ignat.gorazd
濱田廣介 1
童話作家、濱田廣介。
代表作のひとつ、「泣いた赤おに」。
親友の青おには、赤おにのために村を去り、手紙をのこす。
赤おには、だまって、それを読みました。
二ども三ども読みました。
戸に手をかけて顔をおしつけ、しくしくと、
なみだをながして泣きました。
赤おにが、なぜ泣くのかは語らず、
五七調で、歌のように情景を描く。
そのことでいっそう、赤おにの気持ちが
胸に迫る。
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濱田廣介 1
童話作家、濱田廣介。
代表作のひとつ、「泣いた赤おに」。
親友の青おには、赤おにのために村を去り、手紙をのこす。
赤おには、だまって、それを読みました。
二ども三ども読みました。
戸に手をかけて顔をおしつけ、しくしくと、
なみだをながして泣きました。
赤おにが、なぜ泣くのかは語らず、
五七調で、歌のように情景を描く。
そのことでいっそう、赤おにの気持ちが
胸に迫る。
l e o j
濱田廣介 2
童話作家、濱田廣介。
代表作のひとつ、「泣いた赤おに」。
ココロノ ヤサシイ オニノ ウチデス。
ドナタデモ オイデ クダサイ。
オイシイ オカシガ ゴザイマス。
オチャモ ワカシテ ゴザイマス。
人間と友達になることを望んだ赤おにに、
力を貸したのは友達の青おに。
大暴れをして赤おにに退治されるひと芝居を打ったあと、
赤おにへの手紙をのこして消えた。
ドコマデモ キミノ トモダチ アオオニ
ほんとうの友達はすぐそばにいた。
そのことを、失ってから気づく赤おに。
その涙は、自分のおろかさと、人生の残酷さを嘆くばかりではなく、
青おにからおくられた、まるでたからもののようにあたたかい。
濱田廣介 3
童話「泣いた赤おに」の作者、
濱田廣介。
1930年頃、廣介は高野山に参拝したときに、
たまたま「宝物土用干し(たからものどようぼし)」という機会に恵まれ、
ある木彫りの像に出会う。
彼はそのときのことをつづっている。
ある木彫(もくちょう)がわたくしの心をしっかととらえました。(中略)
ひきしまりのある姿態には力があふれ、
まだ年若く、かしこそうな顔つき(中略)
それは鎌倉時代の運慶作の国宝、
八大童子の中のひとり、恵喜童子(えきどうじ)であった。
知恵をめぐらし、その知恵をひとに与えて喜びとする童子(中略)
このような童子をかりて、創作の童話の中に
新しく日本の鬼を生かして書いてみたいと、
ひそかに思い立ちました。(中略)
これまでの鬼に対する考え方を切りかえるという、
いわば一つの革新が果たされなくてはなりません。
赤おにの原点は、赤い仏だった。
それから2、3年後の1933年、
「泣いた赤おに」は「おにのさうだん」という名前で世に発表された。
そこには、まったくあたらしいかたちの、
人間的な魅力あふれる鬼がいた。
この童子像は、六本木・サントリー美術館「高野山の名宝」展で
12月7日まで見ることができる。
運慶と廣介、ふたつの魂がぶつかった瞬間を、体験してみる価値はあるだろう。
濱田廣介 4
童話「泣いた赤おに」の作者、
濱田廣介。
廣介は、言葉を声に出して、歌うように作品を書いたそうだ。
書斎からは、蜂のうなりや、かけ声のように
声が聞こえてきた、と彼の娘が回想している。
ある日、後ろでじっと見ていた娘に気づいて
「う?」と振り返った廣介は、
まだ夢のなかにいる人のような様子で、
またすぐに原稿の中に戻っていった。
彼は、作品の中に生きていた。
そして、今も語りかけてくる。
濱田廣介 5
童話「泣いた赤おに」の作者、
濱田廣介。
彼の娘が回想している。
小学生のころ、一緒に歩くと、
父が、路上に輪を描いて落ちている針金や、
長い棒切れなどを見つけて、すぐに拾い上げ、
道端によけるので、私は、その度に、気恥ずかしい思いがした。
よそゆきの洋服を着てお澄ましの気分で歩いている時も、
それは同じであった。
(中略)
父は一度も、傍らの私たちに、「拾いなさい」と教えたり、
させたりはしなかった。
ただ、ひょいと、かがんで拾い上げ、
道端によせて、
手の汚れを叩くのだった。
道を走ってゆく子どもたちが、
転んだりしないように。
80年の生涯を童話にささげた男の、
スッとのびた背筋が目に浮かぶ。
これが、「グリム童話」「アンデルセン童話」と並び
「ひろすけ童話」と称される作品群を書いた男の、
なにげない日常であった。
濱田廣介 6
童話「泣いた赤おに」の作者、
濱田廣介。
彼の娘は、新聞の取材に応えて回想している。
彼女が高校生だったとき、
先生に言われた。
「きっと、やさしいお父さまなのでしょうね」
母親の苦労も知る彼女は、
「ほんとうにそうかしら」と話していると、
背を向けて聞いていた廣介がぽつりと言った。
「そうではないから、
そうありたいと思うことを書いているんだ。」
廣介の書くストーリーに表現される「やさしさ」は、
現実にはなかなか得られないものをもとめる「願い」そのものだった。
濱田廣介 7
童話「泣いた赤おに」の作者、
濱田廣介(はまだひろすけ)。
中学時代に、母は弟妹をつれて出ていき、
父は破産した。
親戚から悪者扱いされる父だったが、
幼いころから読み書きを教え、
ほしい本を買ってきてくれた父でもあった。
童話「龍の目の涙」の龍。そして、赤おに。
憎まれ者や、通じない善意への
独特な視線をもつようになったきっかけのひとつは、
この頃の境遇だったのではないかと、
彼の娘が回想している。
家庭を持ってからも、廣介は節分のときに、
「福は内」とだけ言って、
「鬼は外」とは言わなかったそうだ。
濱田廣介 8
童話「泣いた赤おに」の作者、
濱田廣介(はまだひろすけ)。
山形県東置賜(おきたま)郡高畠町の生まれ。
今も稲穂のなかに、古墳を思わせる小さな山が点在する
美しい田園の町。
彼が子どものころまでは、
道ばたに腰をおろせる「休み石」というものがあったそうだ。
彼の母校・屋代(やしろ)小学校の庭に、彼の詩を刻んだ記念碑がある。
道ばたの石はいい
いつも青空の下にかがみ
夜は星の花をながめ
雨にぬれても風でかわく
それにだいいち
だれでも腰をかけてゆく
今では道路も広がり、
邪魔物としてとりのぞかれた「休み石」。
廣介はこう記している。
もちろん、それでよいのであるが、
「休み石」にこめられた人間相互の思いやり―
人情までもかなぐり捨ててはならないこと、
これも、もちろんなのである。
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