2013 年 3 月 17 日 のアーカイブ

古居利康 13年3月17日放送


maneki-neko
円空と木喰 1

江戸時代、作仏聖(さぶつひじり)と
呼ばれる僧侶がいた。寺に定住せず、
日本各地を転々と旅して廻り、
行く先々で請われて仏像をつくり、
寺に残して去っていった。

災害や疫病、天候不順による不作。
苦しみも悲しみも、生も死も、
運命として受け入れるほかなかった
当時の庶民。ただ黙してひたすら
祈る人々のそばに、木彫りの仏像はあった。

円空と木喰。

後世にその名を最も知られた
ふたりの作仏聖。彼らが残した仏像の多くは、
いまも各地の寺にある、現役の仏像だ。

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古居利康 13年3月17日放送



円空と木喰 2

円空は、
生涯に12万体の仏像をつくった、
という記録が残っている。

現在、円空作と確認されているのは、
そのうち、約5000体にすぎない。

一本の鉈で樹を伐り出し、
何種類かの鑿で大胆に削っていく。
削ったまま、刃物の荒々しい痕跡を
残したままのその仏像は、
悟りと言うには激しく強烈な個性を
主張している。

仏像は、さいしょから木の中にいる。
円空は鉈をふるって、木の中にいる仏を
取り出しているだけ。

円空がつくった円空仏を見ていると、
そんな気さえしてくる。

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古居利康 13年3月17日放送



円空と木喰 3

自由奔放で荒々しい
木彫りの仏像を数多く残した僧、円空。

1632年、美濃国に生まれた円空は、
19歳とき、長良川の氾濫で母を亡くす。
23歳のとき美濃を出て、
隣国近江国の伊吹山太平寺に入る。
険しい山の上にある修験道の寺で
厳しい修行を積んだ。
諸国へ旅に出たのは、30歳を過ぎたころ。
旅先で木彫りの仏像を残した。

円空が彫った仏像は、一木造の丸彫り。
本体から台座まですべて一本の木だけで彫って、
彩色もしなければ漆や金箔も張らない。
節も曲がりも生かし、もとの木が宿していた
表情に逆らわなかった。

栃木県清龍寺にある不動明王像。
一本の木の下に仏の姿を彫り、
上の方はほとんど手を加えず、
荒々しい木肌を不動明王の背負う炎に
見立てている。

路傍で立ち枯れた木を伐ったり、
どこにでも落ちているような木の切れ端を
無造作に拾っては鉈や鑿をふるい、
ごく短時間のあいだに何体も仕上げていった。

円空が彫った仏像、円空仏。
木の切れ端でつくったから木っ端仏、
と呼ばれることもある。

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古居利康 13年3月17日放送



円空と木喰 4

諸国を旅して廻り、
訪れる先々で木彫りの仏像を残した
作仏聖、木喰。

1718年、甲斐国古関村の
名主の家に生まれたが、14歳のとき家出。
22歳のとき、相模国の大山不動尊で出家。

古くから真言密教の修験道場として栄え、
江戸の庶民から「大山詣り」の
信仰をあつめてきた寺。

20年、修行に努め、「木喰」を名乗る。
諸国修行の旅に出るのは、それからまた
10年の歳月を経た、56歳のとき。

このときまで、木喰は、
仏像など彫ったこともなかった。

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古居利康 13年3月17日放送



円空と木喰 5

修験道の修行のひとつに、
「穀断ち」という行がある。

穀物を食べることを禁じる行で、
米・麦・粟・稗・豆など五穀と呼ばれる
作物は人間の穢れにまみれた
俗世のものと見なし、それを断つことで
身を清廉にしようとした。

穀物を食べずに木の実や草の根のみを
食べたので、穀断ちの行は
別名「木喰戒」とも呼ばれた。
文字どおり、「木を喰らう」。

木彫りの仏像で知られる「木喰」も
この行を積み、その名も木喰とした。

木喰は、1778年、諸国修行で廻った
蝦夷国の松前で円空が残した円空仏に出会う。
それがきっかけで仏像をつくりはじめた、
と唱える研究者がいる。

真偽のほどは定かではないが、
木喰が60歳を過ぎてから仏像造りを
はじめたのは事実だ。

円空仏が直線的で荒々しいとすれば、
木喰仏は曲線的で丸みを帯び、おだやか。

そして、木喰仏は、笑っている。
円空仏も微かに神秘的に微笑んでいるが、
木喰仏は、破顔一笑、天真爛漫に
大笑いしている。

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古居利康 13年3月17日放送



円空と木喰 6

木彫りの仏像を
日本各地に数多く残した作仏聖、木喰。

50を過ぎて旅に出て、
60を過ぎて仏像づくりを始め、
90過ぎまで生き、最後まで旅の途上にあった。

その旅の行程は日本全国に及び、
円空が行かなかった中国、四国、九州にも
数多くの仏像を残した。

木喰がつくった仏像には直線がない。
すべてがまるみを帯びてやさしい。

鉈のひと振りで木を伐り、
鑿の彫り跡も生々しいままの円空仏に対し、
木喰は、木を少しずつ削り、
木を撫でるように、磨くように、
仏に近づいていった。

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古居利康 13年3月17日放送


Bjorn Hermans
円空と木喰 7

木喰は、
広葉樹を好んで使ったという。
やわらかくきめの細かい
広葉樹の木肌が、
曲線だけでつくられる作風に
生かされている。

円空は、
建築材の切れ端、朽ち木、
果ては流木に至るまで、
仏像の材料を選ばなかったが、
どちらかと言えば針葉樹を好んだ。
鉈で割りやすい針葉樹は、
直線的で荒削りの作風に
適していたと思われる。

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古居利康 13年3月17日放送


Tsuyoshi Adachi as thin-p
円空と木喰 8

大正の終わりから昭和初期にかけて
活躍した彫刻家、橋下平八は、
あるとき円空仏に出会って衝撃を受ける。

「碧玉の如き清浄無垢とそれを作出する
 精神の明澄さ、その技能の洗練。」

と、橋下平八の日記にある。
近代の彫刻家は円空仏の自在な鑿使いと
無垢な精神性に惹かれた。

同じ頃、日常の美を提唱した
民藝運動で知られる柳宗悦は、
四国の寺で木喰仏を発見する。

「私は彼を日本が産んだ最も独創的な
 仏師として記念することを躊躇しない。」

そう柳は書いている。

けれども、円空も木喰も
芸術品をつくったわけではない。
人々の苦しみを身代わりになって
背負う、実用品としての仏像。
その造形が美しいとしても、
作者の意図するものでは
必ずしもなかっただろう。

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