chidorian
ひらめき 羽生善治その2
突然ですが。
直感とヒラメキの違い、
みなさんはどう考えますか?
プロ棋士、羽生善治の名言をひとつ紹介します。
直感は数多くの戦いをこなし体系的に学ぶうちに、
後天的に養われるもので、説明ができます。
でも、ヒラメキは説明ができません。
なぜか自分でもわからないが、ひらめいたとしかいえません。
つまりひらめきは、
相手が絶対に予測できない一手。
羽生の強さは、
ひらめきにこそ宿っているのかもしれません。
chidorian
ひらめき 羽生善治その2
突然ですが。
直感とヒラメキの違い、
みなさんはどう考えますか?
プロ棋士、羽生善治の名言をひとつ紹介します。
直感は数多くの戦いをこなし体系的に学ぶうちに、
後天的に養われるもので、説明ができます。
でも、ヒラメキは説明ができません。
なぜか自分でもわからないが、ひらめいたとしかいえません。
つまりひらめきは、
相手が絶対に予測できない一手。
羽生の強さは、
ひらめきにこそ宿っているのかもしれません。
ひらめき エドウィン・ランド
子どもの素直な疑問が、ときにひらめきのヒントになる。
科学者であり、発明家でもあるエドウィン・ランドはある日、
娘の写真を撮ってあげた。
1940年代の、スマホなどない時代。
すぐ写真を見たい!とせがむ娘は、ランドに素朴な疑問をぶつけた。
「どうして写真は撮ったらすぐに見れないの?」
その言葉からひらめき、ランドは
写したその場で写真が現像できるインスタントカメラを開発した。
当時は「ランドカメラ」の名で発売されたが、
今では「ポラロイドカメラ」として親しまれている。
ひらめき H.Jハインツ
あのケチャップ会社の生みの親、H.Jハインツ。
1896年のある日、ハインツはニューヨークの電車のなかで
自社の広告をどうしたものかと考えていた。
車内に目をやると、ある靴会社の「21のスタイルの靴」という広告。
ハインツ社の商品にも当てはめてみたらどうだろうとひらめき、
その足ですぐさま印刷屋に駆け込んだ。
そのとき、なぜか「57」という数字が頭から離れず、
一週間後、「57 varieties」というコピーとともにハインツ社の広告が街中を飾った。
100年以上経った今でも、「57 varieties」のフレーズは健在。
実は、ケチャップボトルにも載っているので確認してみては。
ひらめき 加藤和彦
映画『この世界の片隅に』のオープニング曲として
改めて注目が集まった、『悲しくてやりきれない』。
ザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして発売されたこの曲には、
ちょっとした逸話がある。
当初リリース予定だった『インダス河』が発売自粛になったため、
急遽新曲を書くようにと言われたメンバーの一人、加藤和彦。
部屋に閉じ込められ、ギターだけ渡され、
ああもうどうしようもない、となったとき、
ふと『インダス河』のメロディーを譜面に書き、音符を逆に辿ってみた。
そのうちにモチーフが思いつき、10分ほどで曲ができたという。
ひらめきは、物事を逆から見ることで生まれることがある。
…あと、追い込まれることでも。
sıɐԀ ɹǝıʌɐſ
河野芳之助とアメリカザリガニ
きょう5月12日は「ザリガニの日」。
今から約90年前の1927年、
アメリカザリガニが日本に輸入された日だ。
持ち込んだのは、河野芳之肋(かわのよしのすけ)。
当時北米で流行っていた食用ガエルの養殖に取り組んでいた彼は、
カエルの餌としてザリガニに目をつけたのだ。
日本への船旅はザリガニにとって過酷だったようで、
もともと100匹いたのが、
到着したときには20匹になっていたという。
そんな苦労の甲斐なく食用ガエルの養殖は失敗。
不要になったザリガニも川に放たれることとなる。
そして20匹だったアメリカザリガニは、
固有種のニホンザリガニを押し退けて
あっという間に全国へ広がっていった。
いまでは問題とされる「外来種」も、
外から勝手にやって来たわけではない。
私たち人間が連れてきたという事実を忘れてはならない。
秋山徳蔵とニホンザリガニ
パリで修行中の料理人・秋山徳蔵が
日本に呼び戻されたのは、1913年のこと。
大正天皇の即位を祝う晩餐会のために、
彼の腕が必要とされたのだ。
そのメニューの目玉として秋山が考えたのが、
フランスでは高級食材である
ザリガニを使ったポタージュ。
しかし当時入手できるザリガニといえば、
北海道などに生息するニホンザリガニしかない。
しかも来賓客は2000人。
それでも諦めきれなかった秋山は、
なんと北海道の陸軍第七師団にザリガニ捕獲を依頼。
兵士を動員して3000匹ものザリガニを確保した。
晩餐会の真のミッションは、
海外からの来賓を一流のフランス料理でもてなし
日本を一等国と認めさせること。
史上最大のザリガニ捕りは、
国家の威信をかけたプロジェクトだったのだ。
jin
秋山徳蔵とニホンザリガニ
「天皇の料理番」として知られる秋山徳蔵。
大正天皇の即位を祝う晩餐会の料理を任された彼は、
「ザリガニのポタージュ」を出すため、
北海道で陸軍まで動員して3000匹のザリガニを調達した。
そのとき秋山は天皇の避暑に付き従って
栃木県の日光御用邸に滞在していたので、
ザリガニはいったん日光へ送られ
御用邸近くを流れる大谷川(だいやがわ)に
生簀をつくって保管された。
ザリガニたちはひと夏をそこで過ごしたあと、
晩餐会の会場となる京都へと運ばれていった。
時は流れて平成18年。
あるニュースが世の中を驚かせた。
本来は北海道・東北にしか
生息していないはずのニホンザリガニが、
大谷川の支流で発見されたのだ。
さまざまな調査の結果、
発見されたニホンザリガニは
北海道に由来すると結論づけられた。
果たして彼らは、
100年前ポタージュになる運命から逃れた
ザリガニの子孫なのだろうか。
外からの「眼」で再発見した人物である。
秋山徳蔵とニホンザリガニ
1915年。
大正天皇の即位を祝う晩餐会の準備に追われていた
「天皇の料理番」秋山徳蔵を、とんでもない事件が襲う。
食材として北海道から運び込んだ3000匹のザリガニが
ある朝、忽然と消えたのだ。
ザリガニは厨房の生簀で四方を金網で囲まれ、
水道を出しっぱなしの状態にして保管されていた。
厨房には鍵がかけられており、
隣室には大勢の職員が泊まり込んでいる。
いったいどうやって盗まれたのか?
それより深刻なのは、晩餐会をどうするかだ。
3000匹ともなると、代わりを急に確保できるはずもない。
さすがの秋山も青ざめた。
しかし数時間後、事件は思わぬかたちで解決する。
職員のひとりが荷物の陰に隠れていたザリガニを発見。
ほかの荷物も持ち上げて確認させると、いるわ、いるわ。
ほぼすべてのザリガニが回収された。
明らかになった真相は、こうだ。
厨房の隣室で寝ていた職員が、
水道の音がうるさいと蛇口にふきんを垂らした。
ザリガニはそれを伝って生簀から逃げ出したのだ。
かくしてザリガニたちの大脱走は失敗に終わり、
おいしいポタージュとなって晩餐会を大成功に導いた。
内田亨とウチダザリガニ
日本には、アメリカザリガニ以外にも
外来種のザリガニがいる。
北海道などに生息する「ウチダザリガニ」だ。
アメリカから食用として持ち込まれ、
摩周湖では1930年に476匹が放流された記録がある。
それが野生化して定着した。
外来種なのに和風の名前なのは、
北海道大学で系統分類学の基礎を築いた
生物学者・内田亨にちなむ。
命名者が内田に敬意を表して
「ウチダザリガニ」という和名にしたのだ。
のちのちまで人々に親しまれることを願って。
ところがその願いは叶わなかった。
時代が変わり、外来種は生態系を破壊する危険な存在と
見なされるようになったからだ。
外来種を持ち込んだのも、駆除するのも、
すべて人間が決めたこと。
環境の問題は、いつだって人間の問題だ。
「日本美の再発見・ブルーノ タウト」来日
2008年、ベルリンの共同集合住宅が
ユネスコ世界文化遺産になった。
それを手がけた建築家、ブルーノ タウト。
1880年東プロイセン、ケーニヒスベルク生まれ。
ドイツ各地で都市計画や集合住宅を手がけ、
世界的建築家へと踏み出す直前、
ナチスからあらぬ嫌疑をかけられ日本へ逃れてきた。
1933年のことだった。
やや近づくと緑の山々。
細雨が静かに降り、なにもかもが灰色におおわれる。
それからまた緑の色、前に入り江が横たわり
そのうしろには明るい空、松の生えた島。
日本の美しさを
外からの「眼」で再発見した人物である。
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