嗚咽
ストーリー 中山佐知子
出演 石橋けい
結井とは友人の紹介で出会った。
結井は詩人という触れ込みだった。
会ったはじめから金を持たない男で、
その居酒屋でもお開きの瞬間に大声で
「ご馳走さま!」と言った。
あまりのタイミングの良さに私たちは大笑いをしたほどだ。
プロポーズの言葉は「愛を教えてあげる」だった。
何をほざくかと私は内心激怒した。
でも、退屈はしなくて済むかもしれない。
結婚してみると、結井には定収入というものがなく、
不定期収入もわずかなものだった。
いつも小遣いをせびりたそうな顔をしていた。
私は結井が金の話をするきっかけを潰すことが
次第に巧みになっていった。
あるとき、それで大喧嘩になった。
おまえは、と結井は言った。
おまえは詩人を何だと思っているんだ。
「いつもお金が落ちてないかキョロキョロしてる人」と
私は答えた。
結井は肩を揺らして大笑いした。
はじめて見せた無邪気な顔だった。
何年かして…
結井の詩がときたま雑誌に掲載されるようになったとき、
私はふっと予感のようなものを感じた。
結井は金が入ったときは家に寄り付かなくなっていたが、
それ以上のものを感じたのだ。
案の定、帰宅した結井は
金をくれではなく、別れ話を持ち出した。
金持ちの女の人としばらく海外で暮らしたいという話は
本当のようだった。
望むところだと私は答えた。
タクシー代はあげないけど、いますぐ出ていってください。
結井は手まわりのものを紙袋に入れはじめた。
辞書、何冊かの本、鉛筆…
ガサガサと紙袋が音を立てていた。
そうか、結井はカバンも持っていなかったのだ。
そう思ったとき、何かが喉に詰まった。
声を出そうとしたが、声は出なかった。
空気を吸っても吸ってもちゃんと吐き出せない。
苦しくて涙が出てきた。
やっと声が出たと思ったら、それは号泣になった。
私はその場に自分を投げ出すようにしてわんわん泣いた。
もしこれが愛というものだったとしたら、
結井はやっと最後に愛を教えてくれたのだ。
しかしそれは、美しくもなく清々しくもなく、
落ち葉や泥が惨めに腐って澱んだ
呼吸のできない水たまりのようなものだった。
私は二度とそれを見たくない。
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出演者情報:石橋けい 吉住モータース所属 https://www.y-motors.net/