直川隆久 2020年8月16日「北村の流儀」

北村の流儀

        ストーリー 直川隆久        
           出演 大川泰樹

ドアが開き始めるそのときには、すでに片方の脚は踏み込んだ状態でいたい。
だから、相手が…まだ顔も見せないその相手が、ドアの裏側へ接近する気配を、
北村は全身を感覚器官にして待ち構える。
ドアノブに、見えない手がかかり、ひねられる。
扉が動く0.1秒前に、北村は右足を踏み出す。

右手の平の上には、小包が載っている。

ドアが20センチほど開く。
その隙間から、警戒心に満ちた相手の視線がこちらに射られる。
さっき北村がインタホン越しで名乗った所属組織ははたして真実なのか、
という疑念。
とがった視線は、突きささるべき場所を求めて、一瞬さまよう。

北村は「郵便局」と書かれた胸元の名札を視線の先端に触れさせる。
そしてその瞬間――荷物を持った右手はドアの前に残しつつ、
上体をするりと左側に回転させ、ドアと正対しないポジションに流す。
受け止め、同時に受け流す…ドアを開けた相手に安堵を与えながら、
その負のエネルギーをこちら側に撃ち込ませないために、
そして、次の動作へ最小の時間で移るために、北村が編み出した所作であった。

相手がサインをするためのペンを…
筆記具の共用を警戒して自前のボールペンを握りしめているのを…
北村は口惜しい思いで眺める。
「あ、サイン要りませんのでー」と改めて言葉を発しなければいけないからだ。
それだけ、対面状態で吐き出す空気が増える。
インタホン越しの時点で「郵便局です。ポストに入らないお荷物おもちしました。
サイン要りません、お渡しだけで」と最後まで言わせてくれればよいのだ。
なのに皆「ポストに入らないお荷物」まで聞いたところでインタホンを切り、
あたふたとペンを探しに行ってしまう。

受け渡しという、この不可避の接触に要する時間をどれだけ短く、
優雅にできるか。それが北村の関心事であった。
最初は、「感染回避」のためだった。
だが、何百回となく同じことを繰り返すうちに、
当初の実務的な目的は徐々に意味を失い、
いつしか様式美そのものの―労働の中における美学と洗練の―追求という
目的が純化されていった。

受取人の手が、荷物に触れるか触れないか、ぎりぎりのラインで、手を離す。
早すぎても、遅すぎてもいけない。
優雅に。
あくまで優雅に。
ソロを舞うダンサーが、たまさか舞台端(ぶたいばな)まで進み、
最前列の客席に、しなやかな肉体の躍動の残り香を、
ひとしずく置いて去るかのように――

小包がそのすべての重量を受取人の手の上に移動させたとき、
北村の体はすでに回転を終え、
自分が運転してきたトラックに向かって歩き出す態勢になっている。
荷札に視線を落とし、送り主の名と荷物の内容を確認した荷受人が
再び視線を上げるころには、
北村は「ありがとうございましたー」の「たー」を言い終えている。
最後の「たー」をひときわ大きく発声しながら。

北村には、厳に自らに戒めていることがある。
それは「荷受人からの、ねぎらいの言葉を期待してはならない」ということだ。
期待すれば、その期待が裏切られたとき、心は微細な傷を負う。
ひとつひとつは紙の縁で肌をなぜるような傷であっても、
幾度となく同じところを擦過(さっか)されるうち、
あるときぱっくりと口を開いて、血を噴き出すことがあるかもしれない。

だから、北村は荷受人に背を見せながら大きな声を出す。
大きな声を出せば、礼を言われたかどうかはそもそもわからない。

荷受人が「あ、マスクつけるの忘れてた。ま、いいか」などと独り言を漏らしているとき、
すでに北村はトラックの運転席に着き、エンジンを再点火している。
アクセルを踏み込む頃には、荷受人は再び家の中に戻り、
荷物を開封するハサミの在り処に意識は上書きされる。

北村に関する記憶は何も残らない。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

 

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直川隆久 2020年7月19日「顔のある空」

顔のある空

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

四月七日。
春らしい、青空。静かだ。

そして、今日も太陽と反対側の位置に、それはある。
――空の三分の一ほどを覆って浮かぶ、総理大臣の顔。

その二つの目はときどき、右に、左に動き、
地表で生きるすべての人間を見守っている。
口元は、ほんの少し開かれて、何か言葉を…
「あ」と声を発する一瞬前のように見える。

この街は、気密性を保つため、全体がセラミック製のドームでおおわれている。
青空も、総理大臣も、その内側に投影された映像なのだ。

ぼくは、生まれてから、この空しか知らない。
「顔のない空」を想像してみても、なんとなくとらえどころのない、
ただのっぺりとした広がりにしか思えない。

総理大臣の二つの目がぎゅる、と動いた。
北の方の街区を見つめている。
総理大臣の顔がみるみるくずれ、泣き顔になる。

「ああああん」

口から、赤ん坊のような泣き声が響く。
その声は、地を揺らすような響きになって、街を覆いつくす。

「あああああん」

恐怖…秩序が乱れることへの恐怖…が、ドームの内側の空気を満たす。

北街区の方から銃声が聞こえた。
二発…三発。
銃声がやむと、総理大臣は泣くのをやめた。
そして、さっきの「あ」と言いかけた顔に戻る。

誰かがまた脱出をはかろうとしたのだろう。
愚かな。外の空気が入ってきたら、どうするというんだ。
平和な静けさが、街をふたたび覆った。

ドームに投影する翌日の天気は、ネット投票によって決められる。
だが、「雨」にわざわざ投票する人間が多数派になることはない。
ここ二十年続いた青空は、明日も総理大臣の顔とともに、
僕らの頭上にあるだろう。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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直川隆久 2020年4月19日「ウイスキー」

ウィスキー

         ストーリー 直川隆久
          出演 地曳豪

原田に電話をかけて、家出しようと思うんだ、と言ったとき、
原田の返事は「ほんとか」でも「なんで」でもなく
「そうか、じゃテントがいるな」だった。
「もっていくよ。とりにこいよ。ブックオフの前」
「うん」
「自転車だろ?」
「うん」
ブックオフの前に行くと、原田が自転車にテントを積んで待っていた。
「ありがと」とぼくは言うと、原田からテントを受け取った。
テントを荷台にくくりつけているぼくに原田が「一緒に行こうか」と訊いた。
ぼくは、「うん」とだけ言って自転車をこぎだした。
原田も、にやにやしながら後からついてきた。
ぼくと原田は、いつもだいたいそんな感じだった。
途中のコンビニで弁当を買った。財布には3,000円とちょっと。
まあ、何日かはもつだろう。原田のもっている金も似たようなものだった。
どこへ行こうというあてはなかった。とりあえず、家から離れたかった。
別に、あの人にうらみがあったわけじゃない。
お互い距離をおいたほうがよいと思った。
あの人は、親父と一緒になりかっただけであって、
ぼくの母親になりたかったわけじゃないんだから。
お互い気を使いあいながら暮らす毎日にも、うんざりだった。

峠に向かう山道の途中で、陽が暮れ始めた。
急な上り坂で立ちこぎも無理になって、
原田とぼくは自転車に覆いかぶさるようにして押しながら歩いていく。
きつい。
「おおたっち、どうする」と原田が訊いてきた。
(ちなみに、ぼくの苗字は太田ではなく、大竹だ。)
「日が暮れないうちに、テント張ったほうがいいんじゃないの」
「テント?どこに?」
「ここ」
道がカーブになっていて、路肩の外側に小さく平坦な地面があった。
「間にガードレールあるから、寝てても轢かれんよ」と言って原田は笑った。
ぼくと原田は、そのスペースに、テントをひろげた。
寒くなったので、テントの中に引っ込む。腰をおろすと、
つたわってくる地面の冷たさにびっくりする。
「ほんとは、中に、マット敷くんだけどさ、もってくんのわすれた」
弁当を食べ終えたあとは、Switchをやったり、
クラスの気になる子の噂話とか、数学の先生の物まねとかで時間をつぶす。
 いつの間にか外は暗くなっていた。
さっきまで、頻繁に聞こえていたクルマの音も、ほとんど聞こえなくなった。

真っ暗なテントの中で、原田が懐中電灯をつけて、顔を下から照らす。
「こうやってさ。外にじいっと2人で立ってたらさ、
クルマ乗ってるやつ、めっちゃマジでビビるよな。ワーッ!だよな」
「やめとけバカ」
「なんで」
「事故おこしたらどうすんだ」
2人で寝転ぶ。寝袋なんてないから、雑魚寝だ。
体の下、地面と接しているところがどんどん冷たくなっていく。体を動かして、
ほかの部分が地面と接するようにする。しばらくはいいけれど、
じきにそこも冷たくなる。そんなことを繰り返してては、とても眠れそうになかった。
「寒いな、おおたっち」
「うん」
原田は起き上がって懐中電灯をつけ、リュックをごそごそと探ると、
なにかの酒の瓶をとりだした。
金色のラベルに、黒い文字でいろいろ書いてある。
ウィスキーだろう。それも、けっこう高いやつだ。
「のもう」
「え、なに、それ、原田のおとうさんの?」
「うん」
「やばくない?」
「全然」
コップもないので、そのまま飲むしかない。
原田は瓶に口をつけ、瓶のお尻を勢いよく持ち上げた。
原田の、最近大きくなってきたのどぼとけがぐり、と動いたととたん、
「げへー」と大きな声。
爆笑するぼくの横で、原田は目に涙をためながら、たっぷり1分はむせ返っていた。
「あー、きつい」
「そりゃそうだろ」
「あーでも、このへん、あっつい。あったかい」
胃のあたりをさすりながら原田が瓶をこっちへよこす。「おおたっちも」
「いいのかな」
「いいよ。ほら、雪山で、遭難するでしょ。そしたら、
セントバーナードがウィスキーもって助けに来てくれるじゃん」
「ブランデーじゃないの」
「そうだっけ」
ぼくも、瓶に口につけ、ぐっとあおった。
一気にのどに流しこまずに、口の中にいったん溜めようとしたけれど、
液体がびりびりと舌を焼く熱に、たまらず飲み込んでしまった。
 食道、胃、とウィスキーが通ったところが熱くなる。
交互に、ふたりでウイスキーを飲んで、
気が付いたら瓶の半分くらいがなくなってしまった。
テントの天井がぐるぐると回りだし、顔は猛烈に火照ってくる。
そういうめまいの感覚はわかったけれど、大人がよく言うような、
楽しくなったり、気楽になる感じはなかった。
ぼくらは寝転がり、ならんで、テントの天井を眺めていた。
「おおたっち、明日、か、かえんなよ」
「なんで?」
「い、家の人、心配するだろ」
「しないよ…ていうか、おまえこそ帰れよ」
「おれ…おれは、おおたっちが帰れば帰るよ」
「いいよ、つきあわなくて。そもそも、なんでひとの家出につきあうんだよ」
「なんでって…なんでかな…」原田は黙ってしまった。
 言ってから、後悔した。原田が一緒に行く、と言ったときに、
ぼくはすごくうれしかったんだから、そういう言い方はフェアじゃなかった。

「おれも、い、家から逃げたことあんだ」
「ふうん」
「でも、どこへも行けなかった。金ないし。すぐ…すぐ見つけられてつれもどされた」
「だせえな」
「だせえよな。でも、けっきょく、も、もどるしかないんだよな」
「…」
「…おれら、まだ力がないからさ。も、もうちょっと…腕も足も太くなんなきゃ…
ダメなんだ。じ…時間がいるんだ」
「時間って、いつまでさ」
ぼくは、原田の次の言葉を待って、じっと黙っていた。
でも次に聞こえてきたのは原田の寝息だった。

夜中、頭ががんがんして、吐きそうな気分になってきた。
やばい、と思ってテントの外に出る。側溝までかけていき、
しゃがみ込んだ瞬間、胃の中のものが全部逆流してきた。のどが猛烈に焼ける。
吐ききってしまうと、少し気分がましになった。と…
がさがさと、10メートルほど先で音がする。
がさ。がさ。
動悸が速くなる。
じっと音のするほうを見ていると、茂みから道路になにかが飛び出てきた。
犬にしては大きい。
…鹿だ。
角がある。雄だ。
 この山に鹿がいたなんて聞いたことがない。
 だけど…目の前にいるのは間違いなく鹿だ。それも、大きい。
角の先端はぼくの背丈をゆうに超える高さがあった。
 鹿は、悠然と道を横切ろうとしていたが、ぼくの気配にきづいたように、
ぴくりと頭をこちらに向けた。そのとき、
月の光を反射して暗闇に浮かび上がった二つの目――
異様に鋭い光が、まっすぐにぼくの体を射抜いた。
ぼくは、体を動かすことができなかった。
そのとき、鹿が、ぶふ、と息を鼻から出し、ぐっと、こちらに足を進めた。
ぼくはぎょっとして、すくみあがる。
原田!
そう叫ぼうと思っても、声がでない。
一歩。二歩。鹿がこちらに近づく。
だけど、鹿はそこで足をとめた。
取るに足らぬものにかかずらって、要らぬエネルギーを使うこともない、
と思ったのだろうか。ぷいと視線をそらし、鹿は、茂みの中に姿を消した。
そのあとで、どれくらいそこでじっとしていたかわからない。
自分の心臓の音で我に返った。
ぼくは、テントに戻ると、ただ黙って夜が明けるのを待った。

朝になって、テントから体をひきずりだす。
頭がどんよりして、気持ち悪い。
寝ぐせの頭を爆発させながら真っ青な顔をしている原田と、
のろのろとテントをたたんだ。
「おおたっち、どうする」と原田がきいてきた。
しばらく考えて、ぼくは答えた。
「この峠、上りきってから決める」
「ええ、のぼるの」
原田が、登坂を見上げて、泣きそうな顔をした。
「帰んないのか」
「うん。いちばん高いとこまで行って、眺めたいんだ。俺の街と、隣の町」
「…」
「それから決める」
どうせ、帰ることになるのかもしれない。それでも、
見慣れない風景を見てからにしたかった。
僕は、自転車を押し始めた。
原田は、おえ、と息を漏らし、「しょうがねえなあ」と言いながらぼくに続いた。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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水下きよし 「しあわせの味」

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しあわせの味・上(水下きよし七回忌特集 )

   ストーリー 直川隆久
   出演 水下きよし

津田は、スーツのポケットの中で鍵束をじゃらりと鳴らし、
由貴子の部屋の鍵を手探った。  
一週間ぶりにあの女と顔を合わせる瞬間、どういう態度をとったものか思案する。  
開口一番怒鳴るべきか。だが、日頃大きな声を出し慣れてもいない。
声がうわずって間抜けな調子に見えてしまっては損だという気がする。
まさか刃物まで振り回しはしまいが、逆上して大声でもだされては面倒だ。
やはり強い態度ででるのはやめておこう。  であればにんまりと笑いながら
「あのさ。家に電話かけてきちゃ、だぁめ。ね?」というあたりが
体力的にも経済である。
怒らず。どならず。そうすれば根は素直な由貴子のことだ。
こちらの人間的スケールに感動さえおぼえるかもしれない。  
一石二鳥だ。そうしよう、と津田は心を決める。

5階で停止したエレベーターを降り、右手に曲がる。
由貴子の住むコーポの廊下は宅配便の配送センターに面していて、
トラックの出入りがよく見渡せる。
最近のネット通販には注文日当日届けというサービスまであるらしい。
以前なら、日本中に翌日荷物が届くということだけでも十分に驚異だった。
それが今や「当日」である。
えらいことだ。
世の中のサービス競争がどこまですすむか、それを思うと津田は半ば呆然とする。
果てしなく競争し続けられる人間しかいわゆる勝ち組になれないとしたら、
自分はどうなのだろう?
とはいえ津田はそれ以上考えを深めることもしない。
まあ、面倒なのだ。

津田という人間は簡単に言って、人生における当事者意識というものを欠く男だった。
先週、奥山由貴子が自宅に電話をかけてきたときも、
いつになったら一緒になれるの、とすすり泣く由貴子の相手をするのが
だんだん億劫になり、だまりこんでしまった。
面倒ごとがおこったときは、とりあえず考えることを停止し、
最終的には都合のいい結果を誰かがもたらしてくれるのを待つ。
そんな姿勢で四十数年生きて来た。そしてその戦略は不思議にも
それなりの結果をおさめてきたのだった。
だから今日ここに来たのも、みずから積極的に問題を解決するつもりというよりは、
そろそろ自分の顔を見せれば由貴子も機嫌が治るのではないかという
ある種の楽観からだった。

奥から2軒目。鉄のドアの郵便受けに、水道工事屋のチラシがつっこまれている。
鍵をとりだす。
そのとき背後から
「津田さん」
と声がした。
「お。奥山くん。お」
と津田があわてるのを見て、奥山由貴子はふふ、と照れくさそうに笑う。
黒いカーデガンをはおり、サンダル履きの素足が寒々しい。やせたようにも見える。
「でかけてたの」
「うん。これ買いに行ってたんです」
と由貴子が片手はポケットにつっこんだまま、スーパーのレジ袋をがさりと掲げる。
黄色い中華麺の袋がふたつ入っているのが透けてみえた。
「…今日ぐらい、来てくれると思ってた」
そう言いながら、奥山由貴子が体を津田のほうへ押し付けて来た。

その服の奥の、体の柔らかみを感じながら、津田は思い出している。
たしかに、津田と奥山由貴子の関係はラーメンからはじまったのだった。
奥山由貴子は津田の職場の派遣社員だった。
会話の流れからお互いラーメン好きと知れ、
津田が自分のブログを教えた。その翌日由貴子が
「津田さんのラーメンブログ、ステキです~ 
 ラーメンの印象をタレントにたとえるのがオリジナルですね!
 こんど津田サンの生コメントききたいです!」というメールをよこしてきた。
津田は、お、と思った。そういうことか、と。
津田の後ろでコピー機が空くのを待つ由貴子が、
いつも妙に体を近づけてくるな、とは思っていたのだ。
 奥山由貴子がそれほど美人でもないことがやや不満だったが、
逆に「この程度の女なら、それほど男への要求も高くはあるまい」
という自信を得た津田は、由貴子を食べ歩きにさそいだした。
二人は昼休みのラーメン屋探訪を重ねる。
ラーメン屋で、津田は饒舌であった。さしたる投資をせずとも、
誰でもがもっともらしいことを語れるのがラーメンのよいところだ。
津田のラーメン批評に感化されたのか、由貴子がときおり
「食べるって、つまり愛なんですよね」などと芝
居がかったセリフを言うのには鼻白んだが、
脂にぬめった唇を舐める由貴子の様子を眺めると、津田は興奮した。
外出は夜に時間を移し、さらに――と、あとはよくある話だ。
二人は男女の関係になり、二年がすぎる。

しかし――というべきか、やはり、というべきか――津田には妻子がいた。
二人の将来についての津田の考えを由貴子がおずおずと訊いてくるたび、
津田は言葉をにごして時間がすぎるのを待った。
そうしていると、きまって由貴子のほうから、
「ごめんなさい、へんなこと言って。忘れて」と謝ってきた。
由貴子は津田にとってたいへん都合のいい女だった。
由貴子のそんなところが、津田は好きだった。
だが先週、不穏な波風が立った。
由貴子がビーフストロガノフにはじめて挑戦したのだが、
料理好きの彼女のわりにはできが悪く、津田は半分残したのだった。
どうしたのと訊く由貴子に、まずいから、と正直に答えられず、
帰ってから妻のつくる料理を食べなければならないからだ、答えてしまった。
 
不用意な一言が、おさえにおさえてきた感情を決壊させたのか――
津田が自宅に戻ったころを見計らい、由貴子が半狂乱で電話をかけてきた。
 その後の顛末は先ほどの通りである。連絡をとらぬまま一週間をやり過ごし、
ほとぼりがさめた頃とふんだ津田は、今、ふたたび由貴子の家の玄関にいる。

津田がドアを開けると、何かあたたかな料理の匂いが漂って来た。玄関でかがみ、
靴ひもを解く。紐の先がほつれているのに気付く。
妻に言って買っておいてもらわないと―
「何かつくってるの?」と顔をあげて津田が訊く。
「わかります?」
「ラーメンのスープつくってるんです」
「ラーメン?家で?」
「津田さんの一番好きなものを、自分の手でつくりたいって思って、挑戦したの」 
背中をむけたままで由貴子が言う。
「味見してくれます?」
そう言って、少し顔を赤らめて由貴子は靴をぬぎ、あわてて津田の横をすりぬけた。
かわいいことを言うじゃないか。
津田は、テーブルにつき、料理ができるのを待った。
鍋の湯気でほどよくほとびた空気につつまれながら津田は考える。
たしかにおれは、勝ち組じゃない。
でも、平均よりは、ちょっとだけツイてる人生をおくってるのかもしれないな。

出演者情報:水下きよし 花組芝居 http://hanagumi.ne.jp/

 

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しあわせの味・下 (水下きよし七回忌特集)

   ストーリー 直川隆久
   出演 水下きよし

津田の目の前に、由貴子が丼を、片手で置いた。
その動作のぞんざいさに一瞬驚く。怒っているのか。
津田は、上目遣いに由貴子の顔をみやる。
しかし、目に入ったのは、屈託のない笑顔。
「サムゲタン風のスープなんですよ」と由貴子が言う。
津田は、ほっとしながら、へえ?と大げさに声をあげてみせる。
「朝鮮人参が入ってるの。最近寒くなってきたでしょう」
「うん――あ、え?朝鮮人参?なんか、すごい、本格的」
「津田さん、先週、ちょっと鼻声だったから」
たしかに、その日は少し熱っぽく、風邪のひきはじめのような感覚がしていた。
――一週間、連絡はとらずとも心配はしてくれていたのか。
妻からは「大丈夫?」の一言もなかったというのに。
由貴子。優しい女だ。
「食べて」

由貴子に促されて津田はレンゲを手にとり、湯気のたつスープを一口すする。
やわらかであたたかいうまみが、口の内側にしみこんでいくのがわかる。
しっかりと時間をかけてとられた出汁。
この間のビーフストロガノフとは随分違うじゃないか。
「おいしい?」
「うん」
「よかった」
「しみるね」
「うれしい」
「味にトゲがない。無化調だね」
むかちょう、つまり化学調味料を使っていない、というラーメン好きのジャーゴン。
妻は知らない言葉。
「鳥のだし?でも、鳥よりこってりしてるね」
「サムゲタン『風』だから」由貴子の顔に頬笑みが広がる。
「次の課題は麺なんですよねえ」
由貴子が津田の向い側のイスに腰をおろす。
「津田さん、わたし、本当に反省しているの」
 津田は麺をずず、とすする。
うん、たしかに、スープはこれだけピントがきたいい出来なのに、この麺はないよな。
スーパーで売ってる蒸し麺じゃさ。と津田は心の中で言う。
「この間はどうかしてたの」と由貴子は続ける。
丼を持ち上げてスープをすすりながら、その話か、もういいじゃないか、
と津田は思う。
「怒ってます?」
「怒ってないよ」
「ねえ、津田さん」
津田は丼から目をあげる。意外なほど近くに由貴子の顔があった。
「津田さんのためにこれからもずっと…ラーメンつくらせてくれる?」
由貴子のしおらしい言葉に、津田はあらためて安堵する。
やっぱり、ちゃんと反省してくれたんだな。それでこそ、由貴子だ。
手軽に会え、うまい料理をつくって待っていてくれる女。
麺も、これから改善されることだろう。
これを、ひょっとすると幸せと呼ぶのかもしれない。
津田はしみじみと、そのありがたみを感じた。

由貴子が笑顔で津田の顔をのぞく。
「津田さん」
「ん?」
「わたしのほうが、奥さんより、おいしい?」
「え」
「あ…ごめんなさい。へんなこと言って」
 由貴子は笑みをくずさない。
「忘れて。もうこんなこと言わない」
「ありがと、由貴子」
津田は、由貴子の手をとろうと、右手を、向いにすわる由貴子のほうへのばす。
――女にはスキンシップが大切だ、と最近読んだ新書にも書いてあった。
だが、目に入った彼女の左腕に、津田は違和感を感じる。
カーデガンの袖の様子が、妙だ。
「由貴子。腕…どうしたの?」
「これ?」
由貴子が左腕をもちあげた。
肘から先15センチほどのところまでは、袖の中身がある。
しかし、その先は…脱がれた靴下のように力なくたれさがっている。
「見つかっちゃった」
由貴子が顔を赤らめる。
「え…?」
困惑する津田に、由貴子は微笑みを崩さず、訊く。
「ほんとに、おいしかった?」
そのとき、さっきから目にしてきたいくつかの情景が津田の頭の中でつながり、
ある予感を…悪い予感を結んだ。
片手でもちあげた、スーパーの袋。
サムゲタン「風」のスープ――
突き動かされるように津田はたちあがり、台所に走る。
背後で、由貴子の声がした。
「ねえ、津田さん、おかわりは?」
答えず、津田は鍋を覗きこむ。
鍋の中には、青ネギとともに、白くゆであがった何かがうかんでいた。

五本の骨が見え、それが…大事なものをつかむかのような形に曲げられているのが見えた。
みぞおちを締め上げられるような感覚に襲われ、津田は、後ずさりする。
その背中に、由貴子のやわらかい体がぶつかった。彼女の両腕が津田の胸に回される。
「おいしかった?」由貴子が繰り返す。
5秒ほど、沈黙があった。
津田はゆっくりと振り返り、由貴子の顔を見る。
「うん」 
津田はうめくように言った。
「手作りだもんな」

出演者情報:水下きよし 花組芝居 http://hanagumi.ne.jp/

 

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直川隆久 2020年2月16日「名前返上」

名前返上

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

いや、やっぱり、どう考えてもしたほうがいいよね。
名前の返上。
今さかんにテレビでやってるでしょ。
名前をさ、国に返上すれば、50万円もらえるってやつ。
来月いっぱいまでに手続きすれば、
さらにAmazonプライムが3年間無料になるって。

なんで国がそんなに躍起になってんのかわかんねえけどね。
ま、名前っていうもんで人間を管理するのがいろいろ非効率ってことらしいね。
同じ名前の人間もいるしね。
漢字とフリガナ、両方要るし。
国民ナンバーで管理したほうが簡単ってのは、ま、そうかな、と思うよね。
だったらもう、名前とかやめちゃおう、ってことなんじゃねえの。

でもおれ思うんだけどさあ、別に、なんの支障もないわけよ。
名前返上したって。
だから、みんなやっちゃえばいいと思うんだ。

今はさ、ネットで買い物するときとか、役所に届とか出すときに、
国民ナンバーと名前、両方を入れるでしょ。
あれ、めんどくさいじゃん。
みんなが名前を返上してさ…
もう、個人の特定のために名前ってものをつかわない、ってきめたらさ…
ネットショッピングで、名前とフリガナを入れる手間がなくなるんだよ。
大きいよ!あれ、ほんとめんどくさいもん。
全角カタカナでフリガナ入れたあとでさ、
半角で入れなきゃダメってのがわかったときのあの徒労感。すごいもん。

要するにさ、番号さえありゃ、事は足りるんだから。

え?日常生活はどうするのか?
いや、ふだんの生活は、
勝手に自分で自分にニックネームつけりゃいいわけだから。
明日から俺のことはタピオカって呼んでください!って
言やあいいんだから。言わねえけど(笑)。

でも、別にそれって新しいことでもないしさ。
オフ会で、ハンドルネームで呼び合うとか、あったでしょ。
本名知らないまま付き合うって、今はよくあるじゃん。
アメリカ行って、急にジミーとかむこうの名前で名乗るやつとかもいるでしょ。
まったくジミーって顔してないのに。
でも、ま、本人がジミーっていうんならジミーなんだろ、って、
そういうことになるわけだよな。むこうでは。
意外と、今までだって適当なんだからさ。
そうやって、みんな好き勝手な名前で生きてったらいいと思うよ。

子どもが生まれたときも、名前であれこれ悩まなくていいんだから、ラクだよ。
プリンでもポチでも適当な名前で赤ん坊のときは呼んでさ。
こどもが大きくなったら自分でニックネーム考えりゃいいんだから。
合理的だよ。

アイデンティティ?
…難しいこと言うね。
自分の名前は、自分そのもの?…ふうん、そんなもんかねえ。
自分そのものなら、自分の好きなようにすればいいんじゃないのかね。
よくわかんねえや。

まあ、そういうわけでさ、やっぱり俺、
来週あたり名前返上してこようと思うんだ。
そうなったら、50万円で何しようかな。
すげえでかい表札買って、そこに、番号彫るか。
意味ねえな(笑)。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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直川隆久2019年10月6日「猫の恩返し(リバイバル)」

猫の恩返し

            ストーリー 直川隆久
               出演 清水理沙

「卒業制作、すすんでますか」
中央食堂前のベンチでコーヒーを飲みながらぼんやりしていると、
見知らぬおやじが話しかけてきた。
いまどきベレー帽にマフラー。油絵科の教授か?にしては、服がぼろい。
いいかげんな返事をしていると、わたしの隣に腰掛けてきた。
「見覚えありませんか」
おやじが帽子をぬぐと、頭に大きなやけどのあと。
そこだけ髪の毛が生えていない。
「…ない。です。見覚え」
「若い頃、あなたに助けていただいたものです。
 ここの学生にいじめられているところを――」
そう言われて、あ、と思った。
3年ほど前、野良猫のひたいをタバコで焼いている映画学科の学生がいて、 
そいつらとものすごく喧嘩したおぼえがある。 
「現代版世界残酷物語を撮るんだ」とかわけのわからないことを言うバカ達だった。
「はい。その猫です」
ええー。なんだ、ずいぶんふけているな。
「すみませんね、猫は歳とるのがはやくて」
「いえ」
「長年このキャンパス内でうろうろさせてもらいましたが、
 残飯の味が悪くなったんで、河岸を変えようかと思いましてね。
 でもその前に一言あなたにお礼が言いたくて」
 
おどろきはしたが、感激はしなかった。
近頃、恋愛も卒業制作も行き詰っているせいで、
心の余裕がなくなってきたんだろうか。
「最後の機会ですから、何かお願いとか、ないですか」
「お願い?」
「ええ、お礼として…ひとつぐらいならなんとかなるかもしれません」
「今月の家賃とか、なんとかなりますか」
「…う~ん…」
猫おやじはかなり長いあいだ考えていたけれど
「…猫なもんで…」と言った。
「いや、まあ、そりゃそうですよね」
「すみません――ヌードモデルとかは不要ですか。デッサンの」
「特に…」
ああ、とおやじは肩を落とした。
「お役にたてること、なさそうですね」
「いいですよ。気つかわなくて」
「あ、そうだ。せめてちょっとした卒業制作のアドバイスをさしあげましょう」
「なんです」
「――あなたの指導担当の岡崎先生はね、4回生の清本さんとできていますからね。
 彼女とテーマがかぶらないほうがいいですよ。
 このあいだ、3号棟の実習室で二人が乳くりあってるのを窓から見てしまいました」
「へえ」
「かぶると、どうしても自分の女のほうをひいきしますから…なんて、
 すみませんね。こんなことしかもうしあげられなくて。さようなら」
「さよなら」
おやじは礼をして、歩き去った。
たしかに、猫背だった。
さて、わたしも恩返しをしなければならない――岡崎先生にだ。
清本と二股かけてくれてて、ありがとう。
これから、彫刻刀を研いで、岡崎の研究室に向かうことにする。



出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

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