佐藤延夫 11年4月2日放送
1901年、ひとりの少年が手にしたのは、
浅草の露店で見つけた
おもちゃのボックスカメラだった。
当然のように少年はその魅力に取り憑かれ、
写真を撮ることが生業となる。
カメラはコンパクトで粋なものがいい。
その理由でライカを選んだのは
写真家、木村伊兵衛(きむらいへい)。
粋なもんです。
オツなもんですよ。
写真という魔法を手に入れた少年は、
こんな口癖を携え、
洒脱な写真家になっていた。
画家を目指していたひとりの少年は、
あるとき才能の限界を見た。
また、これからも続くであろう貧しさへの不安を感じた。
そして選んだ写真家という職業は、
土門拳という男の場合、万策尽きたあとの道でもあった。
だからこんな言葉が残されている。
写真というものを全然知らないし、
なんの興味もなかった。
人生なんて思い通りに行くものではない。
だけど思い通りに行かないほうが
案外うまくいったりするものだ。
この世には、生き方の器用な人がいる。
本当は苦労をしているんだろうけど
そんな素振りは微塵も見せない。
人懐っこい笑顔で
酒を飲み、冗談を言い、
純粋に人生を楽しんでいる。
それが写真家、木村伊兵衛という人物。
実際に、木村の写真は軽やかだ。
ひょいと行って、パチリと撮ってくるだけなのに、
今にも動き出しそうな写真が浮かび上がった。
その人が歩いてた街の様子とかなんとかいうことが
一緒に溶けこんで来なきゃいけないと思うんですよ
そんな難しいことを簡単にやってのけるには、
いったい何年修業すればいいんだろう。
昭和初期に使われていたアンゴーというカメラは、
重いうえに面倒な代物だ。
それに照明係と呼吸を合わせて撮影しなければならない。
目測を計るのが難しく、
ピントを合わせるのも一苦労で、
一流の新聞カメラマンしか扱えない、と言われていた。
当時、素人だった土門拳は、
このカメラを使ってスナップ写真の練習をした。
重いカメラで腕を鍛え、
構図がブレないように
撮影の一連の動作を毎日千回続けたという。
アマチュアカメラマンのように、
楽しみながら巧くなっていくのではない。
それは生きる術として残された一本道だった。
土門拳はこんな言葉を残している。
ぼくの場合は、いわば最初からプロだったのである。
そのころ、彼の部屋には
「打倒木村伊兵衛」と書かれた紙が貼ってあった。
ストイックという言葉は土門のためにある、と思う。
昭和を代表する写真家、
木村伊兵衛と、土門拳。
ふたりは、その生き方も、
写真に対する考え方でさえも、対称的だった。
軽々と写真を撮ってくる木村と、
丹念に下調べをする土門。
写真の中に真実を求めた木村と
社会的なリアリズムを求めた土門。
情緒か、思想か、ヒューマニティか。
独自の価値観を突き詰める土門に対し、
「銀座は月夜ばかりじゃねえぞ」と木村は吠えた。
ふたりの写真をじっと眺めると、
その息遣いまで聞こえてきそうだ。
1941年のある日、
写真家、土門拳は
画家の梅原龍三郎を撮影することになった。
念入りにピントを合わせていると、
梅原はしびれを切らし、苛立ち始めた。
そして立ち上がるやいなや、
座っていた籐の椅子を持ち上げ
アトリエに叩きつけたという。
それでも土門は、写真を撮り続けた。
背筋が寒くなるような無言の闘いは、どちらが勝ったのか。
写真家、木村伊兵衛が晩年に撮った一枚の写真。
自宅の部屋でフォーカスを合わせたのは、
11時23分を示す時計だった。
なぜ時計を撮ったのか。
それは彼の人生を表しているのか、
ただの自由人らしい遊び心なのか、
その瞬間が意味するものは、誰にもわからない。
一方、土門拳は
もう撮るに足る人間はいない、花を撮りたい
と語っていたそうだ。
周りからは、鬼の土門が仏に変わった、と噂された。
ふたりの人生は唯一の共通点、カメラを軸にして
正反対の方向に広がっていった。
遺品となったカメラが、それぞれの生き様を伝えている。
木村のライカは、まるで新品のように新しく
土門のニコンは、幾多の修羅場をくぐったあとのように
傷だらけだったという。
カメラを体の一部のように使いこなした木村。
カメラは道具にすぎない、と豪語した土門。
どちらが正しいか、なんてナンセンス。
ふたりの写真には、ふたりの心が宿っている。