渋谷三紀 09年10月25日放送

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パブロ・ピカソ

生涯に15万点近くの作品を残したピカソは、
世界一多作な芸術家として
ギネスブックにも記されている。

晩年はますます自由で大胆な作風になり
87歳でこんなことを言っている。

 この歳になって、やっと子どもらしい絵が描けるようになった。

一人の天才が一生をかけてたどりついた「子供らしさ」を
じっくり鑑賞してみたい。

今日はピカソが生まれた日。

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岡本太郎

1960年、大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」。
シンボルタワーのデザインを引き受けたとき、
岡本太郎は言った。

 馴れ合いの調和は卑しい。
 ぶつかり合って生まれるものが、本当の調和だ。

太郎がデザインしたのは、
先に計画された建物の大屋根を突き破る、
高さ七十メートルの太陽の塔。

万博は終わり、建物は取り壊された。
でも太陽の塔だけは大阪のシンボルとして
今日も空に両手を突き上げている。

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葛飾北斎

江戸の浮世絵師、葛飾北斎は、九十まで生きた。
人生四十年の時代に、異例の長寿である。

北斎が脚光を浴びたのは四十代も後半。
滝沢馬琴とのコンビでベストセラーを連発した。
しかし彼に言わせれば、

七十までに描いた作品はとるに足らないもの。

であるらしい。
その言葉どおり、かのゴッホにも影響を与えた代表作
「富嶽三十六景」を完成させたのは、七十五歳のとき。

年を取っても絵に対する意欲は衰えることがなかった。
七十九歳で火事に遭い、すべての写生帳を失っても
まだ絵筆が残っていると言い
八十九歳にしてなお気迫に満ちた極彩色の竜を描いている。

その北斎が息を引きとる間際に残した言葉がある。

 あと五年生きられれば、本当の絵描きになれるのに。

まったく…
天才はどこまで行くつもりだったのだろう。

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岸田劉生・麗子

子どもが子どもでいる時間はみじかい。
だから親はそのあいらしい瞬間を残そうと、躍起になる。

岸田劉生もまた
70点を超える娘の肖像を描いた。

娘の名前は麗子…

5歳から16歳まで
油絵、水彩画、また日本画やデッサンとして
さまざまな麗子像が描かれた。

麗子像を説明するのはむづかしい。
ときには肩幅ほどもある大きな顔
あるときは怒ったような表情。
どの絵も暗く、ねっとりと濃厚で湿っている。
子供の頃に怖かった暗がりを見る心地がする。

でも、それこそが
劉生が「デロリの美」と名づけ、極めようとした美の世界。
麗子像について当の麗子はこう語っている。

 あの絵は、私を通して違うものを描いているの。

なるほど、麗子は画家の娘であった。

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伊藤若冲

色鮮やかな花鳥画で知られる画家、伊藤若冲。

若冲は肉を一切口にしなかった。
仏教を篤く信仰していた彼は、
頭も丸く剃っていた。

ある日のこと。
肉屋ですずめが売られているのを見つけた若冲は、
数十羽すべて買いとり、庭に放してしまう。

その節はありがとうございました。
美しい娘に姿を変えたすずめが、若冲の前に現れた。
なんて後日談は、残念ながらないけれど。

若冲の絵には
群れをなしてうれしそうに空に飛び立つすずめの絵がある。
もしかしたら、この絵のアイデアが
すずめの恩返しだったのかもしれない。

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