山田耕筰 声楽科
「赤とんぼ」「ペチカ」などの童謡で知られる山田耕筰は
東京音楽大学の声楽科を卒業している。
本当は作曲の道へ進みたかったのに
その当時、学校には作曲を担当できる教官がおらず
しかたなしに声楽科を選んだらしい。
「声楽なんか好きじゃなかった」という本人の言葉も
伝えられている。
その山田耕筰が、日本の歌曲の先駆者となり、
600を超える声楽の曲を作曲したのだから不思議だ。
ちなみに1908年の卒業演奏で
山田耕筰はバリトンでシューベルトの「菩提樹」を
歌った。
山田耕筰 声楽科
「赤とんぼ」「ペチカ」などの童謡で知られる山田耕筰は
東京音楽大学の声楽科を卒業している。
本当は作曲の道へ進みたかったのに
その当時、学校には作曲を担当できる教官がおらず
しかたなしに声楽科を選んだらしい。
「声楽なんか好きじゃなかった」という本人の言葉も
伝えられている。
その山田耕筰が、日本の歌曲の先駆者となり、
600を超える声楽の曲を作曲したのだから不思議だ。
ちなみに1908年の卒業演奏で
山田耕筰はバリトンでシューベルトの「菩提樹」を
歌った。
関西学院大学
山田耕筰 校歌
駒澤大学、関西学院大学、武蔵野美術大学
これらの大学に共通するものがある。
それは、作詞北原白秋、作曲山田耕筰の校歌だ。
山田耕筰は小学校から大学まで、
全国の学校の校歌を数多く作曲した。
そのうちのおよそ100曲が北原白秋と組んだものだった。
関西学院大学では山田耕筰の直筆の楽譜を
いまも大切に保管している。
Akira
山田耕筰 からたちの花
北原白秋作詞、山田耕筰作曲「からたちの花」
山田耕筰は、これをもっともむづかしい曲の一つに数え、
その歌いかたを細かく指示しているほどだ。
「からたち」の「か」をやや抑えて漸弱(ぜんじゃく)し
「らたち」はむしろ軽く流すようにする。
叙事は淡々と、叙情は切実に。
からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ
山田耕筰の指示を読むと
この二行を歌うむづかしさがわかる。
DX Broadrec
山田耕筰 甲子園
夏の甲子園。
選手の入場のときに使われる行進曲は
山田耕筰が作曲している。
この曲ができた1935年、
山田耕筰は甲子園で150人の学生ブラスバンドを率いて
自ら指揮棒を振った。
当時の新聞記事によると
山田耕筰はこのとき、
握力が余って指揮棒を曲げてしまったそうだ。
49歳の力強い指揮だったのだろう。
山田耕筰 パブリックドメイン
山田耕筰といえば、「赤とんぼ」「ペチカ」などの童謡や
「からたちの花」に代表される歌曲がよく知られているが、
実は管弦楽曲も多く作曲している。
しかし残念ながら出版されていないものが多く、
自筆の楽譜は戦災で焼け、
筆写譜しか残されていないという状况では
出版も演奏もむづかしかった。
2015年、
山田耕筰の全作品は著作権の保護期間が満了した。
パブリックドメインの山田耕筰。
いまは日本人すべての知的財産として誰でも自由に
山田耕筰の作品を公開できる。
山田耕筰は1886年の今日、生まれた。
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