Jessica Quezada
雛祭りの話
3月3日は雛祭り。
現在のように、
美しい衣装をまとった男雛と女雛が
並んで座る形になったのは、
江戸時代中期あたりと言われている。
そのルーツのひとつが、ひひな遊び。(ひいな)
ままごとの一種なので、
季節など関係なく日常的に行われた。
衣装は紙で作られ、
お祓いのヒトガタのような形だった。
内裏雛の姿は平安貴族をイメージさせるが、
雛祭りの歴史は、意外と浅い。
Jessica Quezada
雛祭りの話
3月3日は雛祭り。
現在のように、
美しい衣装をまとった男雛と女雛が
並んで座る形になったのは、
江戸時代中期あたりと言われている。
そのルーツのひとつが、ひひな遊び。(ひいな)
ままごとの一種なので、
季節など関係なく日常的に行われた。
衣装は紙で作られ、
お祓いのヒトガタのような形だった。
内裏雛の姿は平安貴族をイメージさせるが、
雛祭りの歴史は、意外と浅い。
雛祭りの話
雛祭りのルーツを探る研究は、
江戸時代から行われている。
1815年に発行された「骨董集」では、
「宇津保物語」、「蜻蛉日記」、「枕草子」などの書物から
ひひな遊びの記述を紹介している。
「源氏物語」では、
若紫がたくさんの道具を部屋中に広げ、
ひひな遊びに夢中になっている様子が描かれている。
そして、
「十にあまりぬる人は、ひひな遊びは忌みはべるものを。」
と、少納言にたしなめられる。
現代の年中行事が、まだ子どもの遊びだったころの話。
雛祭りの話
まだ、雛祭りと呼ばれる前。
ひひな(ひいな)遊びが3月3日になったのは、
江戸時代よりも前と言われている。
貴族社会でのみ行われる行事として根づきつつあったが、
それは正式なものではなく、
節句の中のおまけのような扱いだったようだ。
ひひな遊びを年中行事に決めたのは、
公家ではなく武家という説もある。
江戸幕府は、3月3日を含む五節供を
公式儀礼の日と定め、祝いの儀式が執り行われた。
それをきっかけにひひな遊びは、
一般社会に浸透していったと思われる。
人に歴史あり。雛にも歴史あり。
雛祭りの話
貴族から武家へ。
そして町人に伝わっていった雛祭りだが、
雛人形や雛道具は、
次第に華々しく派手なものに変わっていく。
江戸幕府は、度を超えた贅沢を禁止するお触れをたびたび出した。
たとえば、
人形は八寸以上の大きさにしてはいけない。
八寸というのはおよそ24センチ。
道具も、蒔絵など贅沢なものを作ってはいけない。
物差しを持った役人に、
多くの雛人形が摘発されたそうだ。
お内裏様もさぞ驚いたことだろう。
雛祭りの話
江戸時代の雛人形は、
いくつかのスタイルに分けられる。
まずは次郎左衛門雛。
公家や上級の武家に重用された、
由緒正しき雛人形だ。
そして町民の間に広まったのは、
寛永雛と享保雛。
シンプルな寛永雛が進化し、
享保雛は、女雛の袴がふっくらとしている。
金襴や錦などの上質な織物が使用されたものもあるという。
ちなみに、寛永、享保とも製作年代を意味するわけではなく、
便宜的に名付けられたそうだ。
雛人形の進化は、まだまだ続く。
t-miki
雛祭りの話
18世紀の中頃になると、
雛人形界に新たなブランドが誕生する。
それが有職雛だ。
これまでの丸顔、卵型のような
デフォルメされた人形とは異なり、
髪型、衣装の形式、色柄など
公家礼式を忠実に再現している。
公家の位や年齢、季節によっても衣装は異なり、
これらが着せ替えできる人形もあるそうだ。
上級の公家だけが楽しめる、
まさに雅な雛遊び。
どんな時代でも、
人々はリアルを求める。
雛祭りの話
18世紀の中頃まで、
雛人形の多くは京都で作られた、
いわゆる「京雛」だったそうだ。
江戸の業者は、事前に京都の問屋に注文しておく、
という流通ルートができあがっていた。
しかし、幕府から贅沢な雛人形を禁ずるお触れが出ると、
江戸のマーケットを争う新勢力が現れる。
京都を代表する人形師、井筒屋小左衛門と鍵屋吉右衛門。
そして、幕府の御用をつとめた雛屋次郎左衛門。
流行り廃りの波に揉まれながら、
新興勢力との覇権争いは続いた。
雛人形も、ハードボイルドだ。
グルメと旅
雛祭りの話
18世紀の終わりごろ、
江戸で流行したのは、古今雛だ。
目にガラスをはめ込み、写実的な表情。
女雛の袖には美しい刺繍が施された。
そして芥子雛というミニチュアの雛人形。
幕府の規制をくぐり抜けるために作られた。
小さくて上質なものが富裕層の人気を集めたという。
今年の雛祭りは、
男雛、女雛の顔をじっくり眺めてみよう。
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