1968年、
川端康成が日本人で初めて
ノーベル文学賞を受賞したその年。
パリのサンジェルマンデプレの一角に、
世界中の前衛作家の顔写真が張り巡らされる。
その中に、ただ一人、
日本人の顔があった。
安部公房。
奇想天外で難解なストーリーにも関わらず、
今なお世界中に熱狂的なファンを持つ。
安部公房はにこりともせずに言う。
「俺は世界的な前衛だからね」
医学部出身の作家は案外多いが、
安部公房も、その一人。
しかしそもそも兵役逃れのために
医学部を選んだ彼にとって
医者になるための勉強なんかより
リルケやニーツェの方が
100倍重要だった。
何度も落第しようやく迎えた卒業試験では
妊娠期間を二年と答え教授を絶句させる。
「僕は医者になりません」
たぶん東大医学部史上初めてであろう
誓いを立ててようやく卒業を許された。
私たちは二重に感謝しなくてはならない。
一つは彼の文学を享受できたということ。
一つは彼の治療を受けずにすんだこと。
たいていの作家は
売れない時代の苦労話の
一つや二つは持っているが、
安部公房の場合、ちょっと想像を絶する。
血を売ってパンを買う。
住んでいたバラックは隙間だらけで、
冬には粉雪が布団に降り積もる。
挙句の果てに
芥川賞で賞牌の時計をもらうやいなや
すぐさま質屋に走った。
売れてからは高級外車に乗り、
高級ホテルを定宿とした。
それもまた、いい話。
文学界の鬼才、安部公房も、
焦っていた
それなりに本は出しているが
それなりにしか売れない。
27歳で芥川賞を取った彼も、
いつの間にか36歳になっていた。
急きたてられるように
軽井沢に別荘を借りる。
しかしその別荘は、
別荘とは名ばかりの
ただの牧場の休憩小屋。
電気もない。水道もない。
もちろんテレビもラジオも新聞もない。
外の世界から完全に遮断された世界。
そんな
極限から生まれたのが
「砂の女」だった。
焦ることも時には大切。
焦らなければ先は見えない。
安部公房は、人に厳しい。
井上靖、井伏鱒二
巨匠と呼ばれる作家も彼の手にかかると
「まがいもの」と呼ばれてしまう。
初めて三島由起夫に会ったときも
「こういう小説は可能性がない」と
取りつく島もない。
しかしその後二人は
たびたび飲み屋に繰り出しては
文学について語り合うようになる。
「僕にとって三島由紀夫は得がたい相手だった。
社交や妥協がいらない人物だった。」
安部公房は、人に厳しい。
その分、人への愛も深い。
「いまの僕たちはキリストより人気がある。」
当時人気の絶頂だった
ジョン・レノンが雑誌の取材で言い放った言葉は
ローマ法王と世界中のクリスチャンの怒りを買った。
それから44年たった今年。
ローマ法王はジョンとビートルズを許すことを発表した。
「彼らの歌を聞いていると
昔のすべてのことが遠く無意味に思えてくる」
それが、音楽の力だ。
ポール・マッカートニーは言う。
「結婚生活はやっぱりロマンティックでいいものだね。」
ジョン・レノンは言う。
「結婚など時代遅れの形式だと思う。」
ジョージ・ハリスンは言う。
「僕たちは成功にも名誉にも惑わされない。」
ジョン・レノンは言う。
「人間は誰でも一生をかけて大成功を夢見てるのさ。」
ビートルズはどこまでもバラバラだった。
それでも彼らは音楽でつながっていた。
ジョン・レノンは言う。
「話し合いはコミュニケーションの最も遅い手段だ。
音楽の方がずっといい。」