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中山佐知子 2018年5月27日

勝負

     ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

彼にはもともと浪費癖があった。
不自由のない暮らしができるほどの収入はあったが
金が入るとすぐに使ってしまう。そして借金をする。
次の収入は借金の返済にあてられ、
生活のためにまた借金をする、そして浪費をするという
借金と浪費のスパイラルだった。

40歳を過ぎて若い女と駆け落ちをした。
いや、駆け落ちをするつもりだった。
女を先にパリへ向けて立たせ自分は後から行くつもりだったが
途中で立ち寄ったドイツの町でルーレットにのめり込んでしまった。
ビギナーズラックで最初に1万フラン儲けたのが原因だった。
彼が4日間ルーレットばかりやっている間に
女はパリで新しい恋人をつくっていた。

その後も彼はギャンブルをやめなかった。
相変わらず借金の返済に追われていた。
悪質な出版社ととんでもなく不利な契約を結んで借りた金まで
ギャンブルですってしまった。
もう後がない。そんな状態で彼は長編小説を1本書いた。
2本めは口述筆記で仕上げた。
そのとき彼の言葉を文字にした20歳の女学生は
彼のプロポーズを受け入れたが、
新生活がはじまると間もなく、
花嫁は自分の道具をすべて質に入れる羽目になった。

結婚しても彼は相変わらずギャンブルに耽っていた。
無一文になっては、これが最後と言いながら妻に金をせびった。
そして妻からもらった金は当然のようにギャンブルに消えた。
彼がいつものように一文なしになったとき、
妻に書き送った手紙がある。
 
 わたしは自分の仕事、つまりこの勝負について、
 少し詳しく説明する。わたしはもうこれで二十度も、
 ルーレット台に近寄るたびに、こういう実験をしたものだ。
 もし冷静に、落ちついて、はっきり胸算用しながら勝負をしたら、
 負けるなんてことは絶対にあり得ない!

しかし彼は負け続けた。
最初は勝つことがあっても負けるまでやめないのだから
最後には一文無しになるに決まっている。
若い妻はそんな彼のギャンブル狂いを
手のほどこしようがない病気だとあきらめて彼を支えた。

彼は手紙で勝負が仕事だなどといっているが、
偉大な作家でもあった。
彼の名前は
フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーという。



出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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直川隆久 2018年5月20日

日暮れに

       ストーリー 直川隆久
          出演 地曵豪

バスが、古い工場と団地の並ぶ寒々しいエリアにさしかかり、
角を曲がった。
夕日の赤い光が窓から入り込む。
そのとき、「あの」と、隣に座っていた黒いスーツ姿の乗客が
僕に声をかけた。
男は、50代くらいに見えた。
こちらに体をむけると、首元が緩められた白シャツと、
脂の浮いた黄色い顔が目に入った。
「次が、白鳥団地1丁目ですか」と男は僕に尋ねた。
そうですね、と僕は答える。
男は「ああ…」と声をあげ、両手で顔を覆った。
しばらくそうしていたが、やがてその手の指の間から、声が漏れた。
「今から…今から引き返してはくれないでしょうね」
そして、長々しい溜息を吐いたあとで、顔を覆う手をはずし、
乾いた調子で「君は、高校生?」と訊いてきた。
僕は、そうだと答えた。
「そう…」男は、それだけ言うと、窓の外を見た。
工場を囲む植栽の単調なパターンが窓外を流れていく様子を、
男はしばらく目でなぞっていたが、ふいにまた口を開いた。
「言っておこうと思うんです…
ひょっとすると、君は、ぼくが話す最後の人間になるかもしれないから」
僕は意味がわからず、はあ、としか答えられない。男は続ける。
「ぼくはね、これから、白鳥団地1丁目で降りるんです。
そこで、ある車がぼくを迎えにくる。
ぼくはその車に乗って、また別の場所に連れていかれる。そこでぼくは…」
男は、口の中が乾いたのか、
舌を口蓋にすりつけて唾液をしぼるような仕草をした。
にちゃりと音がする。
「そこで、ぼくはある勝負をするんです。それに勝てば、
 戻ってくることができる。でも負ければ…」
そこまで言うと、男はぼんやりと呆けたような顔で黙ってしまった。

ぼくは、しばらく前からチキチキという音が
間断なく続いているのに気付いた。
見ると…男が、ポケットの中で落ち着きなく手を動かしている。
チキチキ…チキ。
カッターの刃を出したり入れたりする音だ。
チキチキチキ。
出す。
チキチキチキ。
戻す。
それが、繰り返された。
そして、男の声がまた聞こえた。震えている。
「引き返すチャンスは何度もあった。なのに」
男は目から涙を流し、小刻みに体を震わせていた。
嗚咽をこらえきれずに、男はポケットから抜き出した手を口元にあて、
その肉をかみしめた。四角い歯が、肉にめり込んでいく。
そして、急にがくりと体の力が抜けた様子で、
座席に、さらに一段と深く沈み込んだ。
男は、こちらを見、また話しかけてくる。
まっすぐにこちらを見て。だが、その視線は、
僕というより、僕をつきぬけて、
僕の背後に茫漠と広がる空間へ向けられているようだった。

「言っておくよ。森の奥へ入るときには、
 帰り道にかかる時間も計算に入れとかなきゃいけない。
 まだ大丈夫、まだ大丈夫と、引き返すのを先延ばしにしていると、
 もう、日 暮れまでには絶対に戻れないところまで進んでしまう。
 森の中で日が暮れてしまったら…」

そこから先は、男の声は小さくなって、聴き取れなくなった。
動かない視線の下で、口が小刻みに動き続ける。

僕は、男に声をかけた。
あの、もうすぐ白鳥1丁目のバス停ですけど。
男の口元の動きが、とまる。
僕は続ける。ひょっとして、警察とかに知らせたほうが。
だが男は腕を伸ばし〈降車〉のボタンを押した。
〈つぎ、とまります〉の表示が灯る。
「手遅れなんだ」と、
男はゆらりと立ち上がりながら、力なくつぶやいた。
「もう、日は暮れかけてるから」
バスは、ほどなく止まった。運転手がバス停の名前を繰り返した。
男は、乗降口にむかって、歩き出した。
小銭を運賃箱に入れ、ステップを降りる。
薄暗くなりかけたバス停の周囲には、人通りもない。
バスが発車する。
男の姿が小さくなり、やがてバスが角を曲がって完全に見えなくなった。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

 

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廣瀬大 2018年5月13日

菖蒲湯の日 

    ストーリー 廣瀬大
       出演 齋藤陽介

「赤ちゃんって、目隠しされると自分の姿も周りから見えなくなっていると
 思ってるらしいよ」
キッチンのテーブルに腰掛けて、読んでいた育児書から顔を上げる妻。
時計は昼の12時10分を指し、
マンションの窓からやわらかな陽が入ってきている。
僕はようやく寝息を立て始めた9ヶ月になる息子を抱っこしたまま
「それは斬新な発想だね」と
息子を起こさぬように小さな声で妻に応える。
今日は息子の初節句である。
真新しい「兜」がタンスの上に飾られている。
タンスの上…、他にも飾るのにふさわしい場所はあったが、
つかまり立ちを覚えた息子の手の届く所に「兜」など物珍しいものを置くと、
がっちゃ〜ん、大惨事が起きること間違いない。
ちょっとかっこ悪いが、ここに飾ることにした。
あと、1時間ほどで、妻の両親が初孫の節句を祝うために我が家に到着する。
彼らが到着する前に、近所の八百屋で菖蒲を買ってこよう。
今日は菖蒲湯にするのだ。
僕は息子を布団に寝かせるために立ち上がると、
ふと、幼い日のことを思い出した。
あの日、菖蒲湯に父と入ったから節句だった。

小学1年生か2年生の頃だった。
僕は両親に連れられて父親の実家に遊びに来ていた。
田舎の床の間には大きくて立派な「兜」が飾られていた。
僕の父は5人兄弟のいちばん下で、この家には父の両親、
つまり僕の祖父母と、その長男にあたるおじさんと家族が住んでいた。
おじさんの息子と娘は、僕の従兄弟ではあるけどもう二人とも大学生だった。

着いてすぐに僕は年の近い従兄弟たちとかくれんぼをして遊んだ。
田舎の家は東京のマンションと違い、
いたるところに隠れる場所があった。
僕は北の隅っこにある薄暗い部屋の押し入れの中に姿を隠した。
押し入れの中の、お客さま用の布団の上に寝っ転がり、
鬼が来るのを待った。でも、いつまで経っても鬼は来なかった。

ふと物音に気付いて目を覚ました。
僕はいつの間にか、寝てしまっていたのだ。
そっと、ふすまの扉を開けると従兄弟の20歳になるお兄ちゃんが、
若い女の人を抱きしめようとしていた。
抵抗する女の人。でも、部屋を出て行く気配はない。
なにか見てはいけないものを見てしまった。
幼い僕にだってそれはわかった。
若い女の人が誰なのかはわからない。
でも、親族の誰かに見えた。
僕はそっとふすまの扉を閉めた。

それがいけなかった。

その閉める音に従兄弟のお兄ちゃんが気づいたのだ。
「誰!?」
押し入れに近づいてくる足音がする。
僕は自分の心臓がドキドキと高鳴る音を聞いた。
隠れているのに心臓の音が相手に聞こえてしまうじゃないか。
そんな風にすら思った。
扉に手をかける音。
押し入れの中にはどこにも姿を隠せるスペースなどない。
扉が開く瞬間、僕は反射的に自分の両手で顔を隠した。
それでも、さっと光が射し込んだのがわかった。

今思うと、あれは顔を隠そうとしたのではないのではないか。
目隠しをすると自分の姿が周りから見えなくなるという、
赤ちゃんの頃の感覚が自分にそうさせたのではないか。

「でも、赤ちゃんがそう思ってるなんて、どうやって調べるんだろーね。
 本人に聞いたわけでもないだろーし」
妻の声で、ふと我に返る。僕は息子をそっと布団に寝かせる。
「そりゃそうだね」
ジーンズの後ろポケットに僕は財布を入れる。

不思議だったのは押し入れが開いた後のことだ。
じっと僕の姿を見つめている従兄弟のお兄ちゃんの視線を感じる。
女の人がこっちにくる足音がする。二人の視線が僕に集中する。
僕は両手で顔を隠し続けている。顔を上げることができない。
お兄ちゃんはぽつりとこう言った。
「あれ? …誰もいないや」
「なに言ってんのよ…誰もいないじゃない。驚かさないで」
あれはなんだったのだろう。
二人の悪ふざけだったのか。
それとも、本当に僕の姿が見えなくなっていたのか。
親族みんなで集まった夕食の場に、お兄ちゃんは姿を現さなかった。
食後、僕は父と一緒に田舎の家の狭い湯船に浸かった。
今日あったことは言ってはいけないと思った。
湯の中の菖蒲が体に絡んでくるのがやけに気持ち悪かった。



出演者情報:齋藤陽介 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

 

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川野康之 2018年5月6日

鬼の刀~菖蒲湯伝説

    ストーリー 川野康之
      出演 遠藤守哉                          

もう桜も咲いたというのに雪が降った寒い日の晩。
嘉七の家の前で人の気配がした。
戸を開けて見ると見慣れない男が一人。
身なりはぼろぼろだが腰に刀をくくりつけている。
飯を食わせて欲しいという。
「ただでとは言わん」
といって腰の物に手をかけた。
嘉七の背中で妻のみつと息子の小太郎が悲鳴をあげた。
男は刀を鞘ごとはずして嘉七に手渡した。
「これをやる」
勝手に中に入って床にあぐらをかいた。
嘉七は刀など欲しくはなかったし、帰ってくれと言いたかったが、
機嫌を悪くして暴れられては困る。
ここは飯を一杯食わして穏便に去ってもらおうと決めた。

「ごちそうじゃった」
男は満足そうに茶碗を置いた。
それから不思議なことを語り始めたのだ。
「神隠しというものがあるだろう。
子どもが突然消えたりするあれだ。
あれは神隠しというがじつは山に棲む鬼の仕業だ。
春になると鬼は人間の子どもが食いたくなるのだ。
なぜかといってもわからぬがとにかく無性に食いたくなるのだ。
七つぐらいの男の子が一番うまいという。
子どもをさらってくると河原で火を焚いてな、
鍋で菖蒲の葉といっしょに煮て食う。
菖蒲を入れるのは人間の肉の臭みをとるためである。
・・・ところで 」
と今年七つになったばかりの小太郎をじっと見た。
「この子はいくつだ」
男の眼ににらまれて小太郎がぶるっとふるえた。
その体をみつが抱いて引き寄せた。
「七つか。ふん。せいぜい気をつけろ。
しかし、いったん鬼に目をつけられたら最後、ぜったいに逃れる方法はないぞ」
そう言って男は帰って行った。
朝になって外を見ると、雪の上に足跡が残っていたが、
10歩ばかり歩いたところで消えていた。

この話を村の衆にしたところ、
「それは鬼じゃないか」
と声をひそめて言う者があった。
今年はどの子を食おうかと鬼が下見に来たというのである。
「かわいそうに小太郎は鬼に見初められたんじゃ」
そう言われて嘉七はぞっとした。
あの男は鬼だったのだろうか。
小太郎をじっと見ておったな。
あの眼はそんな恐ろしいことを考えていたのか。
「ぜったいに逃れる方法はないぞ」
男の言葉がよみがえってきた。

その日から三日三晩、嘉七は田んぼにも出ないで家の中にこもった。
床下に隠しておいた刀を取り出して、じっと考え込んだ。
あの男はなぜこれを置いて行ったのか。
鞘を膝に乗せ、表面の漆を削って下の木材をむき出しにした。
そこにヨモギの葉をすりつぶして手のひらで丹念にこすり付け始めた。
「みつ、もっとヨモギを取ってこい」
手の皮がすりむけるまで何度も何度もヨモギの汁をすり込んだ。
嘉七の手が緑色に染まり、黒く血がこびりついたのを見て、
青鬼のようだとみつは思った。
草色に見事に染まった鞘は、まるで菖蒲の葉のように見えた。
この鞘に刀を収めて、小太郎の体にくくりつけた。
「寝る時も厠へ行く時もけっしてはずすな」
恐れていた日はすぐにやってきた。
とつぜん強い風が吹いた。
家が揺れ、屋根がめりめりとはがされるような音がした。
嘉七が屋根を見て戻ってくると、もう小太郎の姿はなかった。
風の音に混じって鬼の笑い声が聞こえてきた。

小太郎は暗い鍋の中で、菖蒲の葉と一緒に水に浮かんでいた。
下から熱い湯が沸いてくる。
菖蒲のうちの一本は自分の体にくくりつけて持ってきた刀である。
湯はどんどんと湧いてきて、どんな熱い風呂よりも熱くなった。
足の裏が焼けた。
菖蒲のにおいでむせびそうになる。
意識が遠くなってきた。
父の言葉をとぎれとぎれに思い出した。
「鬼は鍋の前にいる。煮えるのが待ちきれなくて、
蓋を持ち上げて中をのぞこうとするだろう。その機会を逃すな」
目の前が明るくなったので、小太郎ははっと意識を取り戻した。
天井が少し開いている。
もうもうとした湯けむりが消えて、その向こうからぎらぎらと大きな目玉が一個、
こっちをのぞきこんでいた。
小太郎は草色の鞘から刀を抜くと、全身の力を込めて跳び上がって、
湯気たてる刀身を目玉の中心に突き刺した。

恐ろしい叫び声が山中にこだました。
嘉七は山道を急いだ。
河原まで来た時、倒れていた小太郎を見つけた。
小太郎は足の裏にやけどを負っていた。
嘉七はわが子を背負って山道を降りはじめた。
「眼を見たか」
と背中の子どもに声をかけた。
雪の日に刀を置いて行ったあの男、
あれはほんとうに鬼だったのだろうかと、嘉七は考えていたのである。

出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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中山佐知子 2018年4月22日

最後の歌

     ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

この村では
人は死ぬときに最後の歌を聴くと言い伝えられている。
それがどんな歌だか誰も知らない。
そういえばあの家のばあちゃんが死んだときは
ウミツバメがずいぶんと鳴いていたなあとか、
灯台守の家の小さな女の子が死んだときは
母親がずっと子守唄を歌っていたらしいとか
たまにそういう話が出るくらいで
普段はみんな歌のことなんか忘れている。

ああ、でも
あの女の子のときは霧の夜だった。
涙に滲んだような灯台の明かりが一度だけまたたいて、
いま連れて行かれたんだとみんなが知った。
日ごろ遊んでいた砂丘には
ピンクのスコップが置き忘れたままになっていて
まだ誰も片付けようとはしない。
砂丘からは沖を流れる黒潮がキラキラ光って見えた。

その砂丘のそばの古い家には
身内のいない爺ちゃんが長い一人暮らしを続けていて、
俺は絶対に歌なんか聞かない、
絶対に死なないと言い張っていたが、
ある朝、何とも言えない幸福そうな顔で死んでいるのが見つかった。
偏屈な爺ちゃんだったが、よっぽどいい歌を聴いたに違いないと
みんなが口々に言いながら葬式を出した。

最後の歌ってどんな歌だろう。
僕はそれが気になりはじめた。
恐ろしいのか、懐かしいのか。
悲しいのか、心地よいのか。

ある年のまだ寒い頃、親戚に病人が出た。
若い頃は村を出てマグロ船に乗っていたおっちゃんで、
ほかにもいろいろ無理をしたらしい。
僕はいそいそと見舞いに行った。

おっちゃんは思ったより元気そうで
「春になったら」と言った。
「春になったら俺の葬式に来いよ」と言って寝返りを打った。

おっちゃんは本当に春に死んだ。
おっちゃんは僕に小さなモーター付きの舟を残してくれたので
僕は葬式の翌朝早く海に出た。
沖には藍色の黒潮が流れていた。
その流れに乗って、春にはクジラがやってくる。

黒い背ビレが水面にいくつも立ち、
水が盛り上がったと思ったらすぐそばに背中が見えた。
白い飛沫を飛ばしながらクジラの群れが遊んでいた。
僕はクジラが歌うという話を思い出した。

クジラは歌う。道に迷わないように。
クジラは歌で道を見つける。
だから孤独を恐れない。

空は晴れ、海は青く、あたりには船の影もなかった。
おっちゃんは歌になって黒潮を超えたんだなと思った。
   


出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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直川隆久 2018年4月15日

王国

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

――潮目が変わったな。
と、はまだこうすけは思った。

担任を「ママ」と呼んでしまったことは、
たけだやまとにとって、悔やんでも悔やみきれぬ痛恨事であった。
どっと沸くチューリップ組の中で、たけだやまとは顔を真っ赤にして
うつむくよりなかった。

はまだこうすけには、わかっていた。
これは、穴だ。
そして、それはけっして塞がれることのない穴なのだ。
砂場のダムに木の枝であけられた穿ちが、
その口径を決壊の瞬間まで広げ続けるように。

ドッジボールをしても競走をしても
誰にも負けたことのないたけだやまとは、
チューリップ組のリーダーとして君臨していた。
園庭で鬼ごっこをするのか、泥団子づくりをするか、
決定権は常にたけだやまとにあった。
ともすれば、傲岸な態度をチューリップ組、
はては隣のひまわり組の人間たちにまで向けがちであった。

――やまと、センセのことママていうた。
休み時間に、チューリップ組の中を、
黒い笑いのさざなみが満たした。
笑いながら、彼らもそう考えていたのだ。
――潮目がかわった。
と。

大衆の心理というものはおそろしい。
弁当の時間、たけだやまとがおかずを略奪しても
曖昧な笑いを浮かべるだけでされるがままになっていた人間たちが、
公然とたけだやまとに反抗的態度をとりはじめた。

はまだこうすけは、虎視眈々とチャンスをうかがっていた。
焦ってはならない。
潮目はかわった。だがまだ十分ではない。
まだ、動くタイミングではない。
たけだやまとのポジションを奪いに行った、
という印象を与えてはならない。
あくまで、チューリップ組の自由意思によって
「リーダー」として承認されねばならない。
たけだやまとの威信の「決壊」の瞬間を、彼は辛抱強く待った。

ある日、たけだやまとが、癇癪をおこした。
たけだやまとがつくった砂場のトンネルを、
はせがわれおが蹴り潰したのである。
たけだやまとは逃げるはせがわれおを追い、園庭内を走りまわった。
そして足を滑らせ、ブランコの支柱に顔面を強打した。
鼻から血を迸らせながら、たけだやまとは、号泣した。
園庭にいるすべての人間の動きがとまる。
だが、そのけたたましい声と鮮血に気圧されたのか、
誰もが遠巻きに見るだけで、たけだやまとに近づこうとしない。

今だ。と、はまだこうすけは思った。
そして、泣きじゃくるたけだやまとの傍へ歩み寄り、
アンパンマン柄のハンカチを取り出すと、
たけだやまとの顔を濡らす涙と鼻血を拭ってやった。
周りを見渡す。
そこには、はまだこうすけを新しいリーダーとして迎える目が並んでいた。

権力の座は、頂に据えられる。
下から見上げているときの方が、その様子は寧ろ仔細に見てとれるものだ。
一度そこに座ってしまえば、
もはや自らの姿を顧みることはできない。

いったんは温和なリーダーとして現れたはまだこうすけだったが、
日を追うに従い、その専横ぶりが目につくようになった。
仲間が園に持ってきたカントリーマアムを取り上げる。
ブランコを長時間独り占めする。
泥団子を、別の人間に磨かせ、出来上がりを簒奪する。

はまだこうすけはときおり、
自分が自分でなくなっていくような感覚をすらおぼえた。
権力というものがそれ自体の意思をもって、
はまだこうすけの体を乗っ取っていくような不安。
そしてその不安を忘れるためであるかのように、
はまだこうすけは専横の快感を貪り続けた。
はまだこうすけは強奪したハッピーターンを齧りながら砂場に目をやる。
日々、山や城が築かれては茫漠たる砂に戻る、
その往復運動を飽きもせず繰り返す場所がそこにあった。
以前たけだやまとが築いたダムは、無論、跡形もない。

ある日、はまだこうすけは、急に腹部に差し込む感覚を覚えた。
まずい。
と、はまだこうすけは思った。そして、トイレに駆け込んだ。
だが、折悪しく2つしかない個室の扉は閉ざされていた。
大人用のトイレを借りよう。
造作もないことだ。自分ならやり遂げられる。
はまだこうすけは自分に言いきかせた。
廊下に出た瞬間、ばたばたと走る年少の男が、はまだこうすけに激突した。
次の瞬間、はまだこうすけの下腹部が決壊した。
半ズボンに、黒いしみが広がっていった。

しまった。
これは、なんとか皆に知られぬようにしなければ。
そう思いながら歩き始めたとき――
「なんや、くっさ」「くっさあ」
という声があがった。
はまだこうすけは、思わずズボンの後ろを手でおさえた。
だが、下腹部の決壊は止まらなかった。
はまだこうすけの半ズボンの下部から、奔流があふれだした。
廊下を歩いていた人間は悲鳴をあげ、立ち止まり、あとずさった。
はまだこうすけの周囲の空間が広がっていった。

はまだこうすけには、わかっていた。
およそこの幼稚園にいるかぎり、
自分の威信は二度と回復することはないことを。

だが一方で彼は、何か奇妙な…
安堵にも似た感情を抱いている自分に気づいた。
この世は、砂場の砂と同じ。
常なるもの無し、という理(ことわり)以外に確かなものはない
――その巨大な真理の一隅を占め得たという、
安堵感でもあったろうか。

はまだこうすけは目を閉じ、
腿の裏を伝う温かな流れの感触をもう一度味わった。

出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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