直川隆久 2021年5月16日「西へ」

西へ  

   ストーリー 直川隆久
      出演 遠藤守哉
  
列車は、みっしりと乗客を詰め込んだ長い体躯を、
舞い散る砂ぼこりをかき分けながらいかにも大儀そうに
西へ西へと押し進めていた。
乗客…とはいっても、我々の扱いは「貨物」だ。
東部地域を脱出しようとなだれをうった人間をさばききるには、
通常の旅客車両では追い付かない。
 
わたしも、その「貨物」の一人だ。
人の群れは車両を埋めていたが、
冷たい鉄の床の上になんとか座る場所を確保することができた。
壁際ではないのでよりかかって眠ることはできないが、
およそ20時間の旅のあいだ立ちっぱなしになることに比べれば、
何ほどのこともない。
周りを見渡す。皆黙りこくっている。
終着地に着きさえすれば清浄な空気を思うさま吸えるのだから、
それまではなるだけ息を殺していよう、ということか。
以前なら、こういうときスマートフォンを触っていない人間を
探すほうが難しかったものだが、
今は誰もが、ただ、ぼんやりと空中を眺めているか、
床の上の油じみを凝視している。

隣国からの度重なるサイバー攻撃で、ネットの機能が全面崩壊し、
デジタル空間のすべての情報の真/偽、新/旧の判別が不可能になった。
われわれは豊かな情報の海から途絶された――いや、むしろ逆か。
情報は無限にあるが、
その一片とて信用するに足るものとして扱うことができない。
燃えさかる太陽の下、海のただなかに放り出され、
はてしない量の水に囲まれているのに
それを一滴も飲むことができない漂流者に、我々は似ていた。

西へ行けば、澄んだ空気と仕事がある――それも単なる推測だった。
それを主張する者たちの唯一の論拠は、
「西へ行って帰って来た者はいない」ということだった。
「あっちがひどい場所なら、戻って来るはずじゃないか」と。

「あなた、ワコーさんじゃないかね」
誰かかがわたしに話しかけた。
顔を上げると、顔を煤だらけにした若い男がこちらを見ている。
わたしはかぶりを振った。
男は、これならどうだ、と言わんばかりに懐から、
何か白い――いや、以前は白かったのだろうが
今やすっかり手垢で薄黒くなった封筒を取り出した。
わたしが怪訝そうにその封筒を見ていると、男は
「ユニタからの手紙だ。あなたがワコーなら、渡したい」
と言う。
「わたしはワコーじゃないし、ユニタという知り合いもいない」と私が答えると
男はさして気落ちした様子もなく「そうかい」とだけ言い、
また手紙を懐にしまった。

わたしは長旅の退屈を紛らわせる気になり、少し男に関わることにした。
「なぜわたしに?ほかにも乗客はいるのに」
「きいてた背格好が似てたんだ。悪かったな」男は長く話すつもりはないようだ。
だが、わたしは食い下がった。
「どんなメッセージを預かってるのかね」
男は、不審げな眼でこちらを見返してきた。お前に何の関わりがある?
わたしは、手持ちの大麻タバコ――合成ものだが――を男に一本差し出す。
「中身は知らない」男はひときわゆっくりと煙を吸い込み、
そしてさらに倍ほどの時間をかけて吐き出した。
「ユニタってのも、通りがかりの町で会った女だ。
西行きの列車に乗るなら届けてくれないかと言われた」
つまり、ユニタという女は、「西へ行く」と言って旅立ったまま
連絡絶えて久しいワコーという人間に手紙を書き、
この若い男に託したということだった。

ユニタとワコー。恋人同士か、あるいは、夫婦か。
どんなのっぴきならない事情があって、親しくもない人間に手紙を――
おそらくある程度の金を払って――託したのか、
わたしには想像がつかなかった。
手紙などという悠長で牧歌的な存在は、明日、今夜、
いや、1分後でさえ何が起こるか見通せないこの世界には、
およそそぐわない物に思える。
だが…これを預けたユニタという人間にとっては、
そうではないということらしい。
時も場所も隔てた二人の人間がつながりあえると信ずる、
その無根拠さそのものが
――深い井戸の中へと落とされた一本の蝋燭のように――
唯一、未来という暗闇に光を投げかけるものだったのだろうか。
さらに言えば…届くかもしれない/あるいは届かぬかもしれない、
と未来を曖昧にし、先伸ばしすることにしか、希望の根拠はないということか。

一方、この若い男も…とわたしは、思った。
その手紙を預かったことで、何か希望の欠片のようなものを、
旅の駄賃とすることができた――だから金を持ち去ることもなく、
渡し主との約束を守り続けているのだ、と。

がく、と衝撃を感じた。
製鉄所で聞いたことがあるような、金属のきしむ音が響いた。
と、つぎの瞬間、体が右に傾き、
目の前の乗客の群れがトランポリンで嬌声をあげる子どもたちのように、
宙を舞い――轟音とともに回転する車両の天井に激しく叩きつけられ、
わたしは意識を失った。

脇腹の激痛で目を覚ます。
暗闇の中で、うめき声があちこちから上がっている。
全身を手で探る。髪は血で濡れていたが、傷は浅そうだった。
肋骨が何本か折れたようだが、命に別状はない。
体を起こす。
そのとき、誰かが、扉を開け、
砂ぼこりを通過した光が車両の中になだれ込んできた。
傍らに、さっきの若い男が横たわっているのが見えた。
首が不自然な方向にねじれ、
半分開いた眼の中で瞳は糊付けしたように動かなかった。
 
わたしは、上下さかさまになった扉から、外へ出る。
黄色い砂漠。焦げ臭い匂いが鼻を襲う。
列車は、レールを大きく逸脱し、車輪を空にむけて――
白い腹を見せて死んでいるトカゲのように――横たわっていた。
そして、呆然とした様子の乗客たちがその周りを取り囲んでいる。
車両の先頭からは、黒煙が遥か上空にまで立ちのぼっていた。
 
攻撃。事故。いくつかの単語が脳裏に浮かぶが、
もはや原因を詮索する気力を残す者はいなかった。
この状態になったのは、この列車だけなのか。
東地域も、西も、同じ惨状なのか。救助は来るのか、来ないのか。
何も、わからない。
だが、このあたりの夜の寒さは、人の命を奪う。
たちどまっている時間はなさそうだった。
 
わたしは、もと来た車両に取って返し、先程の男のところへ戻った。
上着の内ポケットをまさぐる。手紙はそこにあった。
封筒を手にしてみると、想像していたよりも分厚く、そして重い。
男の体温もまだいくばくか残っていた。
「ユニタ。ワコー」と口の中で繰り返した後、
「あんたの名前もきいておけばよかった。すまない」そう男に声をかけ、
ポケットへ手紙を押し込み、外へ出た。
 
生き残った乗客たちは、線路をたどり、歩き始めていた。
わたしは、傍らで足をひきずる老人に肩を貸し、
西へと向かう一群の末尾に加わった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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