その馬は星を眺めるのが好きだった。
たぶん故郷の草原を思い出すからだろう。
馬の故郷ははるか西のキルギスに近い草原で
遠い地平線を見渡すことができたし
西に沈む星に向かってどこまでも駆けることができた。
馬が連れて来られた洛陽の都には草原がなかった。
地平線がどこにあるのかもわからなかった。
星は大きな建物のてっぺんにぶら下がっていた。
その馬は一日千里を走った。
二世紀の中国で千里といえばおよそ400kmだ。
その能力の高さゆえに馬はときの権力者への贈りものにされたのだったが
馬としてはそんな人間を背中に乗せるつもりは毛頭なかった。
そこで最初の持ち主はこの言うことをきかない馬をある武将に与えた。
その武将は強かったが、義に疎く節操がなく裏切りを繰り返した。
ある意味ではとてつもなく自由でありその奔放さが馬と似ていた。
馬は呂布というその武将を乗せて戦場に出向くようになった。
壕(ほり)を飛び越え、城に攻め入って敵を蹴散らすのは面白い、と
馬は思った。
やがて呂布が死に、馬は呂布を殺した男の手に渡った。
男は知謀に優れていたが少々冷酷でもあった。
馬はその男を嫌って大暴れに暴れた。
それから馬は自分の首にあたたかい手が置かれているのに気づいた。
なるほど、自分はまた誰かに譲られたのだ、こんどはどんな奴だろう。
馬はしみるような笑顔で自分を撫でている髭面の武将を見返した。
そのあたたかい手をした髭の武将は名を関羽といった。
信義に厚く部下にやさしいと噂されていた。
また馬術にも秀で
混み合った戦場でも草原と同じように自在に馬を走らせた。
恐れを知らず勇猛に敵を攻めたが
そんなときでも馬をいたわり、危険な目に遭わせることがなかった。
馬はもう星を眺めなくなっていた。
馬はどこにでも草原をつくりだす関羽の手綱に喜んで従い
また、その日の戦いが終わってから自分を撫でる手のぬくもりが
待ち遠しいと思うようになった。
このとき関羽は曹操のもとにあり将軍として仕えていたが
一生の友情と忠誠を誓った相手はほかにいた。
馬が草原をなつかしんだように
関羽もまた慕わしく思う人がいたのだ。
そしてその日、関羽は馬とともに目指す人のもとへ走った。
もし追われても、この馬に追いつけるものはいない。
一日千里を走るこの馬に勝てる馬はいない。
叫びたいほどの開放感が全身を貫き、関羽は馬の背で何度も踊り上がった。
馬もうれしかった。
背中に乗せた人間の喜びが真実自分の喜びだと思えるのがうれしかった。
馬と人はひとつの生き物のように星空の下を走りに走った。
この馬の名前は赤い兎と書いて赤兎(せきと)といった。
やがて関羽が死んだあと、
赤兎は絶食し自ら命を絶ったと伝えられている。
出演者情報:遠藤守哉(フリー)