2018 年 12 月 30 日 のアーカイブ

厚焼玉子 18年12月30日放送

181230-01

年末初演の物語

もし、あなたが
新作のオペラ、またはシンフォニーを
パリまたはウイーンで初演することになったら、
どんな時期を選ぶだろう。
ブラームス、ブルックナー、プロコフィエフが
選んだ日は12月30日だった。

なぜなら、夏は市民がバカンスに行ってしまう。
貴族はカントリーハウスに引き揚げ、
年末の社交シーズンの始まるころに
やっと街に戻って来たからだ。

やっぱり、人で賑わい、
ニューイヤーを前に浮きたつ街が
名曲の初演にふさわしい。

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厚焼玉子 18年12月30日放送

181230-02

年末初演の物語

ブラームスの交響曲第2番の初演は
1877年12月30日、
ハンス・リヒター指揮のウイーンフィルによる演奏だった。

交響曲1番は構想から21年という歳月がかかったが、
2番はオーストリアの南にある湖畔の町で
ひと夏を過ごす間に完成させている。

あの重厚な1番を完成させた開放感か、
それとも湖の明るさの影響か、
交響曲2番は伸びやかで快活だ。

1877年12月30日、
この初演を聴いた聴衆は拍手喝采し、
第三楽章をアンコールした。

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厚焼玉子 18年12月30日放送

181230-03

年末初演の物語

ブルックナーの交響曲第7番は
はじめて初演が成功した交響曲として知られる。

ちなみに1番の初演は1868年、
3番は1877年だったが、
演奏会が終わったときに観客がほとんど残っていなかった。
6番は1883年、二楽章と三楽章だけが演奏された。
このときブルックナーはすでに59歳だった。

そしてやっと7番である。
1884年12月30日、
60歳のブルックナーは、はじめて好評のうちに初演を終え、
シンフォニーの作曲家として
老年のデビューを果たすことができたのだ。

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厚焼玉子 18年12月30日放送

181230-04

年末初演の物語

1905年、12月30日。
フランツ・レハールは
オペレッタ「メリーウイドウ」の初演成功で
一躍人気作曲家になった。
同時に20世紀とともにはじまった
「オペレッタの銀の時代」を代表する作曲家になった。

オペレッタはオペラより大衆的で
コミカルなハッピーエンドなストーリーが多い、
たぶんそのせいだろう、
フランスの巨匠グスタフ・マーラーは
メリーウイドウを見に劇場へ行くのが気恥ずかしく、
楽譜店で楽譜を買っただけだったそうだ。

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厚焼玉子 18年12月30日放送

181230-05

年末初演の物語

プロコフィエフのオペラ「三つのオレンジへの恋」は
1921年12月30日、シカゴ歌劇場で初演された。
プロコフィエフはその3年前、
革命のふるさとロシアを捨て、アメリカへの亡命を決意した。

1918年の5月、彼は日本の敦賀港に着いた。
それから8月2日に日本を離れるまで
東京、京都、奈良などに滞在した。
プロコフィエフは日本滞在中、
毎日日記をつけていた。

1918年6月16日の日記には
「三つのオレンジへの恋」を読み直した。
オペラにするというアイデアが気に入った。」と
書かれている。

そのときプロコフィエフは京都にいた。

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厚焼玉子 18年12月30日放送

181230-06
Photo by Roger & Renate Rössing
年末初演の物語

完成から初演まで、25年もかかった交響曲がある。
ショスタコビッチの交響曲第4番だ。
完成は1936年だったが、
粛清の嵐が吹き荒れる当時の政治状況を鑑みて
初演の予定をショスタコビッチ自身が取りやめた。

1961年12月30日
モスクワフィルハーモニーによる演奏で
ショスタコビッチの交響曲第4番は初演された。

すでに紛失していたスコアを復元したのは
指揮者のキリル・コンドラシンだった。

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厚焼玉子 18年12月30日放送

181230-07

年末初演の物語

1844年、12月30日、ハンブルグのオペラ劇場で
フリードリヒ・フォン・フロトー作曲のオペラ
「アレッサンドロ・ストラデッラ」が初演された。

アレッサンドロ・ストラデッラは実在の人物で、
イタリアのバロック音楽の作曲家。
王室にも出入りし、精力的に作曲もしたが
その一方で教会の資金を使い込んだり、
貴族の愛人と駆け落ちしたり
放蕩の限りを尽くし、殺し屋の手にかかって死んだ。

こんな無茶苦茶な人生もオペラになると美化されてしまうが、
このオペラは大成功をおさめたそうだ。

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厚焼玉子 18年12月30日放送

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年末初演の物語

ところで、ベートーベンの交響曲第9番、通称「第九」は、
なぜ年末に演奏されるのだろう。

調べてみると、日本で年末と第九が結びついたのは
日本交響楽団が1947年12月に
三日連続の第九コンサートを開いたのがきっかけらしい。
このコンサートは絶賛を持って迎えられ、
戦後の混乱期のオーケストラにとってはありがたい臨時収入になった。

さらにアマチュア合唱団が第九を歌いはじめると、
出演者の家族や友人も足を運び、
ますます年末の第九が定着した。

ちなみにベートーベンの祖国ドイツでは
年末に第九を演奏する習慣はない。

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