相場師の人生 福沢桃介
明治生まれのその男は、農家の6人兄弟の次男坊。
下駄も買えないほど貧しく、
裸足で学校に通っていたという。
ただし頭脳は明晰だった。
9歳のときには、読むことすら難しい漢文を
独自の方法で暗唱し、教師を驚かせたそうだ。
もちろん野心も持っていた。
当時の口癖は、
「1億の金持ちになるのだ」。
明治時代の1億円は、現在では途方もない金額になる。
伝説の相場師、福沢桃介が
まだ岩崎桃介だったころの話だ。
相場師の人生 福沢桃介
明治生まれのその男は、農家の6人兄弟の次男坊。
下駄も買えないほど貧しく、
裸足で学校に通っていたという。
ただし頭脳は明晰だった。
9歳のときには、読むことすら難しい漢文を
独自の方法で暗唱し、教師を驚かせたそうだ。
もちろん野心も持っていた。
当時の口癖は、
「1億の金持ちになるのだ」。
明治時代の1億円は、現在では途方もない金額になる。
伝説の相場師、福沢桃介が
まだ岩崎桃介だったころの話だ。
相場師の人生 福沢桃介
明治16年。
ある青年は、「学問のすゝめ」を読み、
福沢諭吉に憧れる。
そして慶應義塾に入学した。
成績は優秀。ハンサムな顔立ち。
さらに運動神経もいいとなると
注目を集めないはずもなく、
福沢諭吉夫妻の目に留まる。
次女、房(ふさ)の婿養子にならないかと
誘いを受けた。
だが、当時の恋人は、川上貞奴。
悩む青年に、諭吉はこんな条件を出した。
「養子になれば外国留学させてやる。」
その一言で、決断する。
そして岩崎桃介は、福沢桃介になった。
相場師の人生 福沢桃介
福沢諭吉の婿養子となった福沢桃介。
アメリカで鉄道や電気事業を学び、帰国する。
北海道の鉄道会社に入社し、
さらに黒ビールなどを扱う会社を設立。
ビジネスマンと経営者、
どちらも商才を発揮するが
ある日、結核で倒れてしまう。
そして病床でこんな決断をする。
「療養しながら稼げる仕事を始めよう。」
それが相場師になったきっかけだった。
もちろん才覚もあった。
わずか1年で、千円を10万円に増やした。
今の金額では、数億円にもなるという。
兜町の飛将軍と呼ばれるようになっていた。
相場師の人生 福沢桃介
事業経営に一番必要なものは、執着である。
反対に、株式相場で執着は禁物。
いつでも見切りよく転換することを心掛け、
一度に全部すくいとることをしてはいけない。
これは相場師、福沢桃介が唱えた、
株式投資で成功する秘訣だそうだ。
実際に、ある会社の株を買い占め、
大暴落する前に売り抜けている。
おそらく運も味方したのだろうが、
見切りの決断が見事だった。
日露戦争後の一時期だけで、
350万の利益を得たという噂も残っている。
当時なら億万長者になれる金額だ。
残念ながら、義理の父、福沢諭吉は
株式や投資など、相場全般が嫌いだったという。
相場師の人生 福沢桃介
相場師、福沢桃介は、事業に目覚める。
目をつけたのは水力発電だった。
無尽蔵の資源、水を使ったビジネスというのが
いかにも彼らしい。
電気事業で業績をあげ、電力王と呼ばれるようになった。
ちなみに、福沢桃介が日本で最初に始めたことはあまりに多い。
電力の送電。
ダム式発電所の開発。
外国船のチャーター。
また、学生で一番最初に洋服を着た人物、とも言われている。
生き方そのものが、破天荒だった。
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