坂本和加 11年4月17日放送


国語辞典と大槻 文彦 ①

日本語の五十音表記が
「いろはにほへと」から、
「あいうえお」に統一されたのは
いろは歌が「旧仮名遣い」だったことが大きい。
 
その「あいうえお順」の
普及に大きく貢献したのは
明治時代に初出版された国語の辞書だろう。
 
編纂は大槻文彦。
普通語にこだわり、
日本で初の国語辞書をつくった。
 
すばらしいのは、その名前。
ことばの海と書いて、「言海」という。
なんて辞書にふさわしく、
センスあるネーミングだろう。
 
しかし、もっと驚くのは、当時、
大槻が文部省の、いち公務員であったこと。


国語辞典と大槻 文彦②

日本で最初の国語辞書は、
大槻文彦によって作られた。
 
明治37年に出版された
この国語辞書の縮刷版は、
4年で180回も増版を繰り返すほどの
大ベストセラーとなった。
そして、大辞林、広辞苑などの、
国語辞書の土台にもなった。
 
たとえば「猫」について調べてみれば、こうだ。
 
人家ニ飼フ小サキ獣、人ノ知ル所ナリ。 温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕レバ飼ウ。然レドモ、窃盗ノ性アリ。 形、虎ニ似テ二尺に足ラズ。性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル。ソノ瞳、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、暁ハ再ビ玉ノ如シ。
 
 
なるほど、ベストセラーになった理由が、よくわかる。


国語辞典と大槻 文彦③

国語辞書についている前書きで、
たぶん日本一、興味深くて面白いのは
「言海」という日本で最初の国語辞典だ。
 
そこには、
「空白となりて、
老人の歯のぬけたらむような所がある」ことや、
ことばの意味を整理しながら
「ひとり笑へることありき」だったこと、
由来に悩み抜いたことばのことなど、
いくつも、いくつも記されている。
 
序文の著者は、大槻文彦博士。
思わずクスリと笑ってしまうのは、
大槻博士のことばへの愛が、溢れているから。
ことばの海と書く「言海」で、
大槻博士はすばらしい旅をしたのだろう。
 
敷島や やまと言葉の海にして
拾ひし玉は みがかれにけり
 
後書きにある、和歌である。


国語辞典と大槻 文彦④

日本で最初の国語辞典、
『言海』をつくった大槻文彦には、
如電という、学者の兄がいた。

何事にも積極的な兄と、
こつこつと着実に歩を進めるタイプの弟。
この兄弟の、まったく異なった気質を
その父は、ふたりがまだ幼い頃に言い当てている。

兄、如電は、碩学でありながら
世間一般からは、変わり者として
知られていたようだが、
弟、文彦が『言海』の改訂版
『大言海』の発刊を待たずに亡くなると、
兄は、その遺志をついだ。

辞書にまつわる、ちょっといい話。


大漢和辞典と諸橋 轍次①

図書館で大漢和辞典を、
手にしたことがあるだろうか。

初版から約50年。
世界最大のこの漢和辞典は、
全15巻、1冊1キロ以上。
うち1巻は、この辞書を引くためにある。
 
収容漢字数のスケールが
伝わるだろうか。
この壮大な辞書編纂の中心人物は、
諸橋轍次博士。
 
大正時代、留学先の中国で
辞典もなく、博士はたいへん苦労した。
 
ないからつくる。必要だからつくる。
自分はその器ではないとしても
進んでその任に当たってみよう。
 
世紀の大事業も、
そのきっかけは、いたってシンプル。


大漢和辞典と諸橋 轍次②

1960年に刊行された
大漢和辞典の初版は、13巻。
その編纂の中心となった、
諸橋徹次博士は完成前から
後継者による改訂を願っていた。
 
オックスフォードをはじめ
名だたる辞典はみな、
後人によって完成されるもの。
 
その修訂版編集も長きにわたり
博士の死後ようやく、平成の世に出版され、
大漢和辞典は全15巻となった。
 
特筆すべきニュースは、その際、
漢字の本家である中国政府から
500セットもの発注を受けたこと。


大漢和辞典と諸橋 轍次③

漢字の祖国、中国にもまだない
漢和辞典を一からつくる。
 
気の遠くなるような
作業だったに違いない。
大漢和辞典の産みの親ともいわれる
諸橋轍次博士は、それを
35年の歳月をかけ、やってのけた。
 
博士は、
座右の銘を聞かれると、
四字熟語でいつもこう答える。
 
「行不由径」(こうふゆけい)
 
その意味は、近道をせず、大道を堂々と進め。
 
なんでも「検索」が当たり前の世のなか、
辞書を引き学ぶことは、やはり大道である。


大漢和辞典と諸橋 轍次④

全15巻からなる、世界最大の
大漢和辞典が、大修館書店から出版されている。
 
たいていの図書館にある
この辞典を手にしたら、
ぜひ序文を読んでほしい。

この序文は、編纂の中心人物
当時78才の諸橋徹次博士によって書かれた。
発刊までの35年という月日の中、
空襲で、完成を目前にした
版や資料の大部分が
焼けてしまったこと、
途中でほぼ失明の状態にあったこと。
それでも、幾多の人の支えがあり
ようやく刊行の運びとなったこと。
 
この壮絶なドラマは、
ほんとうにあった話。

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