カノープス
ストーリー 小野田隆雄
出演 久世星佳
星の写真と文章で構成された、
「カラーアルバム星座の四季」という本を、
私が初めて手にしたのは
一九九六年、高校三年生の夏休みだった。
当時、私は大学受験のために
お茶の水にある予備校の、
夏期集中講座に通(かよ)っていた。
ある日の帰り道、突然の夕立に会い、
雨やどりに入った古本屋さんで
この本を見つけた。
私の家は静岡市にあり、
そのとき、姉の下宿に泊っていた。
姉は東大の理学部の三年である。
そして、私も来年、東大を
受験することになっていた。
私の母も、東大医学部卒業で、
静岡県の国立病院で働いていた。
「我が家は、女三人、東大。
別に意味ないけど、
わるくないでしょ」
それが、母のくちぐせだった。
私たちの父は、いまは、いない。
芸大を出て、油絵を描いていたが、
なぜか家(いえ)を出て、いまは、
タヒチにいるらしい。
「ゴーギャンでもないのにねぇ」
そういって、母は、ときおり笑った。
古本屋さんで「星空の四季」を、
パラパラとめくって見るうち、
「春の夜明け、北西の空に沈む北斗七星」
という題名の写真に、なぜか、
気の遠くなるような、
なつかしさを憶えた。
その夜、私は、
サイン・コサイン・タンジェントを
片隅に追いやって、夜の更けるまで、
「星空の四季」を、眺め、文章を読んだ。
そして、冬の星座のページで、
カノープスという星の存在を知った。
この星は、大犬座(おおいぬざ)のシリウスについで、
全天で二番目に明るい星だけれど、
南半球の星なので、日本では、
南の地平線にかすかに見えるだけ。
オレンジ色に、あたたかく
ひかる星だという。
本のページには、まるで遠い灯(ともしび)のように、
地平線すれすれに光る、
カノープスが写(うつ)っていた。
私は、ふと、思った。
南半球の星だったら、
タヒチなら、よく見えるだろうか。
私は、行ったこともない、
見たこともない、タヒチの海岸に、
ひとり立って星を見上げている
男性の後姿を、思い浮べてみた。
まだ、私が幼稚園の頃に、
いなくなった父。
「星空の四季」という本は、一九七三年
誠文堂新光社から発刊された。
写真と文章と、両方とも
、
藤井(ふじい)旭(あきら)さんという方(かた)が作者である。
一九四一年生れ、山口県出身
多摩美術大学卒。そして彼は
、
星の世界に魅せられて、
とうとう、星空がよく見える福島県の
郡山市(こおりやまし)に移住してしまったと、
巻末の筆者紹介に書いてあった。
私は、そのとき、父に会いたいと思った。
藤井さんにもお目にかかりたいと思った。
カノープスも、この目で見たいと思った。
なんとなく、涙が出てきた。
けれども、なにか、すがすがしかった。
私は東大に入り、国文学を専攻した。
中世の説話文学を研究して、
いまは、仙台の大学の研究室にいる。
去年の冬、グァム島に行って、
ヤシの木陰に、初めてカノープスを見た。
じっと見つめていると
オレンジ色に、ゆっくりひかる
カノープスに向かって
大きな流れ星がふたつ、流れて消えた。
母は、すでに亡く、
父にも、結局、会っていない。