グレースケリー①
幼い頃のグレース・ケリーは、
病弱で内気な女の子だった。
オリンピックのボート競技の
金メダリストである父は、
スポーツのできる姉や兄の方をかわいがった。
「グレースにできることは、
姉のペギーならもっとうまくこなせる。」
と、父に言われつづけた。
尊敬する父に認められたい。
その想いが、グレースを動かす力になった。
1955年3月30日、
『喝采』でアカデミー主演女優賞を獲得した時の、
彼女の語った言葉。
これで、やっとケリー家の一員になれました。
ハリウッド女優から、モナコのプリンセスへ。
今日、11月12日は、
グレース・ケリーの誕生日。
グレースケリー②
「背が高すぎ。痩せすぎ。
顎ががっちりしすぎ。」
若き日のグレース・ケリーは、
自分の容姿に
コンプレックスを感じていた。
しかし、それこそが
オードリー・ヘップバーンや、
マリリン・モンローと違う、
彼女らしい、全く別の魅力を放っていた。
その美しさを一言で表した言葉が、
「クールビューティー」。
もし、グレースが、
背がちょうど良くて、痩せてなくて、
顎ががっちりしていなかったら、
同じ成功は得られなかったのかもしれない。
今日、11月12日は、
グレース・ケリーの誕生日。
グレースケリー③
「嬉しくて、この喜びを何て
言葉にしたらよいか分かりません。
この受賞を可能にしてくださった皆様に、
心から感謝を述べたいと思います。」
映画『喝采』でアカデミー主演女優賞を
獲得したグレース・ケリー。
しかし彼女は、その時の気持ちを
こうも語っている。
オスカーを受賞した日、
それは私の人生の中で一番寂しい時間でした。
受賞後、宿泊先のホテルの
部屋に戻ったグレースは、たった一人きりだった。
いくら成功しても、
分かち合える人がいなければ幸せではない。
一人彼女は、そう感じていた。
しかしその1ヶ月後に、
まさか運命の出会いが待ち受けていることなど
知る由もないグレース・ケリー。
このとき25歳。
11月12日は、グレース・ケリーの誕生日です。
グレースケリー④
ハリウッドのスター女優グレース・ケリーと
モナコのプリンス、レーニエ三世
華やかな世界に住む2人の交際の手段は
文通だった。
カンヌ映画祭で出会い、
ほんのひととき、交わした会話。
それ以来、2人は手紙のやりとりを欠かさなかった。
後にグレースはこう語っている。
女性がある程度の成功を果たすと、
結婚することで自分を失わず、
尊敬できる男性を見つけるのは大変なこと。
そのことを考えたら、
ふたりを隔てる距離などは
問題ではなかったのかも知れない。
11月12日は、グレース・ケリーの誕生日。
グレースケリー⑤
そして、お姫さまは、
幸せに暮らしましたとさ。
おとぎ話ならそこでハッピーエンドだが
モナコのプリンセスになったグレース・ケリーの現実は
その先があった。
本音を話せる友人がいない。
自由に出かけることもできない。
フランス語も流暢に話せない。
公務や生活に慣れて、
安定した毎日を送れるようになるには、
女優になってからアカデミー賞を取るまでより
ずっと長い時間を要した。
グレースは言う。
私は、女優に挑戦したように、
結婚にも挑戦したんです。
今日、11月12日は、
グレースケリーの誕生日。
グレースケリー⑥
ただ月を眺めるためだけに
竹で縁側を作るとは、
なんと素敵なセンスなんでしょう。
大の親日家、グレースケリーが、
京都の桂離宮を訪れたときの言葉。
いつかモナコにもこのような庭園を造りたい。
そんな願いをかなえたのは、
他ならぬ夫のレニエ公。
グレースが亡くなって12年後に完成した日本庭園。
その茶室は、GRACE GARDENと名付けられた。
そんなグレースが、日本に送った言葉。
優しさ、礼儀、美、敬愛といった美徳を
日本が失わずにいることを、
世界中が切望しています。
今日は、日本を愛した
グレースケリーの誕生日。
グレースケリー⑦
「出産おめでとう(グレース公妃より)」
病院で出産があると、自ら病院へ出かけ、
お祝いの言葉と自分のサインを入れたカード、
そして花束を届けた、グレース公妃。
少しでも国民とのつながりを深めたい。
そう考えてのアイデアだった。
アメリカABCテレビのインタビュー中に
語った彼女の言葉は、
そのまま人柄や生き方を象徴している。
慎ましく、思いやりのある人間だったと、
みんなの記憶に残しておいてほしいのです。
今日、11月12日は、
グレースケリーの誕生日。