2018 年 5 月 のアーカイブ

森由里佳 18年5月13日放送

180513-05
chidorian
ひらめき 羽生善治その2

突然ですが。

直感とヒラメキの違い、
みなさんはどう考えますか?

プロ棋士、羽生善治の名言をひとつ紹介します。

 直感は数多くの戦いをこなし体系的に学ぶうちに、
 後天的に養われるもので、説明ができます。
 でも、ヒラメキは説明ができません。
 なぜか自分でもわからないが、ひらめいたとしかいえません。

つまりひらめきは、
相手が絶対に予測できない一手。

羽生の強さは、
ひらめきにこそ宿っているのかもしれません。

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佐藤日登美 18年5月13日放送

180513-06

ひらめき エドウィン・ランド

子どもの素直な疑問が、ときにひらめきのヒントになる。

科学者であり、発明家でもあるエドウィン・ランドはある日、
娘の写真を撮ってあげた。
1940年代の、スマホなどない時代。
すぐ写真を見たい!とせがむ娘は、ランドに素朴な疑問をぶつけた。
「どうして写真は撮ったらすぐに見れないの?」

その言葉からひらめき、ランドは
写したその場で写真が現像できるインスタントカメラを開発した。
当時は「ランドカメラ」の名で発売されたが、
今では「ポラロイドカメラ」として親しまれている。

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佐藤日登美 18年5月13日放送

180513-07

ひらめき H.Jハインツ

あのケチャップ会社の生みの親、H.Jハインツ。
1896年のある日、ハインツはニューヨークの電車のなかで
自社の広告をどうしたものかと考えていた。
車内に目をやると、ある靴会社の「21のスタイルの靴」という広告。
ハインツ社の商品にも当てはめてみたらどうだろうとひらめき、
その足ですぐさま印刷屋に駆け込んだ。
そのとき、なぜか「57」という数字が頭から離れず、
一週間後、「57 varieties」というコピーとともにハインツ社の広告が街中を飾った。

100年以上経った今でも、「57 varieties」のフレーズは健在。
実は、ケチャップボトルにも載っているので確認してみては。

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佐藤日登美 18年5月13日放送

180513-08

ひらめき 加藤和彦

映画『この世界の片隅に』のオープニング曲として
改めて注目が集まった、『悲しくてやりきれない』。
ザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして発売されたこの曲には、
ちょっとした逸話がある。

当初リリース予定だった『インダス河』が発売自粛になったため、
急遽新曲を書くようにと言われたメンバーの一人、加藤和彦。

部屋に閉じ込められ、ギターだけ渡され、
ああもうどうしようもない、となったとき、
ふと『インダス河』のメロディーを譜面に書き、音符を逆に辿ってみた。
そのうちにモチーフが思いつき、10分ほどで曲ができたという。

ひらめきは、物事を逆から見ることで生まれることがある。
…あと、追い込まれることでも。

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永久眞規 18年5月12日放送

180512-01
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河野芳之助とアメリカザリガニ

きょう5月12日は「ザリガニの日」。
今から約90年前の1927年、
アメリカザリガニが日本に輸入された日だ。

持ち込んだのは、河野芳之肋(かわのよしのすけ)。
当時北米で流行っていた食用ガエルの養殖に取り組んでいた彼は、
カエルの餌としてザリガニに目をつけたのだ。

日本への船旅はザリガニにとって過酷だったようで、
もともと100匹いたのが、
到着したときには20匹になっていたという。

そんな苦労の甲斐なく食用ガエルの養殖は失敗。
不要になったザリガニも川に放たれることとなる。
そして20匹だったアメリカザリガニは、
固有種のニホンザリガニを押し退けて
あっという間に全国へ広がっていった。

いまでは問題とされる「外来種」も、
外から勝手にやって来たわけではない。
私たち人間が連れてきたという事実を忘れてはならない。

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藤本宗将 18年5月12日放送

180512-02

秋山徳蔵とニホンザリガニ

パリで修行中の料理人・秋山徳蔵が
日本に呼び戻されたのは、1913年のこと。
大正天皇の即位を祝う晩餐会のために、
彼の腕が必要とされたのだ。

そのメニューの目玉として秋山が考えたのが、
フランスでは高級食材である
ザリガニを使ったポタージュ。

しかし当時入手できるザリガニといえば、
北海道などに生息するニホンザリガニしかない。
しかも来賓客は2000人。
それでも諦めきれなかった秋山は、
なんと北海道の陸軍第七師団にザリガニ捕獲を依頼。
兵士を動員して3000匹ものザリガニを確保した。

晩餐会の真のミッションは、
海外からの来賓を一流のフランス料理でもてなし
日本を一等国と認めさせること。
史上最大のザリガニ捕りは、
国家の威信をかけたプロジェクトだったのだ。

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藤本宗将 18年5月12日放送

180512-03
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秋山徳蔵とニホンザリガニ

「天皇の料理番」として知られる秋山徳蔵。
大正天皇の即位を祝う晩餐会の料理を任された彼は、
「ザリガニのポタージュ」を出すため、
北海道で陸軍まで動員して3000匹のザリガニを調達した。

そのとき秋山は天皇の避暑に付き従って
栃木県の日光御用邸に滞在していたので、
ザリガニはいったん日光へ送られ
御用邸近くを流れる大谷川(だいやがわ)に
生簀をつくって保管された。
ザリガニたちはひと夏をそこで過ごしたあと、
晩餐会の会場となる京都へと運ばれていった。

時は流れて平成18年。
あるニュースが世の中を驚かせた。
本来は北海道・東北にしか
生息していないはずのニホンザリガニが、
大谷川の支流で発見されたのだ。

さまざまな調査の結果、
発見されたニホンザリガニは
北海道に由来すると結論づけられた。
果たして彼らは、
100年前ポタージュになる運命から逃れた
ザリガニの子孫なのだろうか。
外からの「眼」で再発見した人物である。

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藤本宗将 18年5月12日放送

180512-04

秋山徳蔵とニホンザリガニ

1915年。
大正天皇の即位を祝う晩餐会の準備に追われていた
「天皇の料理番」秋山徳蔵を、とんでもない事件が襲う。
食材として北海道から運び込んだ3000匹のザリガニが
ある朝、忽然と消えたのだ。

ザリガニは厨房の生簀で四方を金網で囲まれ、
水道を出しっぱなしの状態にして保管されていた。
厨房には鍵がかけられており、
隣室には大勢の職員が泊まり込んでいる。
いったいどうやって盗まれたのか?

それより深刻なのは、晩餐会をどうするかだ。
3000匹ともなると、代わりを急に確保できるはずもない。
さすがの秋山も青ざめた。

しかし数時間後、事件は思わぬかたちで解決する。
職員のひとりが荷物の陰に隠れていたザリガニを発見。
ほかの荷物も持ち上げて確認させると、いるわ、いるわ。
ほぼすべてのザリガニが回収された。

明らかになった真相は、こうだ。
厨房の隣室で寝ていた職員が、
水道の音がうるさいと蛇口にふきんを垂らした。
ザリガニはそれを伝って生簀から逃げ出したのだ。

かくしてザリガニたちの大脱走は失敗に終わり、
おいしいポタージュとなって晩餐会を大成功に導いた。

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藤本宗将 18年5月12日放送

180512-05

内田亨とウチダザリガニ

日本には、アメリカザリガニ以外にも
外来種のザリガニがいる。
北海道などに生息する「ウチダザリガニ」だ。

アメリカから食用として持ち込まれ、
摩周湖では1930年に476匹が放流された記録がある。
それが野生化して定着した。

外来種なのに和風の名前なのは、
北海道大学で系統分類学の基礎を築いた
生物学者・内田亨にちなむ。
命名者が内田に敬意を表して
「ウチダザリガニ」という和名にしたのだ。
のちのちまで人々に親しまれることを願って。

ところがその願いは叶わなかった。
時代が変わり、外来種は生態系を破壊する危険な存在と
見なされるようになったからだ。

外来種を持ち込んだのも、駆除するのも、
すべて人間が決めたこと。
環境の問題は、いつだって人間の問題だ。

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大友美有紀 18年5月6日放送

180506-01

「日本美の再発見・ブルーノ タウト」来日

2008年、ベルリンの共同集合住宅が
ユネスコ世界文化遺産になった。
それを手がけた建築家、ブルーノ タウト。
1880年東プロイセン、ケーニヒスベルク生まれ。
ドイツ各地で都市計画や集合住宅を手がけ、
世界的建築家へと踏み出す直前、
ナチスからあらぬ嫌疑をかけられ日本へ逃れてきた。
1933年のことだった。

 やや近づくと緑の山々。
 細雨が静かに降り、なにもかもが灰色におおわれる。
 それからまた緑の色、前に入り江が横たわり
 そのうしろには明るい空、松の生えた島。

日本の美しさを
外からの「眼」で再発見した人物である。

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