小野田隆雄 2024年10月27日「昭和時代」

昭和時代

   ストーリー 小野田隆雄
      出演 久世星佳

鳥取県から岡山県まで、
中国山脈を越えて走るJRの列車がある。
岡本京子が、この列車に鳥取県の米子駅から乗ったのは
10月上旬、秋晴れの朝だった。
彼女は文化服装学院の三年生。
ファッションデザイナーにはなれなくても、
その方面で働きたいと思っていた。
この列車に乗りたかったのには、ささやかな理由がある。
高校時代に好きだった、井上靖の「高原」という詩の舞台が、
中国山脈がつくる高原地帯の村だったのである。
その高原を吹き過ぎる風の匂いに、京子は触れてみたかった。

列車は大山という名前の、姿の美しい山をめぐるように走り、
やがて峠を越え、岡山県に入っていく。
その列車を京子は、新見の駅で途中下車した。
車窓から見えた遠くの村が、彼女を誘っているように思えたので。

駅前の町並みを抜けると、遠くの村へ続く道は、
雑木林と草原のあいだを、曲がりくねって続いている。
雑木林にはシラカバも混じり、草原の主役はススキだった。

やがて道は広場のような場所に出る。
村の入り口だろうか。
そこから先は、道の両側に畑が続き、あちらこちらに農家も見える。
その道を、京子は歩き始める。
空は青く、風も吹かない。誰もいない。
静かだった。そろそろ正午になるだろうか。

そのとき京子は、一軒の農家の庭先が、あざやかに赤く、
太陽に反射しているように見えた。

京子は近づき、低い垣根の前に立ち、農家の広い庭を見た。
そこには三枚の「むしろ」が並んでいた。
「むしろ」は収穫が終わったあとの稲の葉や茎を編みあげてつくる、
古くからある敷物である。「たたみ」の原型かもしれない。
その三枚の「むしろ」の上に5センチほどの、あざやかに赤い草の果実が、
童話に出てくる小人たちの赤い帽子をそのまま細長くしたような形をして
びっしりと並んでいる。
赤い帽子たちが太陽の光を吸っている姿に京子は見とれていた。

そのときすこし風が吹いた。
すると小人たちはハミングするように、「むしろ」の上で、
カサコソカサコソゆれ始めた。

それは無意識の行動だった。
京子はスーツケースから、小型のラジオカセットを取り出すと、
スイッチを入れた。
ビートルズが低く聞こえてくる。
京子は気分が高まると、ジョン・レノンを聴きたくなる。
「イン・マイ・ライフ、僕も好きですよ」
突然、今日子の背後で男性の声がした。

「あれは?なんですか?」
思わず今日子は、その男性に尋ねた。
男性は二十代の後半だろうか。
古びたジージャンの肩にショルダーバッグ。
小さな旅の途中なのかもしれない。
彼が言った。
「あれは、とても辛いトウガラシ。
 あのように太陽で日干しにしたら市場に出します。
 ナナイロトウガラシの材料です。」
そのようにていねいに話すと、
彼は京子に軽く会釈をしてからその農家に入っていった。
「ただいまあ」と言いながら。

あれから一年後、
京子は大学を卒業して、青山のブティックに就職した。
先輩のアクセサリーデザイナーの資料捜しが、仕事の大半だった。
数年後、ブティックの経理を担当していた税理士の川上高志と結婚し、
長女が生まれたので退職した。

短い彼女のデザイナー時代に、ひとつだけ商品化された企画があった。
カジュアルなファッションを楽しむとき、
胸元を飾るアクセサリーとして、野菜の果実をデザインしたのである。
トウガラシ、トウモロコシ、キュウリ、ナス。
そのブローチが、彼女の退職したあとに、ちょっと評判になった。

あのデザインを考えるとき、京子は思い浮かべていた。
結婚を約束した高志が、ジージャンを着て、
その胸に小人の赤い帽子をつけているのを。

遠い村で、京子が出会った風景は
すべて記憶のなかに溶け込んでしまった。
幼稚園に長女を送っていくとき、
いつもジョン・レノンをハミングしている。
けれどそのことに、京子は気づいていない。



出演者情報:久世星佳 http://www.kuze-seika.com/

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小野田隆雄 2024年1月14日「思い出コスモス」

思い出コスモス

   ストーリー 小野田隆雄
      出演 久世星佳

 八枚の花びらを持つコスモスの
 いつでも「きらい」で終わる占い

俵万智の「風の手のひら」に出てくる歌である。
コスモスのふるさとはメキシコ。
18世紀後半に、この国を植民地にしていたスペイン人が、
高原地帯で風にゆれながら咲いているコスモスを見つけ、
花の種をマドリードの植物園に送った。
その種は植物園で芽を出し、花を咲かせ、
やがてヨーロッパに広まった。

コスモスという名前は、植物園の園長がつけた。
この言葉はギリシア語で、秩序よく構成された世界や宇宙、
という意味である。
この花を見て植物園の園長さんは、
きれいに丸く並んでいる八枚の花びらから、
美しく秩序のある宇宙を思い浮かべたのだろうか。
コスモスをメキシコ人が何と呼んでいたのか、
そのことは不明である。

コスモスが日本にやってきたのは、明治12年頃だったという。
その頃、上野の美術学校にイタリア人の先生がいて、彫刻を教えていた。
彼はおたまさんという、美しい日本の女性と結婚していたのだが、
彼女は油絵の画家でもあった。
彼女が日本で初めて、コスモスの絵を描いていたのである。

そのコスモスは彫刻家のイタリア人が、ひそかに祖国から種を持ち込み、
日本で咲かせたのではないか、と考えられている。

やがてコスモスの花が日本に広まってくると、
人々に親しまれ、秋桜と呼ばれるようになった。
明治42年のこと、文部省はコスモスの種を全国の小学校に、
花の育てかたも添えて送り届けている。
この花が持っている、かざらない雰囲気が、
少年や少女たちにふさわしいと、文部省は考えたのだろうか。

今でもコスモスが、この国のほとんどの場所で見られるのは
このことと無関係ではないかもしれない。

まるで昔からそうだったみたいに、この花は町のどこかに咲いている。
特別に大切にもされず、かといって忘れられることもなく、
人の生活の風景を色取る花として、存在していたように思う。

コスモスが花屋さんの店先を飾るようになったのは、
いつ頃だったろうか。
そのコスモスには「早咲き」とか「大輪咲き」とか書かれた
ステッカーが付いていたように記憶する。

あの頃からコスモスの栽培品種が、登場したのかもしれない。
隣のお姉さんみたいに親しみやすかった花が、スポットライトをあびて
スターの花に変身し始めた。
すると全国各地に、「コスモス高原」や「コスモス街道」が誕生し、
観光スポットにもなった。

このような場所に咲くコスモスたちの、白や淡いピンク
そして濃い紅色の花々は、
野の花だった昔からの花よりも、ずっとあざやかな色になっている。
花も大きくなり、花びらもふっくらとしている。
そして早く咲かせるためか、背丈もそれほど高くはならない。
130センチ前後だろうか。

軽やかなワルツが流れるような、高原のレストハウスで、
あざやかなコスモスの花盛りを見つめていたとき、思い出したこと。

野に咲いていた頃のコスモスは、
150センチから200センチ近くまで伸び、
小さな樹木のように枝を伸ばした。
花はそれほど大きくなく、花びらは細長く丸く、
その先端にはV字型の切り込みが、あったような記憶がある。

スリムな花びらなので、花をかざして空を見ると、
花びらの透き間から、細く秋の青空が見えるのだった。

この花を一輪、茎の部分から切り取るのである。
そして花占いのように、一枚置きに花びらを取ってしまうと、
コスモスは花びらの風車みたいになる。
それを空へ、そっと投げあげる。
すると花びらの風車は、くるくると回転しながら少し飛んで、
ふんわりと落ちてくるのだった。

私たちの少年時代、
ふるさとの小さな町で、少女たちは秋になると、この遊びに夢中になった。
少年たちも、ときおり参加した。
赤とんぼが、気まぐれに花びらの風車を追いかける。
素朴な遊びだった。

この遊びを40代を過ぎた頃に、
改良品種のコスモスで、やってみたことがあった。
9月中旬の札幌の郊外だった。
あざやかな色の大きな花びらの風車を、高く投げた。
けれど、くるくる回転することもなく、まっすぐ地面に落ちた。
花びらが大きくて、重すぎたのだろう。
一輪の花だけで、止めた。
少し肌寒い北の風が吹いていた。


出演者情報:久世星佳 http://www.kuze-seika.com/

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小野田隆雄 2021年12月5日「すばるのささやき」

すばるのささやき

         ストーリー 小野田隆雄
            出演 大川泰樹

昔の日本語では、集まってひとつになることを、「すば
る」と言った。
清少納言が「枕草子」の中で、美しい星として最初にあ
げている「すばる」も、たとえば地球や月のように、ひ
とつの星ではない。それは星の集団につけられた名前で
ある。
またたくように、キラキラする「すばる」は、六個の星
にも七個の星にも、数えられる。眼の良い人は、十個も
見える。さらに天体望遠鏡で観察すると、百個以上の星
があるという。
「すばる」は若い星の集まりで、誕生してから六千年し
か経っていない。星たちが青白く輝いているのは、高温
度の光を出しているためである。
そのために「すばる」の星たちは、大きなエネルギーを
消費しているので、燃えつきるのも早い。あと一億年で
消え去ると言われている。
ところで西洋では「すばる」のことを、プレアデスと呼
んでいる。そこにはメソポタミア地方で生まれ、ギリシ
ア神話に受け継がれた、物語があった。
プレアデスは七人姉妹の名前である。彼女たちは月の女
神、アルテミスに仕えていた。ある夜、彼女たちが森の
木陰で踊っていた。
その姿を、若き狩人(かりゅうど)のオリオンが見つけ
る。彼は少女たちに近づき、たわむれようとする。
少女たちは逃げて、主人のアルテミスに頼み込み、小鳩
の姿に変えてもらい、大空に飛んでいった。けれどオリ
オンもあきらめず、追いかけて空に駆け昇った。
私たちが冬の夜空で見る、三つ星で有名なオリオン座は、
その狩人、オリオンの姿である。その星座から、少し右
上に視線を移すと、そこに小声でささやきかけるように
輝いている、プレアデスの星たちがある。

「星三百六十五夜」という本は、野尻抱影(のじりほう
えい)によって書かれた。昭和53年に出版されている。
1月1日から12月31日まで、星のことを書いた、3
65のエッセイである。
野尻抱影は学者ではないけれど、星が大好きな人で、さ
まざまな星の話を書いている。
彼の弟は大仏次郎(おさらぎじろう)というペンネーム
の、小説家だった。黒覆面(くろふくめん)の剣術使い、
鞍馬天狗(くらまてんぐ)は、彼の創作である。
「星三百六十五夜」の12月29日に、生きることに絶
望し、死んでしまおうと思い、家出する青年が登場して
くる。
青年は森に向かって歩いて行く。死に場所を捜すために。
月のない星明かりの道を歩き続ける。風が吹いてきた。
ふと、彼は立ち止まる。森の上に「すばる」がまたたい
ていた。
そのやさしい輝きを見たとき、彼は死ぬことを止めようと
思う。そういう話である。
このエッセイを読んだとき、私は思った。青年はきっと、
「すばる」のまたたきを、耳で聴いたのだろうと。死ん
ではだめ、死んではだめ、死んではだめ。
少女たちは歌うように、話しかけていたのかもしれない。
この本を読んだのは、三十代の頃だったと思う。それ以
前、高校生の頃から、考えていたことがあった。何も

い場所で、人工の光もなく、月の出ていない夜に、星空
を見ることである。たとえば中央アジアのシルクロード
行きたかった。まだ実現していない夢だ。コピーライ
ターズストリートに、「すばる」の話を書かせていただ
くことになったとき、ある人と少し会話をした。そのと
き、次の話を聞いた。
世界には、星空保護区と呼ばれる場所があるという。ア
フリカの古い砂漠、ニュージーランドの湖、そしてアイ
ルランドの半島、その三か所だけである。
もしも北半球に住んでいる私が、アイルランドの海に突
き出した半島で、空いっぱいの星空を見たら、「すばる」
を見つけられるだろうか。彼女たちのささやきを、聞く
ことが出来るだろうか。
もしも聞くとこが出来たら、きっと次のような、ささや
きだろうと思う。
もうひといき、もうひといき、もうひといき。
そろそろ一年が終わろうとしている。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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小野田隆雄 2021年8月15日「追憶(2021)」

追憶

    ストーリー 小野田隆雄
    出演 大川泰樹

ヨウシュヤマゴボウは、
いつも、ひとり。
群れたり、仲間を集めたりしない。
いつも、ひともと、高くのびて
大きな葉を茂らせて、枝を広げ、
小さな白い花をいっぱいつける。
花が散ると、黒に近い紫色の実を
山ブドウのように実らせる。
昔、子供たちは、この紫色の実を、
色水遊びの材料にした。

ヨウシュヤマゴボウの白い花が、 
サラサラと散り始めると、
夏が盛りになってくる。
そう、その頃になると
江の島電鉄の小さな車両は
潮の香りに満ちてくる。

白い麻のスーツに
コンビの靴をはき、
大きな水瓜をぶらさげて
三浦半島の油壺のおじさんが、鎌倉の
雪の下の、僕たちの家にやってくるのは
そういう季節だった。
「やあ、太郎くん、
大きくなったねえ。いくつになったの」
太郎と言うのは、僕の名前である。
両親が四十歳を過ぎて
ひょっこり、生まれた、
ひとりっこである。あの頃、
小学生になったばかりだった。

おじさんは、父のいちばん上の兄で
銀行の重役だったけれど、
定年退職すると
三浦半島に引っ込んで、
お百姓さんになってしまった。
おじさんは、ひとりだった。
いつも、おしゃれだった。

「あれは、たしか
東京オリンピックの年だったねえ。
兄さんが、定年になったのは」

いつだったか、母が言っていた。

「兄さんは、女性のお友だちが多くてね。
それで忙しくて、とうとう結婚するひまが
無かったんだって。
なぜ、お百姓さんになったんですか、
ってね、聞いたことがあるの。
そしたらね、そりゃあ、あなた、
野菜はかわいい。文句をいいませんから。
だって」

僕は、おぼろにおぼえている。
せみしぐれが降ってくる、
昼さがりの縁側の、籐椅子に腰をかけて、
おじさんと父が、
ビールを飲んでいた風景を。
「おーい、よしこさん。
 水瓜は、まだ、冷えませんか」

「でも、兄さん、三浦の水瓜って、
 どうも、あまり、甘くありませんな」

「喜三郎(きさぶろう)、おまえねえ。
 水瓜なんてえものは、青くさい位が、
 ちょうどいいのさ。そういうものさ」

よしこ、というのは母。喜三郎と
いうのは父。おじさんは、
喜太朗という名前だった。

あの頃から、何年が過ぎ去ったのだろう。
父も母も、おじさんも、もういない。
僕は、ぼーっと夢みたいに生きて、
ほそぼそと、イタリア語のほん訳を
して生活している。
雪ノ下の家は手離して、
東京の白金(しろかね)のマンションにひとり。
ついこのあいだ、五十(ごじゅう)も過ぎて……

こうして、机にほおづえをついていると、
マンションの窓から、
入道雲が見える。
ああ、今年も夏になるんだなあ。
鎌倉に行ってみようか。
大町(おおまち)のお寺にある、三人のお墓に行ってみようか。
小さな丸い御影(みかげ)石が三個、
芝生に並んでいるお墓の上に、
きっと今年も、大きなヨウシュヤマゴボウが、
涼しい影を作っているのだろう。
その草の陰に、ちょっとだけ僕も、
休ませてもらおうかな。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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小野田隆雄 2020年10月11日「10月の露天風呂」

  10月の露天風呂

     ストーリー 小野田隆雄
       出演 大川泰樹

今年の10月1日は、
昔の暦では8月15日になる。
昔の暦の10月1日は、
現代の暦では11月15日である。
現代の暦は地球が太陽をひと回りする、
約365日を基本にしている。
昔の暦は月の満ち欠けに必要な
約29日を基準にして作られているので、
1ヶ月が30日にならない。
そのために、1ヶ月の日数を29日か30日として、
1年を12ヶ月または13ヶ月とした。
たとえば10月が二度ある年もできたりしたのである。
そうすることで、日数を調整し、
季節を合わせるようにした。
18世紀には世界の多くの国が現代の暦を使用していた。
日本は鎖国をしていたので、
ずっと昔の暦を使用していた。
それで別に問題もなかった。
けれど鎖国を止めて、
世界の国々と交流するようになると、
よその国との関係で、不便なことも重なったのだろうか。
明治政府は明治5年1872年の12月3日を、
1873年の1月1日と定めた。
古い暦を捨てたのである。
暦が変わって、人々がいちばん影響を受けたのは、
季節感だったかもしれない。
昔の暦では、1月から3月まで春、
4月から6月まで夏、7月から9月まで秋、
10月から12月までが冬だった。
奈良や平安の時代から江戸時代まで、
1000年以上も、
日本人は春に始まり冬で終わる一年の暦の中で、
季節感を育ててきたのだと思う。

暦のことに少しこだわった理由は、
私の季節感の中で、10月のイメージが、
あいまいになってしまうからだった。
暑い夏が去ってひんやりと秋の風が吹いてくる9月。
空気の冷たさが冬の訪れと
秋の終わりを知らせてくれる11月。
秋の代表的な季節感は、
みんな9月と11月に持っていかれてしまう。
私はいつも、そんな感じを持っていた。
そのくせ、10月という名前に強く秋を感じてしまう。
この落ち着かない気持ちは何だろうか。
この落ち着かない、けれどはかない気持ちは何だろうか。
そのような10月のイメージが、
昔の暦では10月を冬の始まりとしていることを知って、
なんとなくホッとしたのは高校時代、
古文を学ぶようになった頃だったと思う。
その10月について、次のような記憶がある。
なつかしいが、少し恥ずかしい記憶でもある。
大学受験に失敗して浪人していたとき、
9月の模擬試験で、最悪の点数を取った。
それを理由として、気分転換のために旅に出た。
群馬県の長野原から山深く入った温泉宿を目指した。
家族旅行で何度か訪れた旅館である。
長野原の駅に降りたったとき、
北関東の団体らしい人たちが
大声で話しているのが聞えた。
「今夜は仲秋の名月じゃないかい?」
とすれば、あの日は10月の15夜だったのかもしれない。
なぜか、あの大声が、今も耳に残っている。
旅館について夜になり、夕食のとき、
私はビールを一本つけてもらった。
高校を卒業してジュース、というわけにはいかない。
旅館の人は、私を大学生だと思っている。
「今夜はお月さまがきれいですよ。
ゆっくり露天風呂で見るといいですよ」
私と同年配のような女中さんが、
最初の一杯だけビールをついでくれて、席を立った。
食事が終わって一人、NHKテレビを見ていた。
山深い場所では民放は写らない時代だった。
参考書を開く気にもなれず、
私は露天風呂に行ってみようと思った。
「男湯」の看板がかかっている曇りガラスの戸を開け、
脱衣所から浴室へ。
浴室の先に露天風呂の入り口が見える。
大きな岩の間をくぐり抜けると、
谷川の流れる音が聞こえて、
川筋を見おろすように露天風呂が広がっていた。
月の光をあびて、川の流れが見える場所に、
ゆっくりと腰を沈めた。よく晴れた夜。
虫の声と川の流れる音を聞く。
客は私ひとりだった。
しばらく眼を閉じていた。
5分ほど過ぎた頃、
突然にはなやいだ女性の声が、
驚くほど近くで聞こえた。
振り返って、露天風呂の入口の方向を見ながら、
私は思い出した。
ここの露天風呂は、
入口は男湯と女湯に分かれているけれど、
湯船はひとつだったのである。
湯船は広い。それでもお互いの顔は、はっきりと見える。
すぐにその場で、風呂から出ればよかった。
しかし女性たちの前を、
お湯をかき分けて進む勇気が出てこない。
私は顔をあげてお月さまを見あげていた。
「お邪魔さまです」
「ごめんなさい、お兄さん」
彼女たちはくったくなく私に声をかける。
私は月を見あげたまま受け答えをしていた。
話を聞いていると、
彼女たちは生命保険の女性セールスマンのようだった。
私はついに、やっと「お先に」と言い、
ジャブジャブと湯船を歩いて、露天風呂を出た。
そして脱衣所にたどり着いた。
浴衣を着るまでの記憶はあった。
情けないことに、私はそのまま失神してしまったらしい。
温泉の湯気に当り、脳貧血を起こしたのだ。
気づいたときは、自分の部屋に寝かされていた。
宿の人と生命保険の女性たちが、
心配そうに私の顔をのぞいている。
きっと露天風呂を出ていく私の様子に、
彼女たちは不安なものを感じ取ってくれたのだろう。
「ああ、よかった」
誰かがつぶやいた。
私は布団をかぶってしまいたかった。
翌日の早朝、
私は長野原の西にある鳥居峠に向かって少し歩いた。
この峠を越えれば長野県である。
青空に強い風が吹き、
色づき始めた雑木林の枯れ葉が、
小鳥のように飛んでいく。
昨夜の彼女たちは、
今日は赤城山にいくと話しているのを思い出した。
私は宿に戻った。
彼女たちに「ありがとう」を言おうと思った。



出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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小野田隆雄・高田聖子 2010年作品「波」




     ストーリー 小野田隆雄
        出演 高田聖子

「波はよせ。
波はかへし。
 
波は古びた石垣をなめ。

 陽の照らないこの入江に。
 
波はよせ。
波はかへし。」

私は二十年前、十九歳のときに、

ヨシノリを、タエコから奪い取った。
タエコの母が亡くなって

九州の実家に帰っているとき、
ふたりが同棲している

アパートの部屋で

私はヨシノリをタエコから奪い取った。

東京に戻ってきたタエコは

涙ひとつ見せずに出ていった。
けれど、ひとこと、私にいった。
「トモコ、おまえ、バカだね」

ヨシノリは大田区役所につとめ、

売れない詩を書いていた。
二十五歳だった。

タエコは大森駅前のバーで働いていた。
あの頃、三十歳くらいだった。
私は、あの頃も、いまも、
大井競馬場の、
馬券売り場で働いている。

「波はよせ。
波はかへし。

 下駄や藁屑(わらくず)や。
油のすぢ。
 
波は古びた石垣をなめ。

 波はよせ。
波はかへし。」


草野心平の、「窓」という題名の詩が

原稿用紙に万年筆で書かれて、

ヨシノリのアパートの
北側の壁に
貼りつけてあった。
「波はよせ。波はかへし。」

私とヨシノリは一年ほど続いたが、

そのうち彼は、鮫洲の居酒屋の女と
暮し始めて、
帰ってこなくなった。

私は十日ほど、「窓」という詩と、

にらめっこをしていたが、

その詩を壁からはがし取って、

そのアパートを出た。


それから数年が過ぎた。

馬券売り場で、ひとりの男が
私を好きになった。
すこし交際して
結婚した。まじめな男だった。

京浜急行の青物横丁の駅員だった。

きちんと結婚式もあげた。

けれど、六、七年すぎた頃、
彼の職場が、
横浜の黄金(こがね)町(ちょう)の駅に変り、

一月もしないうちに、

チンピラのケンカを止めようとして、

ナイフに刺されて、死んでしまった。

「波はよせ。
波はかへし。

波は涯(はて)知らぬ外海(そとうみ)にもどり。

雪や。
霙(みぞれ)や。
晴天や。

億(おく)萬(まん)の年をつかれもなく。

波はよせ。
波はかへし。」

私は、いつもひとりだった。

羽田空港に近い、

穴(あな)守(もり)稲荷のある町で生れ育ち、

ひとりっこだった。
父と母は、
小さな町工場(まちこうば)で、
朝から晩まで
働いていた。

私が高校に入る頃に父が死に、

高校を卒業する頃に母が死んだ。

私たちの家は、小さなマンションの
十一階にあり、

南の窓から海が見えた。

沖のほうから、白い波が走ってきて
消えていく。
そして、また、走ってくる。

父は工場で事故で死に、
母は高血圧で死んだ。

どちらのときも、私は海を見つめた。

聞えるはずのない、波の音を聞いていた。


波はよみがえる。ひとは死ぬ。

私は、今日まで、しあわせだった。

さびしかったけど、しあわせだった。

きっと誰かが帰ってくる。
波が、帰ってくるように。


「波はよせ。
波はかへし。
波は古びた石垣をなめ。」

出演者情報:高田聖子 Village所属 http://www.village-artist.jp/

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