ストーリー

安藤隆 2015年7月5日

1507ando

甘いトマトはよけい嫌

     ストーリー 安藤隆
        出演 内田慈

 ミナさんは、川のこちら側の町に住んでいます。坂と
並木の多い町です。町中のこぎれいなマーケットには、
外国の食べ物や果物が並んでいます。
 町のどの坂も、くだると、川に突きあたります。おお
きな橋を渡ると、川向こうの町です。このごろは、毎日
川向こうの町を訪れます。きょうも、じぶんの黄色い軽
自動車で、橋を渡って川向こうへ来ています。いつもお
昼まえです。
 こちらは坂のない、平べったい町です。橋を渡ると、
じきに、広く明るい住宅展示場があります。世界各国の
小旗を、ひもに吊ったのが、空を飾っています。熊の人
形が、旗を持った機械仕掛けの腕を上下に動かして、
人々を呼びこんでいます。
 住宅展示場の先に、パチンコ屋「百歳の孤独」があり
ます。黄色い壁にパチンコ、スロット、ジャックポット
と英語で書いてあります。駐車場に、開店したときのの
ぼりが、色あせたままはためいているのが、通りからみ
えます。以前はこうした風景を、恐ろしく感じていまし
たが、このごろはむしろ惹かれています。駐車場に入っ
て、ちょっとだけいて、店には入らず出ていったら、
怒られるのかなと思って、どきどきします。
 パチンコ屋をすぎると、平べったい大きなスーパーが
あります。ミナさんはスーパーの駐車場へ入ってゆきま
す‥。わたしってあまりにも平凡かなと、ときどき、た
まに思います。
 スーパーでは晩ごはんのおかずとお昼の弁当と、ワイ
ンと日本酒と焼酎を買って帰ります。買い物の最後に、
トマトの売り場にやってきます。
 ミナさんは、母親が人見知りで、たぶんそのせいで、
小さいときトマトを食べたことがありませんでした。初
めて食べたのは、お兄ちゃんに連れられて、トマトの畑
へ盗みに行ったときです。お兄ちゃんは、友達といっし
ょに、盗み食いをよくしていたようです。
 畑にふたりでしゃがんで隠れて‥お兄ちゃんが、トマ
トを、大人みたいにもいだのでびっくりしました。一口
かじって食べやすくしてくれたのを、どきどきして口に
入れました。厚い皮の中の、どろっとした実を食べて‥
ぎょっとして、吐きだしました。想像とは違う、ただた
だ気味の悪い味がしました。お兄ちゃんは怒って、ミナ
さんの口をこじあけました‥。
 ミナさんは、いまもトマトは嫌いですが、いまではた
いしたことではありません。食べることもできます。生
のトマトも、料理したトマトも、ミナさんには同じ味が
します。つまり、あの畑の味がします。嫌いですが、食
べられます。ただフルーツトマトは、普通のトマトより、
もうちょっと嫌いです。甘いとか、小さいとか、フルー
ツとかいう噓をついているからです。
 ミナさんは夫のことも、ちょっと嫌いです。夫はトマ
トが好きで、トマトのおいしさを説きます。夫とセック
スしたとき、ふとトマトの生臭さがしたので、それ以来
しません。
 ミナさんは売り場のトマトに、内緒の儀式をします。
ほんとにどっちでもいいようなことです。トマトのヘタ
って、ありますね‥ヒトデか、大きな蜘蛛みたいに、頭
にへばりついているあれ。トマトの気味悪さのあらわれ
です。そのヘタを、ほんの先っぽだけちぎるのです。1
ミリか、5ミリくらい。ちいさなことだけど、とてもど
きどきします。破裂しそうです。ミナさんは見つからな
いように、体で隠して、親指と人差し指をのばします。
 片手だけの作業なので、かなり難儀します。二本の爪
の先でキキキッとこすって、切りにかかります。視線は
あらぬ方へ向けて。でも心はヘタにあるので、目にはな
にも映りません。するうち、やっと先端のちぎれた手応
えがあります。盗みみると、たしかにちぎれています。
皮に傷がついて、汁が滲んでいます。
 ミナさんは、その場をすばやく離れます。
「婆さん、なにしたんだよ」と言うような声が、近くで
したような気がします。でもわかりません。ミナさんは、
聞こえない振りをして急ぎます。
「婆ぁ、待てよ」の声が、こんどはたしかに、後ろから
追いかけてきます。

出演者情報:内田慈 03-5827-0632 吉住モータース

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https://www.youtube.com/watch?v=UsiGvmemEas

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中山佐知子 2015年6月28日

1506nakayama

シチリア島は一年365日

     ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

シチリア島は一年365日のうち360日が晴天の島だが
オリーブの木はこんな乾いた気候と仲良しで
ところによっては千年も長生きをする。
千年も昔といえば、島はイスラムの領土だった。
当時のイスラムは世界の先進国で
新しい農業技術が持ち込まれ、ヨーロッパにない果物が実った。
政治はシンプルで、税金は公平だった。
いい時代に生まれたとオリーブの木は思っただろう。

それからバイキングの末裔がやってきてシチリア王国を築いた。
彼らは少なくとも文化や言語、宗教に関しては寛容だった。
彼らはフランス語をしゃべっていたが
ギリシャ語もアラビア語も国の言葉と認めた。
しかし100年もするとお家騒動が起こり
ドイツの皇帝がシチリア王になった。

13世紀にはフランスとスペイン、イタリアが
シチリアをめぐって争った。
問題は、たぶんここから先だ。
シチリアは、ピンボールのように争いのなかで転がりつづけ、
搾取された。

オリーブの木にとってご領主さまが誰でも関係なかったが
それはオリーブの世話をする村人にとっても同じことだった。
どのご領主さまも年貢には厳しかったし、
過酷な取り立て人がやってきては
払えないと木を伐られたり家畜を殺されたりもした。
しかし、その取り立て人が年貢のピンハネで財を蓄え、
村のボスにのし上がると、
こんどはご領主さまに逆らって実質的な権力を握った。
これがシチリアのマフィアのはじまりだそうだ。

19世紀の終わり頃、
シチリアはイタリアに併合されたが
貧しくて学校へ行けない子供らは
イタリア語をしゃべれず、読み書きもできず、
手っ取り早い出世を夢見てマフィアに身を投じた。

ゴッドファーザーⅡには
主人公が両親と兄を殺したシチリアのマフィアに
復讐をするシーンがあるが、
そのとき主人公の表向きの商売はオリーブオイルの輸入業者だった。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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直川隆久 2015年6月21日

1506naokawa

アレハンドロ

          ストーリー 直川隆久
             出演 遠藤守哉

なあ、エミリオ。
聞いたかよ。
アレハンドロのことさ。
アレハンドロの、オリーブオイルのことよ。
知らないか?

アレハンドロは毎日、きっかり40度にしたオリーブオイルで
バスタブを一杯にして、そこに浸かるんだとよ。
しかも、イタリアから直輸入のエキストラバージンだ。
一回使った油は、捨てちまうそうだ。

毎日、風呂桶いっぱいだぜ?
べらぼうなこった。

あ?
俺も最初に聞いたときは、冗談だと思ったさ。
イワシの缶詰か、ってよ。
はっは。
けど本当らしい。
だからだよ。
だからアレハンドロの肌はあんなにピカピカなんだ。

まったく、出世する奴は、考えることが違うもんだ。
なあ?
アレハンドロは親分のおぼえがめでたいから、
ずいぶんおいしい餌場を幾つも預かってる。
たいした野郎だよ。
チンピラ時分は、俺おまえの仲だったが。
今そんな呼び方したら、どえらいことになるな。
はっは。

いやあ、でも正直、オリーブオイルの件は、
ちっとばかしやりすぎかなとも
思うね。
俺やおまえたちが体張って守ってる商売のあがりを、
そんなことに使っていいもんかってね。
エミリオ。
このあいだ、ホセの店を襲ったとき、
アレハンドロはおまえにいくらよこしたよ。

…なんと。
少ねえな。
そりゃあ少ねえ。
おまえのあの働きにしちゃあ。
分かってねえよ、アレハンドロも。
おまえがいなけりゃあの仕事、
あそこまで上手く運んだはずがねえのに。

おっと。
俺みてえな三下が偉そうなこと言う資格はねえんだが。
おまえといると、ついついな。

何?
おまえもそう思う?
おい。
滅多なことを言うなよ。
アレハンドロは耳ざといんだ。
ガキの頃から、悪口には敏感でな。
…思い出すねえ。
ガキの頃、奴さんに、
“おまえのおふくろの歯茎はなんであんなに黒いんだ、
 靴墨でもパンに塗って食ってるのか”って言ってやったらよ、
泣いてこっちに殴りかかってきたことがあった。
はっは。

なあ、でも、そいつが今オリーブオイルの風呂に入ってるんだ。

おまえたちが命がけで稼いだ金でだ。
なんだか、やりきれねえよ。

ところでおふくろさんの病気はどうだい。
そうか。
まだしばらく物入りだな。

何?
ああ。
確かにアレハンドロは、礼を言わねえ男だな。
あのときもそうだった。

労いの言葉、一言でいいんだが。
それが分からねえんだ。

俺がなんだって?
馬鹿野郎、俺は子分なんて持てるガラじゃねえ。
買いかぶるなよ。

まあ、飲め。

おっと、どこへ行くんだ。
アレハンドロの所?
馬鹿野郎。
待て。

…待つんだよ!

そんな、血走った目で行ってみろ。
返り討ちにしてくれと頼んでるようなもんだぜ。
おふくろさんの顔を思い出すんだ。

わかった。
こうしないか。
今度の件のおまえの取り分、もう少し増やせねえか、
アレハンドロのところに一緒に行って掛け合おうじゃないか。

おふくろさんには、今まで世話になったんだ。
それぐらいのことはさせてくれよ。

善は急げだ。
明日の朝11時にしないか。
よし。
忘れずにな。
くれぐれもはやまるなよ。

ああ。
先に帰るぜ。
カミさんにどやされる。
はっは。
おやすみ。

………

もしもし。
もしもし?
アレハンドロかい。

おれだよ。

エミリオを知ってるだろ?
そうだ。アマランタ婆さんの下の倅さ。

あいつは、ちと危ないな。

いや、ほんとの話さ。
おまえさんのこと、いろいろと言っていたよ。
ああ、面(つら)には出さないが、大分くすぶってる。
早いほうがいいな。

そう思ったんで、
明日、11時におまえさんとこに行くように話しておいたよ。
あとは任せる。
礼には及ばんぜ。
ま、おまえさんが礼を言うとも思えんがね。
へっへ。

あ、いや…待てよ。
貰いたいものがあるんだ。
え?
たいしたもんじゃない。

オリーブオイルを一本くれよ。
そう、オリーブオイルさ。
一本でいい。

…ヘンかね?
そんなことないだろう。

なに、うちのカミさん、最近肌の調子が悪くてな。
へっへへへ。

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

 

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佐倉康彦 2015年6月14日

1506sakura

林を抜けて

       ストーリー 佐倉康彦
          出演 清水理沙

    橋の架かっていないところがいいと思いました。
    もちろんトンネルでつながってもいない。
    そんな島にすると決めていました。
    今のわたしには、
    本土から切り離された場所が必要でした。
    それほど気安く行き来のできない島。
    クルマでも自転車でも徒歩でも行けない、
    船でしか渡ることができない、ということが
    わたしの気持ちと立場を
    すこしだけ助けてくれるのではないかと
    勝手に思い込みながら。
    そして、
    そんな場所に向かうじぶんに軽く酔っていました。

    フェリーから見える瀬戸内の海は、
    少しも悲壮感がなくて
    穏やかで温かくて。
    擦り切れささくれ立ったわたしのなかのなにかを
    静かに撫でてくれているような、
    そっと手当をしてくれているような感じで…
    期待していた結界となるような強さも、拒絶もなく、
    どちらかと言えば
    曖昧に甘くひらけたやさしさばかりでした。

    同じフェリーに乗り込んだ観光客たちも
    一様に目を細め
    僅かに笑みを湛えながら、
    閉じた海を遠い目で眺めては、
    スマホの電子的なシャッター音を響かせ
    ときおり満足げに空などを
    見上げたりしていました。
    そんな風景の中にわたしも溶け込んでいるのかと思うと
    それも存外、悪くはないのかもしれないと考えました。

    乗船する前から、
    わたしの左手をギュッと強く握りしめたままの
    小さな右手は、
    少し汗ばみながら
    石塊のように硬く閉じられたままでした。
    その小さな手と同じように、
    かたくなに結ばれた口元は、
    唇が白くなるほど真一文字に閉ざされ
    一切の言葉も発することはありませんでした。
    そして、
    その小さなふたつの瞳は、
    海面が照り返すいくつもの光の粒を
    怒ったように凝視したまま
    けっしてわたしを見つめることは
    ありませんでした。
    もう一方の腕で抱きかかえられた
    手足の長い薄汚れたゴム人形の瞳だけが
    キラキラとわたしを見上げ、
    その口元は小さく微笑みを投げ掛けてくるのでした。

    わたしの手を
    痺れるほど強く握りしめ、
    怒気を孕んだ瞳で光の海を凝視する

    柔らかくて甘い匂いのする
    もうひとりの小さなわたし。
    この子は、
    今のじぶんの境遇を
    どう思っているのかということは、
    わたしの左手が痛いほど感じていました。

    あと数分で島に接岸するというときのことでした。
    フェリー乗り場の少し先に、
    山というよりは小高い丘のようなものが
    見えてきたときのことでした。
    固くにぎられた小さな掌から力がふっと抜けました。
    わたしは、
    そっとちいさな横顔をのぞき込みました。
    その丘の緑のせいなのか、
    ちいさなふたつの瞳にあった刺々しさが
    ほろほろと抜け落ちて行くようでした。
    わたしの瞳からも
    なにかが流れて落ちてゆきました。

    わたしは、
    あの丘の近くに部屋を借りようと思いました。
    丘に至るまでのあの林の道を抜けて
    この子と手をつないで
    ずっといっしょに昇っていこうと決めていました。

    その淡い淡いみどりいろのオリーブの林の先にある
    なにかを探しに。
                       了

出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

 

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勝浦雅彦 2015年6月7日

1506katuura

オリーブ

      ストーリー 勝浦雅彦
         出演 長野里美

病室の扉をあけた私は、眠っている祖母を見て愕然とした。
髪は抜け、肌は黒ずみ、右頬に大きなしみができている。
体中に差し込まれた無数のチューブが、彼女をこの世に留めていた。

「もってあと数日です」、と担当医は母に言ったそうだ。
大学出たての若い女医にまるで「いい天気ですね」と言うような口調で
そう告げられ、母は戦う意思のようなものを失くしたのだという。

「最近よく言ってたんよ。貴美子の夢を見るって」
私は母の呟きに答えず、祖母の顔を見つめていた。

私が離婚して、別の人と一緒になる、と言ったとき、
緞帳が降りたように、さあっと変わった祖母の顔色を今も覚えている。

それが、世間で言うところのW不倫であり、
相手が15歳も年上であったことが、当然のごとく我が家の問題など
軽々と飛び越え小さな街の大事件になった。

彼は測量技師であり、街の再開発工事のために長期で滞在していた。
私は小さな工務店に勤めていて彼と出会った。型紙のようによくある話だ。

不思議なことに、私も彼もお互いの夫婦関係に問題はなかった。
どちらも子供はいなかったが、セックスレスでも、冷え切ってもいなかった。
ただ、そうあるべき相手に出会ったとき、
あらゆる事情を踏み越えて二人は共同して事にあたるべき、
という認識が瞬時に出来上がったのだ。

私は彼のことを「相棒」と呼んだ。
恋人とか夫婦とか、
ショウケースの中のハンバーグやケーキくらいわかりやすくて
確かなものに意味を失った私たちは、
自分たちにしかわからないルールを決めて一緒に守っていく、
というかたちでしかその関係を続けられなかったのだと思う。
私たちはあやふやなものなかにある確かなものを必死でたぐりよせようとした。
それがこんがらがった毛玉に二人して手をつっこむような
愚かな行為だったとしても、私たちは真剣だったのだ。

当時、祖母はとにかく泣いた。
離婚なんてとんでもない、我慢がたりないんじゃないの、
感謝が足りないんじゃないの、そんなことをして神様が許すと思うの、と。
祖父をはやくに亡くし、
小学校の教師をしながら母を育てた祖母は、敬虔なクリスチャンだった。
毎週末、必ずミサに参加していたし、
私も時どき連れて行かれた。
カトリックの教えでは離婚は禁じられていた。

私の離婚が成立すると、私と相棒は街を出た。
それ以来、私は祖母と一度もつながりをもっていない。

翌日の朝、母は着替えを取りに帰り、私は祖母と二人きりになった。
空の表情はすっかり機嫌を取り戻していたが、
病室の中には湿った空気があふれ鼻腔をついた。
それは紛れも無く、死の匂いだった。

部屋の外窓にはいくつかの大ぶりの鉢植えが置かれていた。
珍しいことにオリーブの木があった。
濃い緑が、日の光に揺れている。

祖母からよく聞かされた、「ノアの方舟」を私は思い出した。
世界を覆う大洪水から逃れるために、
ノア一家と動物たちは男女のつがいになり方舟に乗り込む。
そのノアたちに新世界の到来を告げたのが、
オリーブの葉をくわえた鳩だった。
話を聞きながら、私はいつも疑問に思ったものだ。
その乗り込んだつがいの、
組み合わせが間違っていたらどうするの・・・。

「・・・さん、・・・さん」
振り向くと祖母の口がひらき、微かな声が漏れている。
慌ててベッドに駆け寄った。
「おばあちゃん、私よ。どうしたの、苦しいの?先生?」
次の瞬間、祖母の唇が動き、名前がこぼれた。
私は、たしかにそれを聞いた。

次の日、付き添いの母が眠りに引きずり込まれている間に、
祖母はこの世を去った。一瞬の悲しみのあとに、
手続きの嵐がやってきた。
母は速記官のように書類を記入し、判断をくだしていった。

病室の片づけを終え外庭に出ると、視界がぼやけた。
そこには東京にいるはずの「相棒」がいた。
ベンチに座り、シャツの裾をまくって鳩に餌をやっている。
どうして偶然のように、この人はいつも私の側にいるのだろう。
今、私はこのさえない年上の男を愛おしくただ会いたい、
と願っていたのだ。

「おばあさん」と彼は言った。
「うん、今しがた」
そう、と餌をやる手を止め、彼は深く溜息をついた。
「ひと目、と思っていたけどね。入る勇気なかった」
「うん」

私は、ポケットに手を突っ込み、
さっきまで一つの命を抱えていた白い病棟を見上げた。

最後に祖母が口にした名前。それは、祖父のものではなかった。
知らない名前だった。
私は別れの一歩手前で、はじめて祖母のことを理解したような気がした。
祖母は、誰と方舟に乗ったのだろうか。
それがあるべき「つがい」であることを私は祈った。

病棟から出てきた母が相棒をみとめ、会釈をした。
慌てて頭を下げた相棒の手から残りの餌がこぼれ落ちると、
鳩が一斉に飛び立った。

出演者情報:長野里美 株式会社 融合事務所所属:http://www.yougooffice.com/

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中山佐知子 2015年5月31日

1505nakayama2

クチベニが死んだ

     ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

クチベニが死んだ。
死んだ仲間は
たいがいこのあたりの浜辺に打ち上げられるが
クチベニは小さいし、目立たないから
誰も気づいてやれないかもしれない。

クチベニは外から見ると
爪の先くらいの白いちっぽけな貝だった。
固くて分厚い殻に閉じこもっていた。
艶も模様もない、ただ白いだけの制服を着て
しっかり口を閉じて生きてきたのだと思う。

クチベニを見ていると
僕は修道院のシスターを思い出すことがあった。
人生に多くを望まず
海の底で生きるために食べ、食べるために生きていたに違いない。
誰かにかまわれることがほとんどなかったし
たぶん死ぬときもひとりで死んだのだろう。

死んだクチベニの残した貝殻は
ぐるぐると波に遊ばれ、砂浜に運ばれる。
そして、それを拾った人が気づくのは
貝の内側にすっと引かれた赤い紅の色だ。

生きているときは決して見せなかった口紅の色。
表からは決して見えなかった色。

女は自分にしか見えない
もうひとつの顔を持っていると気づいたのは
その赤い色を見つけたときだったが、
赤という色の鮮やかさを知ったのも同じときだった。

 
出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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