坂本和加 10年05月08日放送
かつてココ・シャネルが、
下着素材のジャージで
動きやすいドレスを作ったように。
いつの時代も、働く女性は、
ファッションを変え、
モードを生む。
越原春子もそのひとり。
大正時代、女学校設立のために
ひどく多忙な日々を送っていた越原は、
ある日、長すぎる帯を
ばっさりと切った。
正装ではなく普段使いの、短めの帯。
名古屋帯は、そうして生まれた。
この帯が、その後一般化したのは、
簡略化されても、その美しさが
損なわれていなかったからだろう。
美しく、ときに大胆に。
働く女性はいまも昔も、変わらない。
着物で、でかけたい。
けれど着物って、面倒なルールが
きっとたくさんあるんでしょう?
と言うひとがいる。
明治に生まれ、
前衛的なデザインや着こなしを
着物に提案しつづけた宇野千代は、
こんな風に言っている。
着るもののことで
いっぺん笑われたら、
あとは笑われた者の得。
昭和32年、宇野千代は、
アメリカで着物ショーを行った。
足元にヒール。モデルたちの
しなやかな身体のラインを
隠さず活かした着物姿の
なんと、斬新なことか。
着物はその人らしく楽しめばいい。
宇野千代は、いいお手本を
私たちに教えてくれている。
アンティーク着物が、
若い女性の間で人気だ。
なかでも、大正から昭和初期の、
銘仙と呼ばれる着物が。
はじめ、銘仙は、
例えるならジーンズのような
カジュアルな普段着だった。
それがアールヌーボーと融合し、
華やかな大正ロマンの代名詞になった。
大流行した銘仙の反物は、
1億反も売れた。
水谷八重子は
そんな時代に生きた女優。
駆け出しの頃は、
銘仙のイメージガールもやった。
けれど戦後、洋服の時代がやってきて、
気づけばあれほどあった着物は
箪笥からあとかたもなく消えていた。
水谷八重子は、
そのことを、こんなふうに回顧する。
日本人特有の、あの細やかな
つつましさをも、捨てた自分に気がついた。
20世紀を代表するフランスの画家、
バルテュスは少年時代から
東洋的なものを
こころから愛した。
日本人形との出会いは、14才。
その息をのむ美しさに驚いた。
つぎの出会いは、59才。
こんどは本物の日本人形、
当時二十歳の学生だった節子を
見初め、妻にむかえた。
バルテュス自身もよく着物を着た。
日本人は、反物や帯に、
あらゆるものを文様化する。
バルテュスは、その鋭い感性を
高く評価していたのだ。
着物を着るひとが少なくなって久しい。
その感性が、いま鈍ってやしないか。
感性は身につけるもの。
バルテュスも言っている。
日本人には、着物がいちばん美しい。
着物は、風で、洗うもの。
だからこそ和服は
傷みにくく、昔から
世代を超えて
受け継ぐものだった。
東京下町生まれの作家、
幸田文もまた、
着物をよく愛した。
娘の青木玉は、
そのほとんどを継いだ。
文のいくつかの着物は、
ほどかれ、こんどは風でなく水に洗われて、
色を染め直され、生まれ変わった。
幸田文は、粋で個性的に
着物を着こなす洒落人だった。
だから玉には着こなせないと
思うものも多かった。
けれど、そこは親子。
文の着物は年を重ねた玉に、似合うようになる。
それも着物の、おもしろさ。
ビルにはさまれた東京で。
「トントンからり」と聞こえてくる。
それは、
着物の反物の織り職人、
よしだみほこさんの
仕事部屋からやってきた音。
わたしのつくりたいものは
着る人のほしいものの、中にある。
だから、織るものに
なるべくわたしを入れたくない。
そう、きっぱりと言う
みほこさんから生まれた反物は、
やさしい、檸檬畑の風のよう。
きょうもまた、「トントンからり」。
じんざもみ、きくじん、
なつむしいろに、ひわいろ。
日本の色の表現は、
数百種と言われるけれど、
そのほとんどは、
平安の時代に生まれた。
清少納言は枕草子に、
着物の色あわせについて
宮中でのやりとりを
にぎやかに、書いている。
春先、紅梅の上着のインナーには、紫。
でももう、萌黄の季節かしら。と。
みな着物を来ていた時代に、
そのひとのセンスや品を
伝えるのは色だった。
ときには色で、こころを伝えた。
ひとのこころは、複雑なもの。
着物と共に生まれ、
伝えられてきた色を思うと、
その数の多さも、わかる気がする。