「おとこのこは・・ひとをころすおはなしとか?」

人を殺すお話!
予想外の角度から来た強目のパンチラインに
笑ってしまったが、
たしかに、ヒーローものも鬼退治も
人を殺すお話だ。
女の子から見えている男の子って、
そんな感じなんだろうか。

そんな長男もいまはもう8歳で、
野球を始めたせいで足が臭くて大変なのだが、
背が低いこともあり、
同級生の女の子と並ぶとお姉ちゃんと弟にしか見えない。
そんな長男に、先日突然、
「ねえ、パパ、ひにんするってなに?」と
聞かれ、たじろいだ。
まだ幼いと油断してたけど
もうそんな教育がはじまる年頃なの?
と、メンタルの弱い父はあわあわしたが、
そっちの避妊じゃなくて、
容疑を否認するの「ひにん」だったのでことなきを得た。

かんなは今年の春から
自転車で5分くらいの保育園に通っている。
夕方のお迎えは基本妻がやってくれるのだが、
この前初めて僕が迎えに行った。
するとかんなは
「なんでぱぱがくるの!ままがいい!ぱぱこないで!」
と言って大泣きになった。
「ぱぱがくるからままがこなくなるんじゃん!」
ともう取りつく島もないくらいに嗚咽して泣きじゃくり、
保育園の外に連れ出すこともできない。
それをなんとか
「ビスコがあるから自転車に乗って食べよう」
とビスコを食べさせながら自転車に乗せて
ようやく泣き止んだ。

まだ明るい4月の午後6時。
「せっかくだからサイクリングして帰ろっか」
と、ちょっと遠回りして、
運河沿いの緑道を自転車で走って帰った。
途中、ずいぶん静かになったな、
と思って後ろを見るとかんなはすっかり寝ていた。
ぐずるときは眠いときだというのを思い出した。

翌日、会社の後輩に
「リュックに鳥のフンついてますよ」
と言われてリュックを見たら
確かに白い汚れがついていた。

なんだこれと思ったが、
昨日自転車の後ろで寝てしまった
かんなにつけられた
ビスコまみれのよだれの跡であると気づき、
「そんなに汚くないから引かないで」
と言ったが後輩はあまり納得していなかった。

かんなはもうすぐ4歳。
5度目の夏が来る。



出演者情報:齋藤陽介 03-5456-3388 ヘリンボーン所属





かんな 2018秋 http://www.01-radio.com/tcs/archives/30559
かんな 2018春:http://www.01-radio.com/tcs/archives/30242
かんな 2017夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/29355
かんな:http://www.01-radio.com/tcs/archives/28077

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安藤隆 2019年6月2日「Y字路の、行かなかったほうの道での物語」

Y字路の、行かなかったほうの道での物語

   ストーリー 安藤隆
     出演 大川泰樹

 午後になると太る男は長靴をはいて石畳
の通りを突きあたりまで突進する。突端には
大多摩川の船着き場があり、近ごろ絶滅が叫
ばれるタマガワクジラ見物用のちいさなボー
トが数隻繋留されている。
 船着き場の記念写真屋が「クジラがジャ
ンプするぞー、撮るならいまだぞー」と勧誘
している。太る男は記念写真屋に見つからな
いように三角の立て看板に幾枚も貼ってある
見本の記念写真を眺めようと近づく。小嶋弓
の面影を追いかける太る男はとうとう船着き
場の記念写真に辿り着いたのだ。川をバック
に屈託なく笑うジーパンの娘は、記念写真屋
の腕を疑わせるピンボケだが、たしかに貧乏
旅行の若き小嶋弓に違いない。そこで太る男
は毎日のように古びた写真を眺めにくるので
ある。だが記念写真屋は太る男が大嫌い。な
ぜなら太る男は太った体で看板を覆って自慢
の見本写真をまるごと見えなくしてしまうか
らだ。怒ると甲高い中国語で怒鳴りながら追
いかけてくるので、船着き場の突端の階段ま
で逃げるものの、体重を制止しきれずに二段
あるいは三段、水中へつづく階段に足を突っ
こんでしまうのが常だ。
 ちいさな土産物店や食堂が隙間なく並ぶ
石畳の通りは影のような人々が行き交い賑わ
っている。常にほうほうのていの太る男が通
りの脇のドブ川で長靴をジュポジュポさせて
濁った水を吐き出していると、あたりをいつ
ものように静かな霧雨が覆いはじめる。仄白
い闇となって閉ざす。それを合図のように白
いカーテンをつまんで忘不了小吃店(おもい
でしょくどう)の客引き少女月紅(ユエホン)
がみじかい睫毛でウインクする。「月」とい
う字に「紅」と書くユエホンは貧しい育ちの
少女特有の大きな目をしている。
 太る男はいそいそとボウモアと生牡蠣を
注文する。月紅(ユエホン)はボウモアを白
酎(パイチュウ)用のちいさな歪みグラスに
そそぐ。生牡蠣は水餃子用のどんぶりに放り
こむ。今日もあれを言ってもらうのだ。
 心得た月紅(ユエホン)は太る男好みの
棒読みで言った。「ボウモアって、ストレー
トのほうが甘くて飲みやすいですよね」
 すると太る男は熱心にこたえた。「あっ、
ほんとだ、ボウモアはストレートのほうが甘
くて飲みやすいや!」
 海老色のボックスシートは背もたれが高
いので、月紅(ユエホン)はすばやく太る男
の太った指をとってスカートの中へみちびく。
少女らしい三日月のほんのさわりへ。

 くしゃみがつづけて七回でたのは、どこぞ
山の上ホテルのバーで太る男の噂をしてでも
いるのか。
 「太る男さんってまだY字路にいて何してら
っしゃるんでしょう」
「太ってんじゃねえの、あはははは」

 「あんたは日本人かね」
 石畳の通りの赤と青のアメリカ柄のテン
トの下、「豚の脳のスープ専門店」の店主で
ある中国人の父親が太る男に尋ねる。
 「そうそうそうそうそう! そう!」
 太る男は愛想よく答えてスープに浮かん
だ豚の脳を噛まずに呑みこむ。店主の横に利
発そうな長男が座って、わるい日本人を睨ん
でいる

出演者情報:大川泰樹(フリー)

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中山佐知子 2019年5月26日 つながれ只見線

つながれ、只見線

   ストーリー 中山佐知子
      出演 地曵豪

只見線は車窓からの景色が世界有数の美しさと言われる
ローカル線だ。
福島県の会津若松駅から新潟県魚沼市の小出駅まで、
そのほとんどが只見川に沿って走り
日本のふるさとの原点のような山の景色、川の景色が
展開されていく。

会津若松と小出の間には34の駅があるが、
そのほとんどが無人駅で
駅らしき建物もなく、山の中、あるいは川のそば、
あるいは畑の真ん中にホームがポツンとあるだけだ。
なかには秘境駅のランキングに名を連ねている駅もあるし、
一日の乗客が二人という駅もある。
もちろん赤字路線だが、なぜ廃止されないかというと
冬の豪雪で道路は必ず閉鎖されるし、
そうなるとこの只見線しか交通手段がないからだ。

2011年7月、只見線を豪雨が襲った。
雨は四日間降り続き、700ミリを超える記録的な雨量で
壊れたり水につかった家は500戸を超えた。
道路は各地で分断された。
只見線は3つの鉄橋が流され
新潟寄りの6つの駅の区間は列車が通れなくなってしまった。

橋を新しく架け直し、再び列車を通すには
85億円の予算と4年を超える工事期間が必要だった。
毎年数億円の赤字を出しているローカル線には
気の遠くなる数字だ。
あくまでも鉄道の復旧を望む住民側と
不通になった4つの駅は見捨てたままで
バスを運行させると主張するJR東日本の話し合いは
平行線のまま長く続いた。

「つながれつながれ只見線」
こんな横断幕が只見町の役場に掲げられたのは
いつだっただろう。
「つながれつながれ只見線」
駅には同じ言葉で幟が立った。
応援団ができた。
寄付金が積み立てられた。
乗客を集めるためのアイデアも募集した。

もともとがファンの多い路線である。
あの洪水で水没した温泉宿には
週末になると常連客がボランティアとしてやってきて
泥まみれの布団や食器を運び出していた。
ここへ来る人はみんな、あたたかい人情で繋がっている。

つながれつながれ只見線。
只見線復旧工事は2018年6月15日に起工式が行われた。
悲願の全線復旧は、洪水から10年め、2021年の予定だそうだ。
つながれつながれ只見線。つながれつながれ、只見線。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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直川隆久 2019年5月19日「寄り道」

寄り道

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

電車の扉が開いて降りた客は、その男一人だった。
無人駅。
かすかに、潮の匂いがする。
岬の展望台までは、きつい登り坂だそうだが、
歩いて2時間もかからないだろう。
早すぎるな、と男は思った。
暗くなるまでにはまだずいぶん時間がある。
経験がないから確証はないが、
飛び込みを図るなら、
やはり人目につきにくい時間のほうがいいだろう。

男は、腹が減っていることに気がつく。
これから死のうというのに、何か食うのもおかしな話だろうか。
だが、時間もつぶしたい。
男は、なにか店を探すことにする。

改札機に切符に吸い込ませて、駅の外へでる。
駅前には、公衆便所と、パンや日用品を売る小さな商店が一軒あるきりだ。
線路と並行に、一本の道路が走っている。
とりあえず右の方向に歩き出ししばらくすると、
「500m先 手打ちそば」と書かれた看板があった。
そばか。悪くない。最後の晩餐、いや、昼飯に、
枯れた感じが似つかわしい。
男は、看板に描かれた矢印を確認し、足どりを速めた。

道路わきに、愛想のないつくりの、四角い建物があった。
アルミサッシが埋め込まれた壁は、
建てられた頃は白かったのだろうが、今は全体に黒ずんでいる。
「そば」と書かれたのぼりが、鉄の傘立てに突っ込んで立てられ、
入り口の引き戸のガラスには「名物山菜そば700円」と書かれた紙が
セロテープで貼られている。

引き戸を横にすべらせて中に入ると、薄暗い。
店の床はコンクリートの土間で、年代物のテーブル…
といっても、キャンプのときに使うような、
足の細いもの…が8つほど並ぶ。
誰もいない。

―すみません。
と男は店の奥に声をかける。
すると、厨房らしきところから、もそもそと一人の男がでてきた。
見たところ70ほどか。店主だろう。
七分丈の調理用白衣の前身頃がネズミ色に変色している。
ずいぶん長い間、洗濯していないと見える。
―あの、そば、頼みたいんだけど。
店主は、返事もせず奥に引っ込んだあと、
メニューとコップの水を両手にそれぞれ持って戻ってきた。
男はメニューを眺める。
かけそば。もりそば。たぬき。山菜。コロッケそば。唐揚げそば。

唐揚げそば。
どうも、そば屋らしい職人的こだわりには無縁の店のようだ。
―山菜そば、ひとつ。
男の注文をきいて店主は、口元の形をほとんど変えることなく
「え」とも「う」ともつかぬ小さな音を発した。
「はい」という言葉の発音にかける労力を長年かけて節約し、
最終的にその形に落ち着いた、ということのようだった。

店主が奥に引っ込むと、男は手持ちぶさたになる。
テーブルの天板の下には、古い漫画雑誌がつっこまれているので、
めくってみる。
だが、連載ものの話の途中からでは、ついていけもしない。

麻雀漫画の表紙が目に飛び込んで、男は反射的に雑誌を閉じた。
男が死ななければならない原因が、
そのゲームでできた借金だったからである。

店主が、丼を片手に持ってふたたび現れた。
さっき同様、盆にのせず、直接手に持っている。
両手をつかうのが癪にさわるのだろうか、
かえって重いだろうに。と男は思う。
店主がテーブルにそばを置いて去る。
男は、割りばしで、そばをたぐる。
すすったそばをかみしめると、
舌の上にざらざらといらだたしい感触を残しながら、
粘土のように歯にまとわりついた。
うへえ、と男は思った。
男は、十割そばというものを食べたことがなかった。
食べたことはないが、それはラーメンやうどんとは違って、
やや口ざわりのなめらかさに欠けた食べ物ということは知っていた。
この食感は、本格的なそばの証拠…なのだろうか。
だが、やはり、もう一口食いたいという気持ちがどうしてもおこらない。
こんなものをありがたがる人間が世の中にそう多いとは思えず、
要するにこれは単にひどく不味いだけのそばなのだ、
と男は結論づけた。

そばの上にのった山菜を食べる。
ビニールのパックで売っているやつで、食べなれた味だった。
かまぼこも、かまぼこらしい味がした。
出汁をすすってみる。
これに味がなかった。出汁というより、ほぼ湯であった。

男は、だんだん、情けなくなってきた。
おれの人生最後の食事が、この不味いそばなのか。
運命というやつに、どこまでも小馬鹿にされているような気がしてくる。
男は、箸をおき、コップの水を一口のんだ。
席を立つ。丼の中のそばはほとんど残っている。
勘定のとき、こんなまずいものを出して、よく平気でいられるね。と
嫌味の一つも言ってやろうと男は思った。
あんたにとっては、どうということもない一杯のそばだろうが、
俺にとっちゃ深い意味があったんだよ。

レジに、店主が入る。男のだした1000円札を受け取る。
男が、よし、一言、と息を吸い込んだその瞬間――
店主は破顔一笑し、あーりがとうございましたー、と高らかな声をあげた。
さっきまで、口を動かすのも億劫だ、と言わんばかりの態度だったのが
信じられない豹変ぶり。
現金と引き換えにだけ、感情表現という労働をする…
それがこの店主のルールらしかった。
300円の、ぉー、おぅかえしでぇす。
男はタイミングを狂わされ、黙ってつり銭を受けとるしかできなかった。
まぁたおこしくぅださいませぇ。
店主の声を背中で聞きながら、男は引き戸を開け、店の外に出た。

まだ、日は十分に高かった。むしろ、ようやくそろそろ昼という時間。
腹はまだ、満ち足りていない。

男は、このそば屋の人生をしばし思った。
愛想と労力の出しおしみをしながら、ただ不味いだけのそばをつくる人生。
あの男にも、若く希望に満ちた頃があったのだろうか。
ひょっとすると、他人から受けた度重なる裏切りや、
思いにまかせぬ事々が、
長年の間に彼の心をいびつな形にねじり固めてしまったのかもしれない。
が…他人の人生はわからない。
余人にはうかがいしれない、彼なりの生きがいが、
そこにはあるのかもしれぬ。

男は決めかねていた。
来た道を戻るか。
もう少し先まで歩いてみるか。
目の前の道路を、ぶおん、と音をさせてトラックが1台通り過ぎる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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岩崎亜矢 2019年5月12日「とても感じのいい女」

「とても感じのいい女」

    ストーリー 岩崎亜矢
       出演 西尾まり

上りの電車が先ほど発車したので、
あと15分ほど、このホームは閑散とする。
がらんどう。
弁護士事務所の広告が書かれたいつものベンチに座るたび、
その言葉が頭に浮かぶ。
近辺には店も少なく、住宅ばかり。
急行が止まらないこの駅の昼時は、日々こんな感じだ。
知り合いもいなければ、用事があるわけでもない。
30分ほど電車に乗って、私はわざわざこの駅にやってくる。

クイ、と一口。
手に持った缶チューハイを飲み込み、その冷たさにぶるっと震える。
空は、春特有のどんよりとした灰色である。
春と聞くだけで、人々はことさら浮れるが、
Tシャツ一枚で出かけるにはあとどれくらいの日々を過ごせばいいのだろう。
そう思うだけで、また気が滅入ってくる。
くずれそうになる前に、私はここへ駆け込む。
なぜか? ここが、こここそが、私の居場所だからだ。

収入の高い仕事があって、夫がいて、実家は裕福で、友人もいて、
一体あなたは何が不満なんだと、問われたことがある。
あれは、何かのパーティーだっただろうか。
箇条書きでは見えない行間が、人間にはある。
そう答えたところで、
私のアラを探そうと躍起になる他人には、何も通じない。
私は、相手を不快にさせない程度の笑みを浮かべ、
「どうにも打たれ弱くて。だからダメなんですよね」と答えた。
相手はひとまず納得したようで、
もはや私以外の何かへと視線を移動させていた。
リフレッシュするにはやっぱり海外旅行だよ、とよく人は言う。
私から言わせれば、3泊4日程度、どこか遠くに行っただけで
気分が変わるという人は、そもそもたいした悩みなど持っていないのだ。

そんな私の気持ちとは裏腹に、人々はなんともあっけらかんと、
「悩みがなさそうだよね」という言葉を私にぶつけてくる。
つぶらな瞳、少し大きめの鼻の穴、上がった口角。
美人すぎないこの顔は、他者に対し、
敵意やストレスといった攻撃を仕掛けない。
「あの人は明るく、元気だ」。
誰に聞いても私の第一印象はこう返ってくるし、
どこにいても道を聞かれることはしょっちゅうだ。
この顔を持つ人間の責任として、
私も、周囲から求められる役割を演じてきた。
バカみたいな話だけれど、物心ついた頃から強くそれを感じ、
そしてそのように生きてきたのだ。
ただ、たまに、サイズの合っていない服を着せられているような気分に
なることがある。
そんな時は、その窮屈さに息が苦しくなり、
うまく笑うことはおろか、喋ることもままならなくなる。
一人になることが、唯一の治療法だ。

隣のベンチに座るややくたびれたスーツ姿の中年男性や
自動販売機の補充をしている作業員は、私の無を邪魔しない。
そこに彼らはいるけど、そこに彼らはいない。
彼らからしたら、私も無なのだろう。
感じがいいも悪いもないこの場所で、ちびちびと私は缶の水分を摂取する。
ここは無人島。ここは天国。
あと7分後に来る上り電車に乗ったら、いつもの日常が待っている。
そうして私はまた、
「つぶらな瞳と少し大きな鼻の穴、上がった口角が特徴の、
感じのいい遠山晴子さん」、に戻るのである。

出演者情報:西尾まり 30-5423-5904 シスカンパニー

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磯島拓矢 2019年5月5日「駅」

「駅」

    ストーリー 磯島拓矢
       出演 大川泰樹

電車で初恋の人と再会する。
そんなことは今や少女漫画でも起こらない、なんて言ったら
少女漫画家に怒られるだろうか。
しかし、思いがけない人との再会はある。

その日僕は、大学時代のサークルの後輩と再会した。
僕は外回りの途中で、ボーっと座席にもたれていた。
目の前にはカップルらしき男女が座っている。
男は居眠りをしている。女は中づり広告を見ている。
その女の人と目が合った。
「あっ」という顔をされた僕は、「え?」と思い、
1秒後に記憶がつながった。
いたいた。サークルの一つ下だ。
名前は、名前は・・・思い出せない。
つき合っていたわけではない。好きだったわけではない。
ただただ、同じサークルにいて、
時々コンパをして、時々テニスをしただけだ。
だからと言って、名前を忘れていいわけではないのだが。

目の前の彼女は、親しみを込めて頭を下げてくれる。
僕も下げる。
何だっけ?名前は何だっけ?
焦りが顔に出ていないことを祈る。
彼女は微笑み、僕を見る。
「久しぶりだね」という気持ちを込めて、僕はうなずく。
彼女もうなずく。
しかし名前は、相変わらず出てこない。

車内に次の駅の名がアナウンスされる。
彼女が男を起こす。僕はその駅で降りたことはない。
目をこすりながら男が起きる。立ち上がる。
電車にブレーキがかかり、少しよろけて彼女につかまる。彼女が支える。
僕はそんな様子を眺めていた。
電車が止まる。男はドアへ向かう。彼女が続く。
彼女は僕の方を振り返り、男の背中を指さしながら、
唇をゆっくり3回動かした。僕はそれを読み取った。
「だ・ん・な」
もう一度頭を下げて人妻は降りて行った。

もう一度言うけれど、
彼女とつき合っていたわけではない。好きだったわけでもない。
でも、僕はこの再会に感謝した。
「だ・ん・な」
唇から読み取ったメッセージは、なぜか僕を微笑ませる。

一度も下りたことのないその駅は、
ちょっと大切な駅になった。

出演者情報:大川泰樹(フリー)

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