目が覚めたら、障子は明るいのに
ポタポタと雨音が聞こえていました。
雨音というより雫の音です。
2階から見ると、
狭い道を隔てた共同浴場の屋根が白く光っていました。
雪、と僕は日記に書いたけれど本当は霜でした。
今朝は大霜です、と宿の女将さんの高い声が
階段を降りる僕の肩に刺さって、
僕は日記のウソを知られたかとうろたえました。
川沿いの一軒宿から見る景色は
その霜の朝を境に一変しました。
葉を落とした落葉樹は
小骨のような枝がくっきりと見えてきました。
川も涸れて細い流れの両側には
あばらが浮き出るように大きな石が顔を出しました。
山も川もすべての罪をさらけ出して眠っているようでした。
僕もよく眠っています。
もう何日も眠りつづけています。
あなたがいなくなってから
あなたがこの世界から消えてから
僕ははじめてやすらかな日々を過しています。
あなたのカラダはもう僕を置き去りにすることはなく
あなたの心はどこにも飛んでいかない。
あなたの眼はもう誰も見ることがなく
あなたの手は誰にも触れることはない。
僕はすっかり安心して白いお湯の中で手足を伸ばし、
あなたを忘れる時間さえ持てるほどです。
お湯の湧く川の向こう岸には
石垣を組んで何軒かの家がうずくまり
そばの畑からここ何日か籾殻を焼く煙が登っています。
籾殻はじわじわと蒸し焼きにすると黒い炭になり
燃え過ぎると白い灰になると教わりました。
僕はきっと、いっぺん灰になってしまったんだ。
そして、灰ではないものに再生するために
この一軒宿にやってきて
心のアリバイを日記に書き続けているのだと思います。
籾殻の煙が消えると
西の空だけが不思議と明るく
ものの輪郭が不確かになる夕暮れがやってきます。
僕があなたの首に手をかけたとき大きく開いたあなたの眼
あのときの眼が日記を覗きこむ気配を感じるのも
そんな夕暮れです。
あなたはその眼を、もう一度眠らせてもらいたいですか。
日記の中の僕は
いなくなったあなたを悲しんでいるけれど
日記を書いている僕は、
何度でもあなたの眼を閉ざすことができます。
それほど僕は、あなたの眼を愛しています。
出演者情報:大川泰樹(フリー)