次男がつくった日本 ①坂本龍馬
坂本龍馬は次男だった。
坂本家は、
呉服商や酒造業など手広く営む
土佐の豪商、才谷屋の分家で、
龍馬の曾祖父の時代に、武士に取り立てられた。
父の死後、
坂本家の家督を継いだ長男・権平の下に、
3人の妹と、弟が1人いた。
21歳年の離れたその弟が龍馬だった。
家は、兄が守っている。
末っ子の龍馬は、
藩にも家にも縛られることなく、
やがて広い世界に飛び出していく。
次男がつくった日本 ①坂本龍馬
坂本龍馬は次男だった。
坂本家は、
呉服商や酒造業など手広く営む
土佐の豪商、才谷屋の分家で、
龍馬の曾祖父の時代に、武士に取り立てられた。
父の死後、
坂本家の家督を継いだ長男・権平の下に、
3人の妹と、弟が1人いた。
21歳年の離れたその弟が龍馬だった。
家は、兄が守っている。
末っ子の龍馬は、
藩にも家にも縛られることなく、
やがて広い世界に飛び出していく。
次男がつくった日本 ②坂本龍馬・続
坂本龍馬は、次男だった。
10代の終わりと20代の初め、
二度にわたって江戸に出て、
剣術修行に励んだ時期、
費用はすべて実家の兄が負担した。
神戸で海軍の学校に入ったり、
土佐を脱藩したり、
長崎で海外貿易の結社をつくったり、
京都で薩長同盟に奔走したり…。
坂本龍馬は、
武士という身分にいささかもとらわれず、
土佐藩という枠組みも超え、
この国の古い価値観から自由だった。
故郷土佐で坂本家を継いだ
兄・権平の経済的援助。
そして、3人の姉たちの慈愛。
家族の存在がなければ、
坂本龍馬の、確信にみちた行動は
なかったかもしれない。
次男がつくった日本 ③吉田松陰
吉田松陰は、次男だった。
父は長州藩の下級武士、杉百合之助。
長男は家を継ぎ、次男は養子に出される。
それが、この時代の倣いだったが、
松蔭も例外ではなく、6歳のとき、
叔父・吉田大助の養子となる。
幼少時から学問に励み、神童とうたわれた
松陰は、12歳のとき、アヘン戦争の結果を知って、
危機感を覚える。日本も中国のように
西洋列強に蹂躙されてしまうのではないか、と。
23歳のとき、黒船来航に衝撃をうけ、
二度外国への密航を企てるが、二度とも頓挫。
鎖国の御法度に触れ、幽閉の罰を受けることになる。
思い立ったらすぐさま行動に移さずには
いられない血の気の多さ。
武家社会の枠組みを軽々と超えてしまう大胆さ。
やがて実家・杉家の敷地内にひらいた
松下村塾では、学問だけでなく、
登山や水泳などの授業もおこなったという。
松陰の好奇心は、つねに、書物をはみだしていった。
そんな師匠に薫陶を受けた弟子が、
行動的にならないわけがない。
高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋…。
松下村塾から、幕末の活動家が巣立っていった。
30年に満たない短い生涯において、
吉田松陰は、この国に革命の種を蒔いたのだ。
次男がつくった日本 ④近藤勇と土方歳三
近藤勇は、三男だった。
土方歳三は、10人兄弟の末っ子だった。
どちらも長男ではなかった。
そして、どちらも武士ではなく、
農民の子として生まれた。
長男以外は家を出て、
新たに一家をなさねばならない。
武士も農民も事情は同じだった。
無為に過ごせば“穀潰し”、と罵られかねない、
ということで言えば、武士よりも
農民の方が苛烈かもしれない。
2人の強烈な上昇志向は、
幕末の混乱期を生き抜く原動力となった。
たとえそれが旧体制を守ろうとする、
負のエネルギーだったとしても。
次男がつくった日本 ⑤福沢諭吉
福沢諭吉は、次男だった。
下級武士の家に生まれ、思うがままに
他国へ旅立ち、信ずるところに従って
学問に励んだ、という点で、
その経歴は吉田松陰や坂本龍馬に極めて近しい。
いささか異なるのは、
1860年の時点ですでに、この若者が米国を
旅していた、ということだ。
日米修好通商条約の批准のために、
幕府が米国に使節を派遣することになった。
オランダに発注してつくらせた咸臨丸という
蒸気船に、96名の使節団が乗り込んだ。
その中に、中津藩士の諭吉がなぜかいた。
艦長・木村摂津守の従者として、渡航を許されたのだ。
さかのぼること6年前、
闇にまぎれて小舟で外国船に近づき、
強引に乗船を迫って逮捕された
吉田松陰にくらべて、なんと恵まれた境遇。
福沢諭吉、25歳、渡米。
アメリカの初代大統領ワシントンの
子孫の所在を誰も知らない、ということに
衝撃を受ける。それがデモクラシーというものか、と。
選挙。法律。株式会社。
アメリカ社会のしくみをつぶさに見聞した
諭吉は、日本という国がいかに立ち後れているか、
痛感せざるをえなかった。
次男がつくった日本 ⑥五代友厚
五代友厚は、次男だった。
父は、薩摩藩士、五代直左衛門。
14歳のとき、父が一枚の世界地図を広げて見せた。
薩摩はおろか日本国は影もかたちもなかった。
けれど、同じ小さな島国である英国は載っている。
なぜ? 少年の心に芽生えた疑問は、
イギリスという国への興味に育っていった。
26歳のとき、薩摩藩の英国留学生に選ばれて、
念願の英国行きを果たす。
かの地でかれは理解した。大きな国土をもたない
英国が、なにゆえ世界に冠たる帝国を築いているか。
経済だ。経済がこの国を大きくしている。
帰国後、五代の才能を認めた薩摩藩は、
藩の経済をこの若者にまかせた。
維新後は、大阪に株式取引所や商法会議所を設立。
日本経済の重鎮となった。
次男がつくった日本 ⑦前島密
坂本龍馬は、この国をまるごと洗濯しようとした。
吉田松陰は、革命の教師になった。
福沢諭吉は、新しい社会システムの構築をめざし、
五代友厚は、経済の近代化を先導した。
それぞれが、それぞれの道で、
この国の新しい時代をつくろうとした。
前島密の場合は、郵便だった。
切手を貼れば全国に手紙が届く、
英国のような国にしたいとかれは考えた。
その前島密もまた、次男だった。
次男がつくった日本 ⑧三遊亭円朝
三遊亭円朝は、次男だった。
父は初代橘家圓太郎。加賀藩の武士の家に
生まれたが、生来放蕩の癖(へき)があり、
天保年間に刀を捨て噺家に転じた物好き。
ちょうどその頃生まれたのが、
のちに三遊亭円朝となる次男、次郎吉。
長男は父の放埒ぶりを嫌って出家してしまった。
その代わり、かどうかは定かでないが、
次郎吉は二代目円生の弟子にされ、
7歳のときから高座に上げられた。
10歳で二つ目に昇進。16歳で円朝を襲名、
またたくまに真打ちになってしまった。
それが、1855年、ペリー来航の翌年のこと。
円朝は坂本龍馬や土方歳三の4つ年下だった。
黒船だ、尊王攘夷だ、と、物騒な世の中をよそに、
円朝は名人の道を極めていく。
噺も巧いが、新作をこさえても右に出る者がいない。
『芝浜』『文七元結』『鰍沢』『怪談牡丹灯籠』。
いまも古典の名作とされる噺ばかり。
円朝の高座を速記した文章は、
二葉亭四迷に影響を与え、言文一致の小説の誕生に
たいそうな影響を与えたそうな。
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