2010 年 6 月 のアーカイブ

小山佳奈 10年06月12日放送


詩人 立原道造

詩人、立原道造。

たった24年と8カ月の人生に
紡ぎ出された彼の詩は
どこまでも青く甘く切ない。

「裸の小鳥と月あかり
 郵便切手とうろこ雲
 引き出しの中にかたつむり
 影の上にはふうりんそう

 僕は ひとりで
 夜は ひろがる」


立原道造 親友の妹

恋は人を詩人にするとはよく言うけれど
立原道造ははじめての恋がきっかけで
そのまま、本物の詩人になってしまった。

立原道造が初めて恋をしたのは14歳のとき。
相手は親友の妹で
人一倍おくての立原は
あふれる思いを歌に託した。

「片恋は 夜明淋しき
 夢に見し 久子の面影
 頭にさやか」

彼女を想う詩が山と積もる頃、
少年の恋は静かに終わり
詩人としての人生が始まった。


立原道造 正門前

東大の建築科に通う学生になった立原道造は
ある日、大学の正門前で
太宰治にばったり会った。

「浅草にでも行かないか」と誘う太宰。
太宰の目当てはもちろん遊郭。

そんな目的を知ってか知らずか
立原は恥ずかしそうに顔を赤らめ
設計図を引くための大きな三角定規を片手に
そそくさとその場を立ち去る。

どこまでもきまじめな、立原。
すでに無頼を地でいく、太宰。

昭和十年。
まだ日本が戦争へと駆け出す前の
文学者たちの青春がそこにある。


立原道造 アサイさん

詩人であり建築家でもあった
立原道造。

大学を出て
建築事務所に勤め始めた彼は
そこで19歳のタイピスト、
水戸部アサイと出会う。

二人の恋はどちらかといえば
消極的なものだった。

デートといえば
なぜか同期の武(たけ)さんが
いつもついてくる。
難しい文学論や自作の詩を
延々と語り続ける立原を
アサイは黙って聞いている。

ただの一度も「愛してる」とは言わなかった。
ただの一度も「愛してる?」とは聞かなかった。

病に蝕まれていく体が告げる
そう長くない将来。
言葉にすることの重さを
詩人は誰よりも知っていた。


立原道造 光

出征する兵士たちを
戦地へ見送る万歳三唱がこだまする
昭和13年の暮れ。
立原道造はすでに結核におかされていた。

絶望と病苦の中で、
立原道造は長崎に旅に出る。

「しづかな、平和な、光にみちた生活!
そのとき僕が文学者として
通用しなくなるのなら
むしろその方をねがう。」

芥川も、中也も、
みんないなくなってしまったけれど、
夭折の詩人、なんて死んだ後に称賛されるより、
たとえ詩が書けなくなっても
いま生きてることの方が素晴らしい。

立原はただ生きたかった。
生きてやりたいことが
もっともっとあった。


立原道造 遺言

昭和14年、3月。
詩人、立原道造は、
結核の療養所にいた。

食欲はとうになかったけれど
見舞いに来た友人たちに
何が食べたい?
と聞かれた立原はこう答えた。

「五月のそよ風をゼリーにして
 持って来てください。」

それは
中原中也賞を受賞したばかりの
24歳の詩人の最後の言葉として
伝えられている。


立原道造 「思い出」  

立原道造が亡くなって70年。

初めての恋人であり
最後の恋人であったアサイさんは
いま長崎に住んでいる。

そこは
立原が死の病をおして
たどり着いた最後の場所。

当時のことはよく覚えていないんだけど、
と笑うアサイさん。

ツイードのジャケットに白いシャツ、
すらりと伸びた長い指と物憂げな表情。

アサイさんの手には今でも
立原から送られた15通の手紙が
そっと握られている。

「夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と」

ふたりは結婚することはなかったけれど
立原道造のそばには最後までアサイさんがいた。

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JZBratのフードメニューをご紹介

Tokyo Copywriters’ Street ライブ4の会場であるJZBratは
もともとが東急の子会社。
ライブハウスというよりはラウンジ的な雰囲気もあり
ドリンクもフードもおいしいです。

下はそのフードメニュー。
とりあえず目で楽しんでみてください(さ)

Tokyo Copywriters’ Street ライブ http://www.01-radio.com/guild/




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蛭田瑞穂 10年06月06日放送



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ①

ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンと
ポール・マッカートニーにはいくつかの共通点がある。

才能あるメロディーメーカーであること。
ベースを担当していること。
そしてふたりとも1942年の6月に生まれていること。

互いに影響を与え合い、ロックの歴史を変えた
ブライアン・ウィルソンとポール・マッカートニー。

この一致は偶然か、それとも必然か。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ②

ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンは
初めてビートルズを見たときのことをよく覚えている。

それは1964年2月9日のことで、ビートルズはテレビ番組
「エド・サリバンショー」に出演していた。

ブライアンにとってビートルズのすべてが衝撃的だった。
音楽性もステージ衣装もファンの熱狂も。

このときの衝撃がブライアンとビーチ・ボーイズの音楽性を
大きく変えることになる。

それはカリフォルニアの陽気なポップスグループが
音楽史に名を残す偉大なロックバンドに変わった瞬間だった。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ③

1966年の初め、ビーチ・ボーイズのリーダー、
ブライアン・ウィルソンのもとに友人が訪ねてきた。

「このアルバムを聴いた感想を聴かせて欲しい」。
それはビートルズのニューアルバム『ラバー・ソウル』だった。

そのときのことをブライアンはこう振り返る。


 感想を言うのは簡単だった。
 ただただ感激した!

『ラバー・ソウル』を聴いた彼は
ビーチ・ボーイズの最高傑作をつくることを決意し、
すぐに制作に取りかかる。

そして1966年5月、ニューアルバムをリリースする。

ロック史に燦然と輝くアルバム、
『ペット・サウンズ』の誕生である。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ④

ビーチ・ボーイズの最高傑作『ペット・サウンズ』は
リーダーのブライアン・ウィルソンが、
ほとんどひとりでつくりあげたアルバム。

彼は言う。


 僕はそのアルバムに魂を注いだ。
 心の痛み、喜び、葛藤、悲しみ、愛を。
 その音楽は僕のすべて、生身の僕自身だった。

ブライアン・ウィルソンという人間のすべてが
むき出しで表れる『ペット・サウンズ』。
その音色は透き通るほどに無垢で美しい。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑤

1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』。
その中に収録された「God Only Knows」というラブソング。

この曲にはポピュラーミュージック史上初めて、
「God」という言葉が使われたと言われている。

作曲をしたブライアン・ウィルソンは最初、
その言葉を使うのをためらった。

「神」という単語が入っている曲を、
ラジオ局が流さないのではないかと。

しかし、歌詞を書いたトニー・アッシャーは、
「アートとは妥協するものではない」と断固として譲らなかった。

のちにロックの名曲と呼ばれ、ポール・マッカートニーが
「実に偉大な曲」と賛辞を贈った「God Only Knows」。

もし、この曲に「God」という言葉が使われなかったとしても、
やはり同じような評価を受けただろうか?

それは、神のみぞ知る。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑥

ビーチ・ボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』。

作曲を手がけたブライアン・ウィルソンは
作詞をトニー・アッシャーというコピーライターに依頼した。

彼だったら自分の感じていることを
的確に歌詞に表現してくれると思ったのだ。

承諾したトニー・アッシャーはアルバムの制作に参加する。
ただし、当時彼は広告会社の社員。
会社には3週間の休暇届けを提出した。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑦

1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』。
作曲を手がけたブライアン・ウィルソンはアルバムの中で
「テルミン」という電子楽器を取り入れた。

それだけではない。
彼はなんと自転車のベルの音まで楽器代わりに使ってみせた。

天才の創造性。
それはあらゆるものの可能性を簡単に広げてしまう。



ブライアン・ウィルソンとペット・サウンズ⑧

1966年、ビーチ・ボーイズが発表したアルバム『ペット・サウンズ』は、
リーダーのブライアン・ウィルソンがほとんどひとりでつくりあげた作品。

レコード会社はそれまでのビーチ・ボーイズとは
イメージが違いすぎるという理由で「失敗作」と評価した。

しかし2003年、ローリングストーン誌は
史上もっとも偉大なアルバムの第2位に『ペット・サウンズ』を選ぶ。

ブライアン・ウィルソン。
彼は早すぎる天才、だったのかもしれない。

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厚焼玉子 10年06月05日放送


宮沢賢治の音

ぷりりぷりりと震えるウメバチソウ
サァン、ツァンと揺れる竜胆の花
しゃりんしゃりんとそよぐ鈴蘭。
そしてツリガネソウは
カンカンカン、カエコカンコカンと響き合う。

宮沢賢治はもの言わぬ植物から歌を聴いた。

どっどど どどうど、と風が鳴る。
ツンツンツンと月は明るい。

宮沢賢治にとって
この星の天と地の間にあるものはすべて生きているのだ。
生きているから歌を持っているのだ。

ルルルルル、とハチスズメが飛ぶ。
ギュッギュッ、ギッギッと蛙が鳴く。

私たちもこの星の歌に耳を澄ませよう。
一本の木に鳥が来て、一輪の花に虫が来る。
ひとしずくの水にだって無数の微生物が棲んでいる。

小さな命の歌と歌が
美しく響き合う地球であるように。


火の鳥から野菜へ

野口種苗研究所の野口勳さんは野菜の種と苗を売っている。
その種は固定種と呼ばれるもので
親の種を取って撒くと親と同じ野菜が生えてくる。

種を撒いたら生えてくるのは当然のようだが
いまの野菜の多くはF1と呼ばれる種からできている。
F1は一代雑種で大量生産には便利だけれど
その種から同じ野菜はできない。

野口勳さんは大学の頃から手塚治虫の大ファンで
念願の虫プロに就職して「火の鳥」の初代編集者になった。
手塚治虫の生涯のテーマは
「生命の尊厳と地球環境の持続」

これに感銘を受けた野口さんは家業の種苗店を継いだとき
日本の伝統的な固定種を扱うことに決めたのだ。

種を撒いたら親と同じ野菜が生えてくる。
こんな当たり前のことを守っていくのも
地球に生まれた生命の尊厳と地球環境の持続だと思う。


海は森を恋いながら 熊谷龍子

 森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく

この美しい言葉は宮城県の歌人熊谷龍子さんが詠んだ歌。
熊谷さんは森のなかの家に住み
山から海を考えたことはあったけれど
海から山を見たことはなかった。

誘われて海へ行った。
海の水で洗っただけのまっ白な牡蠣を食べた。
その牡蠣は森の恵みだと教えられた。
びっくりした。

森の落ち葉が腐葉土になり
森に降った雨が腐葉土にしみ込んで
その養分を川に運ぶ。
その川はやがて海につながっていくのだ。

海と森には深い絆がある。
太古からの地球の営みのなかで
海と森はつながっている。

森は海を、海は森を恋い慕っている。
この言葉を忘れないようにしよう。


森は海の恋人 畠山重篤

宮城県気仙沼の海が茶色になったのは
昭和40年代から50年年代にかけてのことだった。

その原因は多過ぎるほどあった。
工場排水、一般家庭からの排水、農薬に除草剤、
手入れのされない針葉樹林からの赤土…

気仙沼で牡蠣の養殖をしていた畠山重篤さんは
まっ白なはずの牡蠣の身が赤くなったことに驚き
ヨーロッパまで視察に行って勉強をした。

いままでの海を取り戻すには何をすればいいのだろう。
海ばかり見ていたのではダメなんだ。

海には植物プランクトンの森がある。
海の森を育てるのは山の森だ。
山の森の養分を川が運んで海の森を育てることがわかった。

いま、畠山さんは「森は海の恋人」というNPO法人の代表として
海に生きる人たちの手で山の森を育てる活動をしている。

木を植え、森を育て、里山をつくり
気仙沼の海は少しづつキレイになっている。

「森は海の恋人」という言葉は歌人熊谷龍子さんの歌からもらった。
  森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく
美しい言葉に負けない美しい海を…


照葉樹林 宮脇昭

マレーシアの、
再生不可能と言われた熱帯雨林をよみがえらせ
万里の長城の壊滅した森も復活させた。
2006年には地球環境に貢献したことが認められ
ブループラネット賞を受賞した宮脇昭さん。

宮脇さんが木を植えるときは
その土地にもともと生えていた木をさがして植える。
しかし、たとえばいまの日本でその土地本来の森は
0.06%しか残っていない。

困ったとき、宮脇さんは鎮守の森の木を調べる。
鎮守の森は神さまの領域なので
昔から木を伐られることがあまりないからだ。

宮脇さんの森は人の管理を必要としない。
地球の太古の森がそうだったように
自然にまかせておけば元気に生きている。

人は自然をもっと信じて生きなければ。


10年めの三宅島 ジャック・モイヤー

かつて200種類を超える野鳥が棲み
バードアイランドと呼ばれた三宅島。

噴火直後は小鳥の声も聞こえなくなったといわれたけれど
10年たったいまでは賑やかなさえずりが聴こえる。
海では魚と伊勢エビが増えている。

三宅島に住んでいた世界環境保護スペシャリスト
ジャック・モイヤー博士は
島に帰る日が来る前に亡くなってしまったけれど
博士が教えてくれたことは、いまも三宅島に生きています。


宇宙ゴミ ニコラス・ジョンソン

5,500トンのゴミが地球の周囲をまわっている。
その内容は人工衛星やロケットの残骸から
宇宙飛行士が落とした手袋や工具まで。

これらをまとめてスペース・デプリと呼ぶ。
日本語で言うなら宇宙ゴミ。

宇宙ゴミは活動中の人工衛星と衝突することがある。
たとえば1996年のフランスの軍事衛星は
10年前のロケットの破片と衝突して損傷を受けた。
直径10センチのゴミで宇宙船ひとつが破壊されてしまうというから
宇宙のゴミは危険物そのものなのだ。

アメリカの航空宇宙局NASAには宇宙ゴミ問題の主任科学者がいる。
お名前はニコラス・ジョンソン。
ジョンソン氏は宇宙ゴミ国際調整会議の米国代表団の団長をつとめ、
国際宇宙科学学会の宇宙ゴミ小委員会の共同議長、
さらに米国航空宇宙学会の宇宙ゴミ標準化委員会の委員も兼ねている。
また1995年には国際宇宙ステーションの
宇宙ゴミ安全管理委員会の委員でもあった。

地球は宇宙へつながっている。
地球環境はもう地球だけの問題ではなくなってしまったようだ。

頭の痛い宇宙ゴミ問題に取り組むジョンソン氏を
心から応援したい。

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五島のはなし(103)

「五色列島」発言をした僕の上司は
その話の流れで
ぼくが帰省するたびにおみやげで買ってくる
あるものについても言及してました。

「・・・にしてもあなたが実家のおみやげで買ってくる
『サザエ最中』、あれ、すごいわよね」と。

考えてみたら『サザエ最中』ってすごい名前だ。
ザ・おみやげ、な響きだ。

が、上司が「すごい」と言ったのは
そのネーミングではなく
お菓子としての出来栄えで、
サザエ最中はもうほんとに昔ながらの最中の味がする。
あんこが甘い。と書くと、そりゃそうだと思われるかもだけど、
でもなんというか、本流の甘さだ。
そして、あんこを包む皮が口の中にへばりつくあの感じも
古き良き最中のまさに本流感がある。
まさに、最中・オブ・ザ・最中ズ。

あ、でもサザエの形をしてる時点で本流ではないのか・・・

姉妹品に『あわび最中』もある。
モノをお見せしたいが、あいにく写真がない。

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五島のはなし(102)

つい先日会社の上司(女性)が
打ち合わせ中に唐突に言ったのです。

「そーいえばあなたの地元、ちょっとブームじゃない?
 なんていったっけ、ほら、あの・・・五色列島」

いやいや、五島列島ですから。
すかさずつっこんだものの、
「ゴシキレットウ」という響き、なんか良いなと思った。
カラフルな感じがするでしょ。

海の青さが光の加減によって5つの色にきらめく。
これに驚いた中国の高僧がこの名前をつけた、と言われている。
・・・的な。

そんなことはどうでもいい。
ほんとに気にすべきは、五島列島が「ブームらしい」ということだ。
雑誌やテレビでよくとりあげられているというのだ。

ほんとか?
この「五島のはなし」の効果か?
・・・いや、それはないか。

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中村直史のリレーコラム

つづきはこちらから
http://www.tcc.gr.jp/index_main.html
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2010年5月18日から21日まで中村直史が書いてます。

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