2012 年 9 月 のアーカイブ

古居利康 12年9月23日放送



次男がつくった日本 ③吉田松陰

吉田松陰は、次男だった。

父は長州藩の下級武士、杉百合之助。
長男は家を継ぎ、次男は養子に出される。
それが、この時代の倣いだったが、
松蔭も例外ではなく、6歳のとき、
叔父・吉田大助の養子となる。

幼少時から学問に励み、神童とうたわれた
松陰は、12歳のとき、アヘン戦争の結果を知って、
危機感を覚える。日本も中国のように
西洋列強に蹂躙されてしまうのではないか、と。

23歳のとき、黒船来航に衝撃をうけ、
二度外国への密航を企てるが、二度とも頓挫。
鎖国の御法度に触れ、幽閉の罰を受けることになる。

思い立ったらすぐさま行動に移さずには
いられない血の気の多さ。
武家社会の枠組みを軽々と超えてしまう大胆さ。

やがて実家・杉家の敷地内にひらいた
松下村塾では、学問だけでなく、
登山や水泳などの授業もおこなったという。
松陰の好奇心は、つねに、書物をはみだしていった。

そんな師匠に薫陶を受けた弟子が、
行動的にならないわけがない。
高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋…。
松下村塾から、幕末の活動家が巣立っていった。
30年に満たない短い生涯において、
吉田松陰は、この国に革命の種を蒔いたのだ。

topへ

古居利康 12年9月23日放送



次男がつくった日本 ④近藤勇と土方歳三

近藤勇は、三男だった。
土方歳三は、10人兄弟の末っ子だった。

どちらも長男ではなかった。
そして、どちらも武士ではなく、
農民の子として生まれた。

長男以外は家を出て、
新たに一家をなさねばならない。
武士も農民も事情は同じだった。
無為に過ごせば“穀潰し”、と罵られかねない、
ということで言えば、武士よりも
農民の方が苛烈かもしれない。

2人の強烈な上昇志向は、
幕末の混乱期を生き抜く原動力となった。
たとえそれが旧体制を守ろうとする、
負のエネルギーだったとしても。

topへ

古居利康 12年9月23日放送



次男がつくった日本 ⑤福沢諭吉

福沢諭吉は、次男だった。

下級武士の家に生まれ、思うがままに
他国へ旅立ち、信ずるところに従って
学問に励んだ、という点で、
その経歴は吉田松陰や坂本龍馬に極めて近しい。

いささか異なるのは、
1860年の時点ですでに、この若者が米国を
旅していた、ということだ。

日米修好通商条約の批准のために、
幕府が米国に使節を派遣することになった。
オランダに発注してつくらせた咸臨丸という
蒸気船に、96名の使節団が乗り込んだ。
その中に、中津藩士の諭吉がなぜかいた。
艦長・木村摂津守の従者として、渡航を許されたのだ。

さかのぼること6年前、
闇にまぎれて小舟で外国船に近づき、
強引に乗船を迫って逮捕された
吉田松陰にくらべて、なんと恵まれた境遇。

福沢諭吉、25歳、渡米。

アメリカの初代大統領ワシントンの
子孫の所在を誰も知らない、ということに
衝撃を受ける。それがデモクラシーというものか、と。

選挙。法律。株式会社。
アメリカ社会のしくみをつぶさに見聞した
諭吉は、日本という国がいかに立ち後れているか、
痛感せざるをえなかった。

topへ

古居利康 12年9月23日放送



次男がつくった日本 ⑥五代友厚

五代友厚は、次男だった。

父は、薩摩藩士、五代直左衛門。
14歳のとき、父が一枚の世界地図を広げて見せた。
薩摩はおろか日本国は影もかたちもなかった。
けれど、同じ小さな島国である英国は載っている。

なぜ? 少年の心に芽生えた疑問は、
イギリスという国への興味に育っていった。

26歳のとき、薩摩藩の英国留学生に選ばれて、
念願の英国行きを果たす。
かの地でかれは理解した。大きな国土をもたない
英国が、なにゆえ世界に冠たる帝国を築いているか。

経済だ。経済がこの国を大きくしている。

帰国後、五代の才能を認めた薩摩藩は、
藩の経済をこの若者にまかせた。
維新後は、大阪に株式取引所や商法会議所を設立。
日本経済の重鎮となった。

topへ

古居利康 12年9月23日放送



次男がつくった日本 ⑦前島密

坂本龍馬は、この国をまるごと洗濯しようとした。
吉田松陰は、革命の教師になった。
福沢諭吉は、新しい社会システムの構築をめざし、
五代友厚は、経済の近代化を先導した。

それぞれが、それぞれの道で、
この国の新しい時代をつくろうとした。

前島密の場合は、郵便だった。
切手を貼れば全国に手紙が届く、
英国のような国にしたいとかれは考えた。

その前島密もまた、次男だった。

topへ

古居利康 12年9月23日放送



次男がつくった日本 ⑧三遊亭円朝

三遊亭円朝は、次男だった。

父は初代橘家圓太郎。加賀藩の武士の家に
生まれたが、生来放蕩の癖(へき)があり、
天保年間に刀を捨て噺家に転じた物好き。

ちょうどその頃生まれたのが、
のちに三遊亭円朝となる次男、次郎吉。
長男は父の放埒ぶりを嫌って出家してしまった。
その代わり、かどうかは定かでないが、
次郎吉は二代目円生の弟子にされ、
7歳のときから高座に上げられた。
10歳で二つ目に昇進。16歳で円朝を襲名、
またたくまに真打ちになってしまった。

それが、1855年、ペリー来航の翌年のこと。
円朝は坂本龍馬や土方歳三の4つ年下だった。

黒船だ、尊王攘夷だ、と、物騒な世の中をよそに、
円朝は名人の道を極めていく。

噺も巧いが、新作をこさえても右に出る者がいない。
『芝浜』『文七元結』『鰍沢』『怪談牡丹灯籠』。
いまも古典の名作とされる噺ばかり。

円朝の高座を速記した文章は、
二葉亭四迷に影響を与え、言文一致の小説の誕生に
たいそうな影響を与えたそうな。

topへ

佐藤理人 12年9月22日放送


なお
ニューヨーク・デパートストーリーズ①
「バーニーズ・ニューヨーク」

今も昔も、男がオシャレする理由は一つしかない。

1960年代のこと。
『バーニーズ・ニューヨーク』の創業者
バーニー・プレスマンは、
スーツの売上げを伸ばすある秘策を考えた。

当時のスーパーモデル的存在だった
スチュワーデスを集めて、
店でカプチーノを売らせたのだ。

バーニーの思惑は大当たり。
美しい女性を見ながらお茶を飲もうと、
男たちは続々とバーニーズにやってきた。

帰り際、彼らは必ずスーツを買っていったという。

創業時、仕入れ代が払えずに
妻の結婚指輪を質に入れた男は、
こうして世界で最も有名なデパートを作った。

 選べ。固執するな。

バーニーズの社訓の通り、
どんなに行き詰ったときでも選択肢はきっとある。

ただ、私たちの常識がそれを見えなくしているのだ。

topへ

佐藤理人 12年9月22日放送


Mike Strand
ニューヨーク・デパートストーリーズ②
「メイシーズ」

あきらめたらおしまいか。
それともあきらめが肝心か。

R.H.メイシーがニューヨークのマンハッタンに
小さな雑貨店を開いたのは1858年、36歳のとき。
既に5つの職を転々とし、6つの店を潰していた。

自分に商売の才能があるなんて、
これっぽっちも思わなかったに違いない。

しかし彼の7つめの店「メイシーズ」は、
今では

 世界最大のデパート

としてギネスブックに載っている。

あきらめが悪いというのは、
立派な才能だと思う。

topへ

佐藤理人 12年9月22日放送


juliana lop’s
ニューヨーク・デパートストーリーズ③
「サックス・フィフス・アヴェニュー」

女性にとって靴はアクセサリーではない。
生き方を表現する芸術品だ。

そう思うなら一度は訪れるべき場所がある。

ニューヨークの高級デパート
『サックス・フィフス・アヴェニュー』の8階。

マンハッタン一の広さを誇るシューズフロアは、
広すぎて独立した郵便番号を持つほどだ。

10万足の高級靴が宝石のように並べられた様は、
まるで靴の美術館のよう。

それは何より創業者ホーレイス・サックスの

 美術館のような店で買い物をしたい

という願いそのものだった。

topへ

佐藤理人 12年9月22日放送


loop_oh
ニューヨーク・デパートストーリーズ④
「ノードストローム」

全米最大の高級デパート『ノードストローム』は、
決して「ノー」と言わないことで有名だ。

その噂を確かめようとある雑誌記者が、
開店以来一度も取扱いのないタイヤを返品しにやってきた。

断られて当然の話。しかし店員は返品に応じてくれた。
記者が理由を尋ねると、店員は答えた。

お客さまの勘違いにせよ、返品に来られたら、
受け入れるのがお客さまにとって最良の対応ですので。

 常に最良の判断をせよ。

ノードストロームの規則はこの一つだけ。
社長のブレーク・ノードストロームは言う。

 親切な人を雇って販売方法を教えることはできるが、
 販売のプロを雇って親切になることはできない。

お客さまは神様じゃない。ただの人間だ。
だからこそ、親切にされると弱いのである。

topへ


login