牛人

 

牛人

 作:中島敦
 朗読:遠藤守哉

魯の叔孫豹《しゅくそんひょう》がまだ若かった頃、
乱を避けて一時|斉《せい》に奔《はし》ったことがある。
途《みち》に魯の北境|庚宗《こうそう》の地で一美婦を見た。
俄《にわ》かに懇《ねんご》ろとなり、一夜を共に過して、
さて翌朝別れて斉に入った。
斉に落着き大夫《たいふ》国氏《こくし》の娘を娶って二児を挙げるに及んで、
かつての路傍一夜の契《ちぎり》などはすっかり忘れ果ててしまった。

 或夜、夢を見た。四辺《あたり》の空気が重苦しく立罩《たちこ》め
不吉な予感が静かな部屋の中を領している。
突然、音も無く室の天井が下降し始める。
極めて徐々に、しかし極めて確実に、それは少しずつ降りてくる。
一刻ごとに部屋の空気が濃く淀《よど》み、呼吸が困難になってくる。
逃げようともがくのだが、身体は寝床の上に仰向いたままどうしても動けない。
見えるはずはないのに、
天井の上を真黒な天が盤石《ばんじゃく》の重さで押しつけているのが、
はっきり判る。
いよいよ天井が近づき、堪え難い重みが胸を圧した時、
ふと横を見ると、一人の男が立っている。
恐ろしく色の黒い傴僂で、眼が深く凹《くぼ》み、獣のように突出た口をしている。
全体が、真黒な牛に良く似た感じである。
牛! 余《われ》を助けよ、と思わず救を求めると、その黒い男が手を差伸べて、
上からのし掛かる無限の重みを支えてくれる。
それからもう一方の手で胸の上を軽く撫《な》でてくれると、
急に今までの圧迫感が失《なくな》ってしまった。
ああ、良かった、と思わず口に出したとき、目が醒《さ》めた。

 翌朝、従者下僕らを集めて一々|検《しら》べて見たが、
夢の中の牛男《うしおとこ》に似た者は誰もいない。
その後も斉の都に出入する人々について、それとなく気を付けて見るが、
それらしい人相の男には絶えて出会わない。

 数年後、再び故国に政変が起り、叔孫豹は家族を斉に残して急遽帰国した。
後、大夫として魯の朝《ちょう》に立つに及んで、初めて妻子を呼ぼうとしたが、
妻は既に斉の大夫某と通じていて、一向夫の許に来ようとはしない。
結局、二子|孟丙《もうへい》・仲壬《ちゅうじん》だけが父の所へ来た。

 或朝、一人の女が雉《きじ》を手土産に訪ねて来た。
始め叔孫の方ではすっかり見忘れていたが、話して行く中にすぐ判った。
十数年前斉へ逃れる道すがら庚宗の地で契った女である。
独りかと尋ねると、倅《せがれ》を連れて来ているという。
しかも、あの時の叔孫の子だというのだ。
とにかく、前に連れてこさせると、叔孫はアッと声に出した。
色の黒い・目の凹んだ・傴僂なのだ。
夢の中で己を助けた黒い牛男にそっくりである。
思わず口の中で「牛!」と言ってしまった。
するとその黒い少年が驚いた顔をして返辞をする。
叔孫は一層驚いて、少年の名を問えば、「牛と申します」と答えた。

 母子ともに即刻引取られ、少年は豎《じゅ》(小姓)の一人に加えられた。
それ故、長じて後もこの牛に似た男は豎牛《じゅぎゅう》と呼ばれるのである。
容貌に似合わず小才の利く男で、すこぶる役には立つが、
いつも陰鬱《いんうつ》な顔をして少年仲間の戯れにも加わらぬ。
主人以外の者には笑顔一つ見せない。
叔孫にはひどく可愛がられ、長じては叔孫家の家政一切の切廻しをするようになった。

 眼の凹んだ・口の突出た・黒い顔は、
ごく偶《たま》に笑うとひどく滑稽な愛嬌《あいきょう》に富んだものに見える。
こんな剽軽《ひょうきん》な顔付の男に悪企《わるだくみ》など出来そうもない
という印象を与える。目上の者に見せるのはこの顔だ。
仏頂面をして考え込む時の顔は、ちょっと人間離れのした怪奇な残忍さを呈する。
儕輩《さいはい》の誰彼が恐れるのはこの顔だ。
意識しないでも自然にこの二つの顔の使い分けが出来るらしい。

 叔孫豹の信任は無限であったが、後嗣《あとつぎ》に直そうとは思っていない。
秘事ないし執事としては無類と考えていたが、
魯の名家の当主とは、その人品からしてもちょっと考えにくいのである。
豎牛ももちろんそれは心得ている。
叔孫の息子たち、殊に斉から迎えられた孟丙・仲壬の二人に向かっては、
常に慇懃《いんぎん》を極めた態度をとっている。
彼らの方では、幾分の不気味さと多分の軽蔑とをこの男に感じているだけだ。
父の寵《ちょう》の厚いのに大して嫉妬《しっと》を覚えないのは、
人柄の相違というものに自信をもっているからであろう。

 魯の襄公《じょうこう》が死んで若い昭公の代となる頃から、
叔孫の健康が衰え始めた。
丘蕕《きゅうゆう》という所へ狩りに行った帰りに悪寒を覚えて寝付いてからは、
ようやく足腰が立たなくなって来る。
病中の身の廻りの世話から、病床よりの命令の伝達に至るまで、
一切は豎牛一人に任せられることになった。
豎牛の孟丙らに対する態度は、しかし、いよいよ遜《へりくだ》ってくる一方である。

 叔孫が寝付く以前に、長子の孟丙のために鐘を鋳させることに決め、
その時に言った。
お前はまだこの国の諸大夫と近附になっていないから、
この鐘が出来上ったら、その祝を兼ねて諸大夫を饗応するが宜《よ》かろうと。
明らかに孟丙を相続者と決めての話である。
叔孫が病に伏してから、ようやく鐘が出来上った。
孟丙は、かねて話のあった宴会の日取の都合を父に聞こうとして、
豎牛にその旨を通じてもらった。
特別の事情が無い限り、豎牛の外は誰一人病室に出入出来なかったのである。
豎牛は、孟丙の頼を受けて病室に入ったが、叔孫には何も取次がない。
すぐ外へ出て来て孟丙に向かい、
主君の言葉として出鱈目《でたらめ》な日にちを指定する。
指定された日に孟丙は賓客を招き盛んに饗応して、その座で始めて新しい鐘を打った。
病室でその音を聞いた叔孫が怪しんで、あれは何だと聞く。
孟丙の家で鐘の完成を祝う宴が催され多数の客が来ている旨を、豎牛が答える。
俺の許も得ないで勝手に相続人面《づら》をするとは何事だ、と病人が顔色を変える。
それに、客の中には斉にいる孟丙殿の母上の関係の方々も遥々見えているようです、と
豎牛が附加える。
不義を働いたかつての妻の話を持出すといつも叔孫の機嫌が見る見る悪くなることを、
良く承知しているのだ。
病人は怒って立上がろうとするが、豎牛に抱きとめられる。
身体に障ってはいけないというのである。
俺がこの病でてっきり死ぬものと決めて掛かって、
もう勝手な真似を始めたのだなと歯咬《はが》みをしながら、叔孫は豎牛に命ずる。
構わぬ。引捕らえて牢《ろう》に入れろ。抵抗するようなら打殺しても宜《よ》い。

 宴が終り、若い叔孫家の後嗣は快く諸賓客を送り出したが、
翌朝は既に屍体《したい》となって家の裏藪《うらやぶ》に棄てられていた。

 孟丙の弟仲壬は昭公の近侍《きんじ》某と親しくしていたが、
一日友を公宮に訪ねた時、たまたま公の目に留《とま》った。
二言《ふたこと》三言《みこと》、その下問に答えている中に、気に入られたと見え、
帰りには親しく玉環《ぎょっかん》を賜わった。
大人しい青年で、親にも告げずに身に佩《お》びては悪かろうと、
豎牛を通じて病父にその名誉の事情を告げ玉環を見せようとした。
牛は玉環を受取って内に入ったが、叔孫には示さない。
仲壬が来たということさえ話さぬ。再び外に出て来て言った。
父上には大変御喜びですぐにも身に着けるようにとのことでした、と。
仲壬はそこで始めてそれを身に佩びた。数日後、豎牛が叔孫に勧める。
既に孟丙が亡い以上、仲壬を後嗣に立てることは決まっている故、
今から主君昭公に御目通りさせては如何。叔孫がいう。
いや、まだそれと決めた訳ではないから、今からそんな必要はない。
しかし、と牛が言葉を返す。
父上の思召《おぼしめし》はどうあろうと、息子の方では勝手にそう決め込んで、
もはや直接君公に御目通りしていますよ。
そんな莫迦《ばか》な事があるはずは無いという叔孫に、
それでも近頃仲壬が君公から拝領したという玉環を佩びていることは確かですと
牛が請け合う。
早速仲壬が呼ばれる。果たして玉環を佩びている。公からの戴きものだという。
父は利かぬ身体を床の上に起こして怒った。
息子の弁解は何一つ聞かれず、すぐにその場を退いて謹慎せよという。
 その夜、仲壬はひそかに斉に奔《はし》った。

 病が次第に篤《あつ》くなり、
焦眉《しょうび》の問題として真剣に後嗣のことを考えねばならなくなった時、
叔孫豹はやはり仲壬を呼ぼうと思った。豎牛にそれを命ずる。
命を受けて出ては行ったが、もちろん斉にいる仲壬に使を出しはしない。
さっそく仲壬の許へ使を遣わしたが
非道なる父の所へは二度と戻らぬという返辞だったと復命する。
この頃になってようやく叔孫にも、この近臣に対する疑いが湧《わ》いて来た。
汝《なんじ》の言葉は真実か? と吃《きつ》として聞き返したのはそのためである。
どうして私が偽《いつわり》など申しましょう、と答える豎牛の唇の端が、
その時|嘲《あざけ》るように歪《ゆが》んだのを病人は見た。
こんな事はこの男が邸に来てから全く始めてであった。
カッとして病人は起上ろうとしたが、力が無い。すぐ打倒れる。
その姿を、上から、黒い牛のような顔が、
今度こそ明瞭な侮蔑《ぶべつ》を浮かべて、冷然と見下す。
儕輩や部下にしか見せなかったあの残忍な顔である。
家人や他の近臣を呼ぼうにも、
今までの習慣でこの男の手を経ないでは誰一人呼べないことになっている。
その夜病大夫は殺した孟丙のことを思って口惜し泣きに泣いた。

 次の日から残酷な所作が始まる。
病人が人に接するのを嫌うからとて、食事は膳部の者が次室まで運んで置き、
それを豎牛が病人の枕頭に持って来るのが慣わしであったのを、
今やこの侍者が病人に食を進めなくなったのである。
差出される食事はことごとく自分が喰ってしまい、からだけをまた出して置く。
膳部の者は叔孫が喰べたことと思っている。
病人が餓を訴えても、牛男は黙って冷笑するばかり。返辞さえもはやしなくなった。
誰に助を求めようにも、叔孫には絶えて手段が無いのである。

 たまたまこの家の宰《さい》たる杜洩《とせつ》が見舞に来た。
病人は杜洩に向って豎牛の仕打を訴えるが、
日頃の信任を承知している杜洩は冗談と考えててんで取合わない。
叔孫がなおも余り真剣に訴えると、
今度は熱病のため心神が錯乱したのではないかと、いぶかる風である。
豎牛もまた横から杜洩に目配《めくばせ》して、
頭の惑乱した病者にはつくづく困り果てたという表情を見せる。
しまいに、病人はいら立って涙を流しながら、痩せ衰えた手で傍の剣を指し、
杜洩に「これであの男を殺せ。殺せ、早く!」と叫ぶ。
叔孫は衰え切った身体を顫わせて号泣する。
杜洩は牛と目を見合せ、眉をしかめながら、そっと室を出る。
客が去ってから始めて、牛男の顔に会体の知れぬ笑が微《かす》かに浮かぶ。

どうしても自分が狂者としてしか扱われないことを知ると
 餓と疲れの中に泣きながら、いつか病人はうとうとして夢を見た。
いや、眠ったのではなく、幻覚を見ただけかも知れぬ。
重苦しく淀んだ・不吉な予感に充ちた部屋の空気の中に、
ただ一つ灯が音も無く燃えている。
輝きの無い・いやに白っぽい光である。
じっとそれを見ている中に、ひどく遠方に——十里も二十里も彼方にあるもののように感じられて来る。
寝ている真上の天井が、いつかの夢の時と同じように、徐々に下降を始める。
ゆっくりと、しかし確実に、上からの圧迫は加わる。逃れようにも足一つ動かせない。
傍を見ると黒い牛男が立っている。救を求めても、今度は手を伸べてくれない。
黙ってつッ立ったままにやりと笑う。
絶望的な哀願をもう一度繰返すと、急に、慍《おこ》ったような固い表情に変り、
眉一つ動かさず凝乎《じっ》と見下す。
今や胸の真上に蔽いかぶさって来る真黒な重みに、最後の悲鳴を挙げた途端に、
正気に返った。……

 いつか夜に入ったと見え、暗い部屋の隅に白っぽい灯が一つともっている。
今まで夢の中で見ていたのはやはりこの灯だったのかも知れない。
傍を見上げると、これまた夢の中とそっくり[#「そっくり」に傍点]な豎牛の顔が、
人間離れのした冷酷さを湛えて、静かに見下している。
その貌《かお》はもはや人間ではなく、真黒な原始の混沌《こんとん》に根を生やした
一個の物のように思われる。
叔孫は骨の髄まで凍る思いがした。己を殺そうとする一人の男に対する恐怖ではない。
むしろ、世界のきびしい悪意といったようなものへの、
遜《へりくだ》った懼《おそ》れに近い。
もはや先刻までの怒は運命的な畏怖《いふ》感に圧倒されてしまった。
今はこの男に刃向《はむか》おうとする気力も失せたのである。

 三日の後、魯の名大夫、叔孫豹は餓えて死んだ。

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2022年10月16日 遠藤守哉 朗読「悟浄歎異」より抜粋

「悟浄歎異 」  より抜粋
      
          作:中島敦
          朗読:遠藤守哉

三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。
変化(へんげ)の術ももとより知らぬ。途(みち)で妖怪(ようかい)に襲われれば、
すぐに掴(つか)まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。
この意気地のない三蔵法師に、我々三人が斉(ひと)しく惹(ひ)かれているというのは、
いったいどういうわけだろう? 
 (こんなことを考えるのは俺だけだ。悟空(ごくう)も八戒(はっかい)も
  ただなんとなく師父(しふ)を敬愛しているだけなのだから。)

私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに
惹(ひ)かれるのではないか。
これこそ、我々,妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。
三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)
位置を―その哀れさと貴(とうと)さとをハッキリ悟っておられる。
しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。
確かにこれだ、我々になくて師に在(あ)るものは。
なるほど、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。
しかし、いったん己(おのれ)の位置の悲劇性を悟ったが最後、
金輪際(こんりんざい)、正しく美しい生活を真面目(まじめ)に続けていくことが
できないに違いない。
あの弱い師父(しふ)の中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。
内なる貴さが外(そと)の弱さに包まれているところに、
師父の魅力があるのだと、俺(おれ)は考える。
もっとも、あの不埒(ふらち)な八戒(はっかい)の解釈によれば、
俺たちの――少なくとも悟空(ごくう)の師父に対する敬愛の中には、
多分に男色的要素が含まれているというのだが。

 まったく、悟空(ごくう)のあの実行的な天才に比べて、
三蔵法師は、なんと実務的には鈍物(どんぶつ)であることか! 
だが、これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。
外面的な困難にぶつかったとき、師父は、
それを切抜ける途(みち)を外に求めずして、内に求める。
つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。
いや、そのとき慌(あわ)てて構えずとも、
外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、
平生(へいぜい)から構えができてしまっている。
いつどこで窮死(きゅうし)してもなお幸福でありうる心を、
師はすでに作り上げておられる。
だから、外に途を求める必要がないのだ。
我々から見ると危(あぶ)なくてしかたのない肉体上の無防禦(むぼうぎょ)も、
つまりは、師の精神にとって別にたいした影響はないのである。
悟空のほうは、見た眼にはすこぶる鮮やかだが、
しかし彼の天才をもってしてもなお打開できないような事態が
世には存在するかもしれぬ。
しかし、師の場合にはその心配はない。師にとっては、
何も打開する必要がないのだから。

 悟空には、嚇怒(かくど)はあっても苦悩はない。
歓喜はあっても憂愁(ゆうしゅう)はない。
彼が単純にこの生を肯定(こうてい)できるのになんの不思議もない。
三蔵法師の場合はどうか? 
あの病身と、禦(ふせ)ぐことを知らない弱さと、
常に妖怪(ようかい)どもの迫害を受けている日々とをもってして、
なお師父(しふ)は怡(たの)しげに生を肯(うべな)われる。
これはたいしたことではないか!

 おかしいことに、
悟空は、師の自分より優(まさ)っているこの点を理解していない。
ただなんとなく師父から離れられないのだと思っている。
機嫌(きげん)の悪いときには、
自分が三蔵法師に随(したが)っているのは、
ただ緊箍咒(きんそうじゅ)(悟空の頭に箝(は)められている金の輪で、
 悟空が三蔵法師の命に従わぬときには
この輪が肉に喰(く)い入って彼の頭を緊(し)め付け、
 堪えがたい痛みを起こすのだ。)のためだ、などと考えたりしている。
そして「世話の焼ける先生だ。」などとブツブツ言いながら、
妖怪に捕えられた師父を救い出しに行くのだ。
「あぶなくて見ちゃいられない。どうして先生はああなんだろうなあ!」
と言うとき、悟空はそれを弱きものへの憐愍(れんびん)だと
自惚(うぬぼ)れているらしいが、
実は、悟空の師に対する気持の中に、
生き物のすべてがもつ・優者に対する本能的な畏敬(いけい)、
美と貴さへの憧憬(どうけい)がたぶんに加わっていることを、
彼はみずから知らぬのである。

 もっとおかしいのは、
師父自身が、自分の悟空に対する優越をご存じないことだ。
妖怪の手から救い出されるたびごとに、師は涙を流して悟空に感謝される。
「お前が助けてくれなかったら、わしの生命はなかったろうに!」と。
だが、実際は、どんな妖怪に喰(く)われようと、師の生命は死にはせぬのだ。

 二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、
ときにはちょっとしたいさかいはあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。
およそ対蹠(たいせき)的なこの二人の間に、
しかし、たった一つ共通点があることに、俺(おれ)は気がついた。
それは、二人がその生き方において、ともに、所与(しょよ)を必然と考え、
必然を完全と感じていることだ。
さらには、その必然を自由と看做(みな)していることだ。
金剛石(こんごうせき)と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、
その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、
ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。
そして、この「必然と自由の等置(とうち)」こそ、
彼らが天才であることの徴(しるし)でなくてなんであろうか?

 悟空(ごくう)、八戒(はっかい)、俺(おれ)と我々三人は、
まったくおかしいくらいそれぞれに違っている。
日が暮れて宿がなく、路傍の廃寺に泊まることに相談が一決するときでも、
三人はそれぞれ違った考えのもとに一致しているのである。
悟空はかかる廃寺こそ究竟(くっきょう)の妖怪(ようかい)退治の場所だとして、
進んで選ぶのだ。
八戒は、いまさらよそを尋ねるのも億劫(おっくう)だし、
早く家にはいって食事もしたいし、眠くもあるし、というのだし、
俺の場合は、「どうせこのへんは邪悪な妖精(ようせい)に満ちているのだろう。
どこへ行ったって災難に遭(あ)うのだとすれば、
ここを災難の場所として選んでもいいではないか」と考えるのだ。
生きものが三人寄れば、皆このように違うものであろうか? 
生きものの生き方ほどおもしろいものはない。

 孫行者(そんぎょうじゃ)の華(はな)やかさに圧倒されて、
すっかり影の薄らいだ感じだが、
猪悟能八戒(ちょごのうはっかい)もまた特色のある男には違いない。
とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。
嗅覚(きゅうかく)・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執(しゅう)しておる。
あるとき八戒(はっかい)が俺(おれ)に言ったことがある。
「我々が天竺(てんじく)へ行くのはなんのためだ? 
善業を修(ず)して来世に極楽に生まれんがためだろうか? 
ところで、その極楽(ごくらく)とはどんなところだろう。
蓮(はす)の葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけでは
しようがないじゃないか。
極楽にも、あの湯気の立つ羹(あつもの)をフウフウ吹きながら吸う楽しみや、
こりこり皮の焦げた香ばしい焼肉を頬張(ほおば)る楽しみがあるのだろうか? 
そうでなくて、話に聞く仙人のように
ただ霞(かすみ)を吸って生きていくだけだったら、
ああ、厭(いや)だ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ! 
たとえ、辛(つら)いことがあっても、
またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬ怡(たの)しさのあるこの世が
いちばんいいよ。少なくとも俺(おれ)にはね。」
そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。
夏の木蔭(こかげ)の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛(すいてき)。
春暁の朝寐(あさね)。
冬夜の炉辺歓談。……なんと愉(たの)しげに、
また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! 
ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、
彼の言葉はいつまで経(た)っても尽きぬもののように思われた。
俺はたまげてしまった。
この世にかくも多くの怡(たの)しきことがあり、
それをまた、かくも余すところなく味わっているやつがいようなどとは、
考えもしなかったからである。
なるほど、楽しむにも才能の要(い)るものだなと俺(おれ)は気がつき、
爾来(じらい)、この豚を軽蔑(けいべつ)することを止(や)めた。
だが、八戒(はっかい)と語ることが繁(しげ)くなるにつれ、
最近妙なことに気がついてきた。
それは、八戒の享楽主義の底に、
ときどき、妙に不気味なものの影がちらりと覗くことだ。
「師父(しふ)に対する尊敬と、
孫行者(そんぎょうじゃ)への畏怖(いふ)とがなかったら、
俺はとっくにこんな辛(つら)い旅なんか止めてしまっていたろう。」
などと口では言っている癖に、
実際はその享楽家的な外貌(がいぼう)の下に戦々兢々(せんせんきょうきょう)として
薄氷を履(ふ)むような思いの潜んでいることを、俺は確かに見抜いたのだ。
いわば、天竺(てんじく)へのこの旅が、あの豚にとっても(俺にとってと同様)、
幻滅と絶望との果てに、最後に縋(すが)り付いたただ一筋の糸に違いないと
思われる節(ふし)が確かにあるのだ。
だが、今は八戒の享楽主義の秘密への考察に耽(ふけ)っているわけにはいかぬ。
とにかく、今のところ、俺は孫行者(そんぎょうじゃ)からあらゆるものを
学び取らねばならぬのだ。
他のことを顧みている暇はない。
三蔵法師の智慧(ちえ)や八戒の生き方は、孫行者を卒業してからのことだ。
まだまだ、俺は悟空(ごくう)からほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。
流沙河(りゅうさが)の水を出てから、いったいどれほど進歩したか? 
依然たる呉下(ごか)の旧阿蒙(きゅうあもう)ではないのか。
この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。
平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、
毎日の八戒の怠惰(たいだ)を戒(いまし)めること。
それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。
俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、
調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。
けっして行動者にはなれないのだろうか?
 孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。
「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。
 自分は燃えているな、などと考えているうちは、
 まだほんとうに燃えていないのだ。」と。
悟空(ごくう)の闊達無碍(かったつむげ)の働きを見ながら俺はいつも思う。
「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熟してきて、
おのずと外に現われる行為の謂(いい)だ。」と。
ところで、俺はそれを思うだけなのだ。まだ一歩でも悟空についていけないのだ。
学ぼう、学ぼうと思いながらも、悟空の雰囲気の持つ桁違(けたちが)いの大きさに、
また、悟空的なるものの肌合(はだあ)いの粗(あら)さに、
恐れをなして近づけないのだ。
実際、正直なところを言えば、悟空は、
どう考えてもあまり有難(ありがた)い朋輩(ほうばい)とは言えない。
人の気持に思い遣(や)りがなく、ただもう頭からガミガミ怒鳴り付ける。
自己の能力を標準にして他人(ひと)にもそれを要求し、
それができないからとて怒(おこ)りつけるのだから堪(たま)らない。
彼は自分の才能の非凡さについての自覚がないのだとも言える。
彼が意地悪でないことだけは、確かに俺たちにもよく解(わか)る。
ただ彼には弱者の能力の程度がうまく呑(の)み込めず、
したがって、弱者の狐疑(こぎ)・躊躇(ちゅうちょ)・
不安などにいっこう同情がないので、
つい、あまりのじれったさに疳癪(かんしゃく)を起こすのだ。
俺たちの無能力が彼を怒らせさえしなければ、
彼は実に人の善い無邪気な子供のような男だ。
八戒はいつも寐(ね)すごしたり怠(なま)けたり化け損(そこな)ったりして、
怒られどおしである。
俺が比較的彼を怒らせないのは、
今まで彼と一定の距離を保っていて
彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。
こんなことではいつまで経(た)っても学べるわけがない。
もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、
どんどん叱られ殴られ罵られ、こちらからも罵り返して、
身をもってあの猿からすべてを学び取らねばならぬ。
遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。

 夜。俺(おれ)は独(ひと)り目覚めている。
 今夜は宿が見つからず、山蔭(やまかげ)の渓谷の大樹の下に草を藉いて、
四人がごろ寐(ね)をしている。
一人おいて向こうに寐ているはずの悟空(ごくう)の鼾(いびき)が
山谷(さんこく)に谺(こだま)するばかりで、
そのたびに頭上の木の葉の露がパラパラと落ちてくる。
夏とはいえ山の夜気はさすがにうすら寒い。もう真夜中は過ぎたに違いない。
俺は先刻から仰向(あおむ)けに寐ころんだまま、
木の葉の隙(あいだ)から覗(のぞ)く星どもを見上げている。
寂しい。何かひどく寂しい。
自分があの淋(さび)しい星の上にたった独りで立って、
まっ暗な・冷たい・なんにもない世界の夜を眺めているような気がする。
星というやつは、以前から、永遠だの無限だのということを考えさせるので、
どうも苦手(にがて)だ。
それでも、仰向(あおむ)いているものだから、
いやでも星を見ないわけにいかない。
青白い大きな星のそばに、紅(あか)い小さな星がある。
そのずっと下の方に、やや黄色味を帯びた暖かそうな星があるのだが、
それは風が吹いて葉が揺れるたびに、見えたり隠れたりする。
流れ星が尾を曳(ひ)いて、消える。
なぜか知らないが、そのときふと俺は、
三蔵法師(さんぞうほうし)の澄んだ寂しげな眼を思い出した。
常に遠くを見つめているような・何物かに対する憫(あわ)れみを
いつも湛(たた)えているような眼である。
それが何に対する憫れみなのか、
平生(へいぜい)はいっこう見当が付かないでいたが、
今、ひょいと、判(わか)ったような気がした。
師父(しふ)はいつも永遠を見ていられる。
それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命(さだめ)をも
はっきりと見ておられる。
いつかは来る滅亡(ほろび)の前に、
それでも可憐(かれん)に花開こうとする叡智(ちえ)や
愛情(なさけ)や、そうした数々の善(よ)きものの上に、
師父は絶えず凝乎(じっ)と愍(あわ)れみの眼差(まなざし)を
注(そそ)いでおられるのではなかろうか。
星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。
俺は起上がって、隣に寐(ね)ておられる師父の顔を覗(のぞ)き込む。
しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、
俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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