noodlepie
ジョン・フルスティックとエドワード・グリーン
エドワード・グリーン。
今でこそイギリス靴の最高峰ブランドだが、
30年ほど前は
多額の負債を抱えて廃業寸前にあった。
その負債を肩代わりして
会社をわずか1ポンドで買い上げたのが
ジョン・フルスティックというシューデザイナー。
彼の改革は、1ポンドからの劇的な再生を実現した。
変化をおそれない一歩が、
廃れかけた伝統を伝説に変えたのだ。
noodlepie
ジョン・フルスティックとエドワード・グリーン
エドワード・グリーン。
今でこそイギリス靴の最高峰ブランドだが、
30年ほど前は
多額の負債を抱えて廃業寸前にあった。
その負債を肩代わりして
会社をわずか1ポンドで買い上げたのが
ジョン・フルスティックというシューデザイナー。
彼の改革は、1ポンドからの劇的な再生を実現した。
変化をおそれない一歩が、
廃れかけた伝統を伝説に変えたのだ。
マイケル・ジャクソンのローファー
1983年、『ビリー・ジーン』で
華麗なムーンウォークを披露したマイケル・ジャクソン。
世界が驚き注目したその足元には、
黒いローファーがあった。
紐もなく、着脱しやすいことから、
「怠け者」という意味で
名付けられたローファー。
その靴底を、
マイケルはダンスのために
なめらかに削って愛用していた。
もちろん靴の工夫だけで
すぐれたパフォーマンスはできない。
マイケルは公演の滞在先でも
ホテルの床にマットを敷き、
ダンスの練習を欠かさなかったという。
ローファーを履いたキング・オブ・ポップは、
決して「怠け者」ではなかった。
ヘンリー五世と靴の聖人
キリスト教にはさまざまな聖人がいるが、
そのなかに「靴を司る」聖人がいる。
聖クリスピンと聖クリスピニアンという双子の兄弟で、
靴づくりをしながらキリストの教えを広めていた。
だから靴づくりの街イギリス・ノーザンプトンでは
聖クリスピンの祝日は、特別な日だ。
だが聖クリスピンの名をいちばん有名にしたのは、
シェークスピアの『ヘンリー五世』だろう。
フランスとの戦いを前に
イギリス国王ヘンリー五世が行った
「聖クリスピンの祝日の演説」は、
さまざまな小説や映画でも引用されている。
長い遠征に疲れ切った兵士たち。
対するフランス軍の兵力は3倍。
それでも王はこう呼びかける。
今日はクリスピンの祝日だ。
きょうを生き延びて無事に祖国へ帰れた者は、
この日が話題になるたびに自分を誇らしく思うだろう。
そして安らかな老後を迎えられた者は、
前夜祭のたび人々に言うだろう。
「明日は聖クリスピンだ!」
そして袖をまくって古傷を見せながら言うのだ。
「この傷は、聖クリスピンの日に受けたものだ」と。
この演説を聞いた兵士たちは奮い立ち、
イギリス軍は劣勢を跳ね返して勝利を収めた。
あなたがもし困難に立ち向かうときは、
靴を見て思い出すといい。
あなたの拠って立つ場所は、
自分自身の足なのだということを。
坂本龍馬の道
坂本龍馬と言えば
紋付袴の着物に革靴を履いた写真が有名だ。
この一風変わった姿に龍馬ファンは
反骨精神の表れだ
とっさの時に動きやすいからだ
西洋に強い憧れを抱いていたのだ
などと想像を巡らす。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に、こんなセリフがある。
英雄とは自分だけの道を歩く奴のことだ
龍馬は自分だけの靴で、自分だけの道を駆け抜けた。
アディ・ダスラーの逆転ゴール
1954年、サッカーワールドカップの決勝戦。
西ドイツチームのベンチに、ひとりの靴職人が座っていた。
対戦相手はハンガリー。
4年間無敗、1試合の平均得点は4点以上と
名実ともに世界最強チームだったハンガリーは
予選から準決勝まで順当に勝ち進んだ。
決勝戦も試合開始後わずか8分で2得点リード。
やはりハンガリーか。
そんなムードが流れるスタジアムで、
ボールや選手ではなく「選手の靴」を見つめていたのは
靴職人ただ一人だったかもしれない。
決勝戦のピッチは大雨の影響でぬかるみ、滑りやすくなっていた。
試合前、靴職人は靴底の金具を長くて固いものに付け替えていた。
その後、西ドイツが2点を入れて同点。
歓喜の瞬間、ハンガリーにとっては最悪の瞬間は、
後半の試合終了間際にやってきた。
雨のピッチでも踏ん張りがきく西ドイツチームの靴が
蹴り込んだ逆転ゴール。
この決勝戦の番狂わせは「ベルンの奇跡」と呼ばれている。
靴職人の名は、アディ・ダスラー。
そう、アディダスの創業者である。
ワールドカップ授与の瞬間、西ドイツの監督は
ベンチに座っていたアディを表彰台にひっぱり上げた。
その優勝写真により、アディとアディの靴はますます有名になり、
ヨーロッパ中から注文が殺到したそうだ。
その試合は、ひとりの靴職人の晴れ舞台であると同時に、
サッカーシューズ新時代のキックオフでもあった。
Schnobby
フィレンツェの子猫・深谷秀隆
1998年。
深谷秀隆は靴職人になるためにイタリアに渡った。
靴の木型と「靴づくりを学びたい」と書いた紙を持って
靴屋を何十軒とまわり、やっと修業先を見つけた。
深谷の作る靴は、今やイタリア最高級。
全て手作りなので週に1足しか作れないが、
40万円以上の値段がつく。
靴工房の名前は「イルミーチョ」。子猫という意味だ。
自由気ままで誰にも媚びない子猫のようでありたいと願う
深谷はこう語る。
急いでも良いものは作れない。
徹底的に良い靴を作らないと意味がない。
ジョセフ・ケネディと靴磨きの少年
ケネディ大統領の父、
ジョセフ・ケネディは投資家だった。
ある日、靴磨きの少年から
株の話をされたジョセフ。
こんな少年まで相場を語るのが
異常だと感じた彼は、
株から手を引き大恐慌を切り抜けたという。
最高の投資とは、
自分の感覚を磨くことだ。
大塚岩次郎と明治天皇の革靴
明治維新後、14歳にして上京。
日本人に合う西洋靴をつくりたい。
その一心で大塚商会を興した大塚岩次郎。
ある日、紳士が岩次郎に靴の修繕を依頼。
イギリス製の靴を見るなり岩次郎は紳士に懇願する。
同じ靴を新たに作って納めるからその靴を分解させて欲しい。
西洋の靴を知るなら今しかない。
常識外れの申し出を拒否する紳士。
それでも諦めずに懇願した結果、
紳士は渋々承諾せざるを得なかった。
靴を分解し、調べ上げ、新品を届けた所、
紳士はイギリス製にも優ると絶賛する。
実はこの人、宮内省の長崎省吾氏であった。
これが縁となり岩次郎は日本人として初めて
明治天皇の革靴製作を拝命する。
若き青年の靴作りへの情熱を、
日本中が知ることになったのだ。
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