2016 年 3 月 5 日 のアーカイブ

佐藤延夫 16年3月5日放送

160305-01

相場師の人生 福沢桃介

明治生まれのその男は、農家の6人兄弟の次男坊。
下駄も買えないほど貧しく、
裸足で学校に通っていたという。
ただし頭脳は明晰だった。
9歳のときには、読むことすら難しい漢文を
独自の方法で暗唱し、教師を驚かせたそうだ。
もちろん野心も持っていた。
当時の口癖は、
「1億の金持ちになるのだ」。
明治時代の1億円は、現在では途方もない金額になる。
伝説の相場師、福沢桃介が
まだ岩崎桃介だったころの話だ。

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佐藤延夫 16年3月5日放送

160305-02

相場師の人生 福沢桃介

明治16年。
ある青年は、「学問のすゝめ」を読み、
福沢諭吉に憧れる。
そして慶應義塾に入学した。
成績は優秀。ハンサムな顔立ち。
さらに運動神経もいいとなると
注目を集めないはずもなく、
福沢諭吉夫妻の目に留まる。
次女、房(ふさ)の婿養子にならないかと
誘いを受けた。
だが、当時の恋人は、川上貞奴。
悩む青年に、諭吉はこんな条件を出した。
「養子になれば外国留学させてやる。」
その一言で、決断する。
そして岩崎桃介は、福沢桃介になった。

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佐藤延夫 16年3月5日放送

160305-03

相場師の人生 福沢桃介

福沢諭吉の婿養子となった福沢桃介。
アメリカで鉄道や電気事業を学び、帰国する。
北海道の鉄道会社に入社し、
さらに黒ビールなどを扱う会社を設立。
ビジネスマンと経営者、
どちらも商才を発揮するが
ある日、結核で倒れてしまう。
そして病床でこんな決断をする。
「療養しながら稼げる仕事を始めよう。」
それが相場師になったきっかけだった。
もちろん才覚もあった。
わずか1年で、千円を10万円に増やした。
今の金額では、数億円にもなるという。
兜町の飛将軍と呼ばれるようになっていた。

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佐藤延夫 16年3月5日放送

160305-04

相場師の人生 福沢桃介

事業経営に一番必要なものは、執着である。
反対に、株式相場で執着は禁物。
いつでも見切りよく転換することを心掛け、
一度に全部すくいとることをしてはいけない。

これは相場師、福沢桃介が唱えた、
株式投資で成功する秘訣だそうだ。
実際に、ある会社の株を買い占め、
大暴落する前に売り抜けている。
おそらく運も味方したのだろうが、
見切りの決断が見事だった。
日露戦争後の一時期だけで、
350万の利益を得たという噂も残っている。
当時なら億万長者になれる金額だ。

残念ながら、義理の父、福沢諭吉は
株式や投資など、相場全般が嫌いだったという。

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佐藤延夫 16年3月5日放送

160305-05
相場師の人生 福沢桃介

相場師、福沢桃介は、事業に目覚める。
目をつけたのは水力発電だった。
無尽蔵の資源、水を使ったビジネスというのが
いかにも彼らしい。
電気事業で業績をあげ、電力王と呼ばれるようになった。
ちなみに、福沢桃介が日本で最初に始めたことはあまりに多い。
電力の送電。
ダム式発電所の開発。
外国船のチャーター。
また、学生で一番最初に洋服を着た人物、とも言われている。
生き方そのものが、破天荒だった。

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