わたしはネコです。
ストーリー 小野田隆雄
出演 久世星佳
わたしはネコです。
名前は、まだありません。
銀座八丁目、並木通りの裏通りの、
一階がお寿司屋さんで、二階から上に
バーと居酒屋さんが、
十五軒入っているゲンマンビルと
一階がイタリアンレストランで、
二階から上に、クラブと小料理屋さんが、
十一軒入っているアオイビル、そのあいだの、
せまい露地に住んでいます。
わたしは、たぶん、一歳とちょっと。
黒い毛色の女の子です。
どこかで生れて、ここに捨てられたのか、
この近所の露地に生れて、
ふらふらと道に迷って、ここに来たのか、
そのへんのことは、わかりません。
いちばん初めの記憶は、
去年の五月下旬の夜遅く、
ここの露地で、ミーミー、
鳴いていたときのことでした。
「おい、どうした、コネコ」
声をかけてくれたのは、
ゲンマンビル一階の
青葉寿司のタケさんでした。
「まあ、黒ちゃん」
そう、話しかけてくれたのは、
アオイビル三階のクラブ、
スキャンダルのナオコさんでした。
「ハラがへってるのか?
よしよし、魚のホネでも、
持ってきてやるからな」と、タケさん。
「バカだねぇ。こんなコネコに
魚のホネなんて。ちょっとお待ち。
ミルクを持ってきてあげる」
と、ナオコさん。
しばらくして、タケさんが、
マスクメロンの入っていた
空(から)の木箱を、持ってきてくれました。
ナオコさんは、すこし欠けた深めのお皿に
ミルクを持ってきてくれました。
ナオコさんは、タケさんの木箱を見て
いいました。
「バカだねぇ、あんた。
そんな硬い木の箱、
黒ちゃんが痛いじゃないか。
ちょっとお待ち」
ナオコさんは、またお店に戻り、
中味のアンコを抜き取った、
古いちいさなクッションを
持ってきました。
それから、タケさんが木箱のなかに
古いクッションをしいて、
腕をのばして、露地の奥に、
その木箱を置きました。すると今度は、
ナオコさんが手をのばし、
ミルク入りのかけたお皿を、
木箱の前に置きました。そしてわたしが、
夢中になって、ミルクを飲み始めました。
そんなわたしを見ながら
ふたりが、話しているのが聞えました。
「ナオコ、今夜は、もう、あがりかい?」
「バカだねぇ、タケは。あったりまえよ」
「六本木でも、ちょっといくか?」
「いいよ。おごってあげるよ」
「ついでに、とめてくんねぇかな」
「バカだねぇ。いいよ、タケシ」
それから、わたしはこの露地に住み、
タケさんとナオコさんに
かわいがられて、とてものんきに
暮らしています。
銀座の夜は、色んなひとがいて、
わたしのことを、色んな名前で
呼んでくれます。でも、わたしは、
タケさんとナオコさんに
コネコとか、黒ちゃんとか、
呼ばれない限り、ぜったいに
返事をしません。わたしは、
ノラネコではありません。
あのおふたりに、飼われているのです。
いつか、お礼をしたいと思っています。
ドブネズミのチュウスケをつかまえて、
青葉寿司のタケさんに
プレゼントしたいと考えています。
きっと、よろこんでくれると思います。
それでは、みなさん、お元気で。