直川隆久 2021年2月7日「寒気」

寒気(さむけ)

   ストーリー 直川隆久
     出演 遠藤守哉

月灯りの下、森の中を4時間ばかりも歩き詰めに歩いた頃だろうか。
行く手に焚火らしい光を見つけた私は、やれ嬉しや、と
危うく大声をあげるところだった。
「西の森に入るのは昼より前に。狼と夜を迎えたくなければ」
――宿屋の主人の忠告をきかずに、市場で古書を漁ったのが災いし、
目指す城下町へ抜ける前に陽が沈んでしまった。

冬間近い夜の空気に、私の体温は容赦なく奪われていた。

私が声をかけると、火の傍に座っていた男は、びくりとし、
かなりの時間黙っていたが、しばらくするとうなずくような様子を見せた。
見ると男は頭から毛布―といっても、
ぼろぎれをつなぎあわせたようなものだったが

―をかぶり、体を小刻みに震わせている。
熱病にでも罹っているのか、と私はひるんだが、
火の温かさの魅力には抗いがたかった。
私は努めて快活に、同じ旅行者を見つけた喜びを伝えたが、
男の表情は毛布のせいで読み取れない。
一言も口をきかず、ときおり手を炎にかざし、擦り合わせているのみだった。

男の手の奇妙な質感に目がとまった。
炎が投げる光の前で男の手が動くと、
青白いその手が一瞬黒く染まったかのような
色になり、かと思うとそれが退いていくのだ。
小刻みに震える動きとあいまって、何やら男の手の肌の上を、
黒い波が這っているようにも見える。
――…は、本当に堪える。
男の声で私は、我に帰った。声にまじった、何かひゅうひゅうと
空気が漏れるような音のせいで男の声が聞き取りにくい。
――失礼。今、なんとおっしゃいましたか。
男は、しばらく息を整えている様子だった。
そして、もう一度がくがくと体を震わせた。
――この辺の寒さは、堪える。

男が言葉の通じる相手だったことへの安心と炎のあたたかさから、
私は急に饒舌になり、夜の道中で望外の焚火を見つけた喜びを語り、
この旅の目的――私が私財を投じて研究している錬金術に関する文献が、
めざす城下町にあるらしいこと――を語ってきかせた。
すると不意に男が、ではお前は、呪いを使うのか。と私に問うた。
私は、いや、そうではないと答えた。呪術と、連金術は別のものである。
錬金術は、物質の持つ性質を理解し操作することであり、
その術は精霊や土俗の神といったものによって媒介されるものではないのだ、
とも。
では、呪いがあることは信じるか、とさらに男は問うた。
私は、信じない、と答えた。

しばらくの沈黙ののち男は話柄を転じ、ぽつりぽつりと身の上話を語り始めた。
農村で食い詰め、昨年の冬、宿場街に仕事を求めて出てきたが、
ろくな金にはならず、
寝床も満足に確保できなかったという。

一枚の毛布さえ買う金がなく、
なるべく風の通らない場所を夜毎探して体を丸めていた、
と男は一言一言、ゆっくりと、苦いものを吐き出すように話した。
私は、ポケットの中に隠し持っていた革袋の葡萄酒を男に勧めた。
だが、男はかぶりを振って断った。

ある晩男は、寒さがどうにも耐えられなくなり、毛布がほしさに、
宿屋の裏庭の納屋を借りて住む貧しい洗濯女の家に忍び込んだのだと語った。
寝床を漁っていたときに、女が帰ってきた。女が騒ぎ出したので、
口を封じるために首に手をかけた。というところまで語ると、
男は、いったん言葉を切った。断末魔で男をにらむ女の口が、
異教の神の名前を唱えた、と。

そして、歯をむいたその顔が、まるで犬のようだったと、
何やら可笑しそうな口調で言った。

男は、話しすぎたせいか疲れ切った様子で、しばらく肩を上下させた。
ひゅうひゅうという音が一段と高くなった。
毛布の奥から、男が私の表情をうかがっているのが見えた。
無言の私に、再び男が問うた。呪いというものを信じるか、と。
男は、不意に、頭の毛布をまくった。あらわになったその顔の肌は、
錐の先で穿ったほどのうつろでびっしりと覆われていた。
その数は、何千、いや何万だろうか。
光の向きの加減ではその穴がすべて漆黒の点となり、
男の肌を覆うのだった。
そして、肉を穿った穴の奥まで光が届けば、
その底に白い骨と血管が寒々と見えた。
私は、首筋が粟立つのを感じた。
女が唱えたのは、神の名ではなかったのだろう。
それはおそらく――

おお、寒い。畜生。体の芯まで冷え切る――
そう言って男は再び毛布の中へ全身をひっこめ、力のない笑い声をあげたが、
その声は、空気の漏れるしゅうという音に飲み込まれた。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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