ストーリー

一倉宏 2010年6月26日ライブ



できることのなかでいちばんよいことをする

ストーリー 一倉宏
出演 一倉宏  ピアノ・歌 村上ゆき

 あれは 雨の降る日曜日だった
 私は 妻とスーパーマーケットから帰ってクルマを降り
 傘を開き 荷物を下ろしたその直後…
 彼女が威勢よく閉めたドアに 指をはさまれ
 悲鳴をあげた

 その夜 私の右手中指は 一晩中泣いていた
 私もまた 怒りながら笑いながら 泣いていた

 翌朝 病院に駆け込み事情を話すと
 医者も 同情と微笑みを浮かべながら 私に訊いた
「それで 昨夜は どうされましたか?」

「とにかく とりあえず グラスに詰めた氷で冷やしました」
 と答えると 医者は うなづきながらカルテを書きながら
「そうですか それは… 
 できることのなかでいちばんいいこと を 
 されましたね」と 言ったのだった

 そうか… 
 痛みに耐えられず ほかにどうしようもなく
 ロックグラスに氷をいっぱいに詰めて 泣く指を冷やした
 あれは できることのなかでいちばんいいこと だったのか

 できることのなかでいちばんよいことをする

 それから私はときどき この経験を思い出すのだ
 しんみりと 雨の降る日と
 こころの 泣きたい夜には…

 上司が ただ
 威厳を示したかったのか 機嫌がわるかったのか
 誰も幸せにしない 思いつきを口にしたとき

 あるいは
 取引先の担当課長が 週末を費やしたプレゼンテーションに
「こんなところですか 検討しますよ…」と
 資料を流し見て 立ち上がったとき

「ごくろうさま」のひとこともない 上司に
「ありがとう」のひとことも言えない 取引相手に
 
 情けなくて 悔しくて 
 こころの 泣きたい夜と
 しんみりと 雨の降る日には…

 左手にカバンを持ち 右手に傘を差して
 あのときの痛みを思い出してみる

 そうだ それでも
 できることのなかでいちばんよいことをしよう  

 左手に情けなさを持ち 右手に悔しさを握りしめて
 繰り返し 思い出してみる

 だけど それでも
 できることのなかでいちばんよいことをするんだ
 絶対に 私は

 どんなに こころが泣いても…
 おたんこなす

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上田浩和 2010年6月26日ライブ



4の回。

ストーリー 上田浩和
出演 高田聖子

数字の4は、鏡の前に立つのが好きではない。
数字の32にだんだん似ていく自分を見たくないのだ。

鏡のなかの4は一見数字の4なのだが、かたむける顔の角度によっては、
32の面影がうっすらとではあるがさす瞬間があり、
その加減が日に日に強まっているような気がするのである。

32÷8。
この計算の結果産まれたのが、この、4である。
だから、32に似ていたとしてもなんの不思議はない。
むしろ当然のことだし、4も32と8には心から感謝している。
ふたりがきっちり割り切れたおかげで、
余りもない小数点もない身軽な生き方をこれまでしてこれたのだから。

それでも、それとは別の割り切れない思いを、
4は4なりにずっと持ち続けてきたのも事実だ。
どうして、あの場面で、32と8は、
割り算ではなく掛け算をしてくれなかったのだろうか。

そうすれば、4ではなく、
256というジゴロな生き方もできたはずなのに、
と思わずにはいられないのだ。

出演者情報:高田聖子 03-5361-3931 ヴィレッヂ

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福里真一 2010年6月26日ライブ



6月の花婿

ストーリー 福里真一
出演 大川泰樹

いよいよ、私の番だ。

私は、新郎の少年時代のことを知る、ごく少ない友人のひとりとして、
この豪華な披露宴で、スピーチをすることになっていた。

私は、まだ決めかねていた。
新郎の人生を変えた、あの事件のことを、しゃべるべきかどうかを。

彼は、小学校のある時点から、突然、何かをふりはらうかのように猛勉強をはじめ、
その後、ストレートで東大に入り、
今は、とある中央官庁で、順調なキャリアを積んでいる。

そこに、あの事件が、少なからず影響を与えていることは、
間違いがないのだ。

今、会議か何かで遅れていた、主賓の副大臣が、にこやかに着席した。

上場会社の社長であるらしい、新婦の父親が、
すかさず、副大臣のテーブルにあいさつに向かう。

私は、マイクに向かいながら、確信する。

私はやはり、しゃべってしまうだろう。

小学校3年生の、火曜日の4時間目、理科の授業中に、
新郎が、おもらしをしてしまったことを。

そのとき、6月のしめった教室にただよった、
こうばしい匂いのことを。

それがなければ、今の彼は、存在しなかったのだから。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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岩田純平 2010年6月26日ライブ



妻のお通じ。

ストーリー 岩田純平
出演 大川泰樹

妻はお通じがよい。
特に良かった日は、その形を教えてくれる。
「今日はね、じぇい、っていうのが出たよ。じぇい」
アルファベットのジェイは長い間、
我が家のチャンピオンだった。

しかし、それを超えるモノを、
あろうことか僕が出してしまった。
「はてな、が出た。はてな。クエスチョンマーク」
曲がりが大きい上に、点まで付いている。
明らかにジェイを超えた。

これに妻は奮起した。
「出ました。&でーす」
アンド! それはもはや、
ジェイやはてなとは
次元の違う最終形のように思われた。

しかし、妻は、&をさらに更新する。
「ぬ、ぬ、ぬが出た。ひらがなの“ぬ”」
その日の、妻の満足そうな顔を、
忘れることはないだろう。

妻はいま、ト音記号に挑戦している。

出演者情報:大川泰樹 大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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古田彰一 2010年6月26日ライブ


『月とコピーライター』

ストーリー 古田彰一
出演 坂東工

月が明るい。

と書けば、何が伝わるのだろう。
月が明るいことはもちろん、
そこに書かれてないことまでも人は読み取る。

たとえば時間は夜であること。
雲が月を覆い隠してない天気であること。
明るいというからには、
もしかしたら満月かそれに近いカタチであること。
そして今日は月が明るいと感じている「人」がそこにいること。

月を見上げているのが、山間(やまあい)の村の人であれば、
夜は墨を流したように暗く、それで煌々と眩しく感じるのかもしれない。
反対に、ビルの谷間であれば、都会の明かりに負けそうになりながらも、
けなげに輝いて見えるのかもしれない。

遠く離れた人のことを想う、その心をおぼろに照らす月明かりもある。
仕事帰りのささやかな開放感を、ほっと照らす月明かりもある。

月が明るい。
という一行はただの情報だけど、読んだ人がいる場所や、気持ちによっては
それ以上の意味が与えられる。

そう。何かを書くということは、書かなかった部分を読む人と共有することなのだ。
書き手が「行」を書き、読み手が「行間」を読むことなのだ。

「アイ・ラブ・ユー」と言わずに愛を伝える、
その奥ゆかしさと美しさを忘れたくない。
1行の言葉ですべてを語り尽くそうとする、
コピーライターという職業が、いまふたたび、尊い。

出演者情報:坂東工 http://www.takumibando.com/

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中村直史 2010年6月26日ライブ



「中国からの転校生」

ストーリー 中村直史
出演 大川泰樹

小学2年のころ
クラスに中国からの転校生がやってきました。
みんなの前で自分の名前をいったとき
「タン・タータン」と聞こえたのだけれど、
担任の先生が僕らにもわかるよう黒板にカタカナで書いた字は
「タン・タタン」でした。

タンくんは
日本語がしゃべれないせいもあってか
とてもおとなしかったのですが
朝、先生が出欠をとるとき
「タン・タタン」というと
まわりの何人かがつられるように
「タン・タタン」とつぶやきました。

タン・タタン、タン・タタン。
大人になったいまでも
朝、会社へと歩いているときに
タン・タタン、タン・タタンとつぶやくことがあります。
少し気分が良くなります。

タンくんはお父さんの仕事の都合だとかで
数か月で中国に帰りました。
僕が今でも彼の名前をつぶやいていることを
彼はもちろん知らないと思います。

大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/ 03-3478-3780 MMP

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