コスモスのタイムトンネル
ストーリー 小野田隆雄
出演 久世星佳
奈良の大仏さまの近くに
東大寺戒壇院(かいだんいん)という建物が
ひっそりと建っている。
これから僧になろうとする者に
守らなければならない戒律(かいりつ)を
授(さず)けるために、八世紀に建立(こんりゅう)された。
いまは記念館になっているが、
そのあたりには、なんとなく、
厳しい雰囲気がただよっていて
訪れるひとも、あまりいない。
私立大学の美術史の助手をしていた私は、
二十世紀の終る頃、十一月の初めに
東大寺戒壇院を訪れた。
それは、何回めかの訪問だった。
当時の私は、三十二歳。
ふたりの男性と交際していた。
美術史の主任教授は、四十歳で独身。
かなり結婚願望があるようだった。
二十五歳の大学院の学生は、
おそろしいほどに情熱的だった。
私は、というと、結婚など、
考えてもみなかった。けれど、
男たちの、子供じみた独占欲に、
いささか、げんなりし始めていた。
あの日、戒壇院に入ったのは、午後三時。
建物の内部はうす暗く、
かたすみの、受付にあたるような場所に、
ひとりの年老いたお坊さんがいて、
私に言った。
「ともしび、お貸ししまひょか?」
みると、机の上に
懐中電灯がいくつか置いてある。
「ありがとう。でも、いいわ」
私はお礼を言いつつ、お断りした。
うす暗いなかに、ほのかに見える、
石造りの戒壇と、その周辺の板(いた)の間(ま)の、
ひんやりした陰影を、味わいたかった。
しばらく見つめたあと、私は暗い空間を
すこし歩き、扉をひらいて
戒壇院の外(そと)廊下(ろうか)に出た。
眼前に、白い砂を敷きつめた中庭(なかにわ)があり、
秋の光を、照り返している。
その明るさが眼にしみた。
そのとき、白い砂が、ゆらゆら揺れたと、
私は思った。けれど、その白い影は、
中庭に、ひともとだけ咲いている、
白いコスモスの花であることに気づいた。
白い砂と白い花、まぶしすぎる青い空、
そして瓦(かわら)屋根(やね)の黒い波。
白いコスモスは二メートル近くに伸び
枝をいっぱいに広げ、かすかに風にゆれ、
ささやくように咲いている。
一瞬、私は、軽いめまいを感じ、
その場にうずくまり、眼を閉じた。
石で造られた戒壇に若い僧が座っている。
板(いた)の間(ま)に立って中年の僧が、低い声で、
守るべき戒律を、若い僧に告げている。
そして、低い声で問いかける。
「
汝(なんじ)、この戒を、保(たも)つや否(いな)や」
若い僧が、眉をあげ、決然と答える。
「よく保(たも)つ」
その声が天井にこだまする。
すると中庭では、無数の白い花が散り、
その花びらは、ハラハラと舞いあがり、
青い空に、小鳥のように飛んでいく。
私は、眼をあけた。
コスモスが眼のなかで揺れている。
ひととき、私の魂は、
白いタイムトンネルを駆け抜けて、
八世紀の東大寺に遊んだのだろうか。
コスモス。
明治時代に日本にやってきた、
メキシコの高原に咲く花。
私の心を、
乾いた高原の風が、
吹きすぎていくのを感じた。
私は、そのときに決めた。
ふたりの男と、別れよう。
大学も辞めてしまおう。
あれから十年近くが過ぎて、
いま、
私はコスモスという花について、
ひとりで勉強している。
昼間は、保母さんをやりながら。