藤本組・福宿桃香‬

福宿桃香 16年4月9日放送

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たまごの話「アルビン・カイランの卵料理」

ふわふわのマッシュポテトを瓶に入れ、
上から生卵をのせて、湯せんすること5分。
半熟になった卵とポテトを一気に混ぜたら
焼きたてのパンにのせ、かぶりつく。

あたらしい卵料理として人気を集めている「エッグスラット」。
ブームは、ロサンゼルスの小さな屋台、
その名も「エッグスラット」から始まった。

オーナーのアルビン・カイランは、幼い頃から卵が大好きだった。
エッグスラットを思いついたのは、料理学校時代。
「瓶をつかったレシピ」という課題を出され、
大好物の卵を使いたいと考え抜いたそうだ。

卵に情熱を注ぐ彼は、朝食にも情熱を注ぐ。
ロスで店を始めたのも、現地の朝食に疑問を抱いたからだ。
平日は、出勤途中にドライブスルーで済ませてしまう。
休日は、巨大な甘いパンケーキばかり。

そんな状況を見て、カイランはこう語った。

 流行の最先端の、真逆を追い続けたい。
 そこに正しいやり方と正確な技術があれば、
 人はいちばんシンプルな料理にちゃんと感動できる。

本当に良い朝食を届けるために。
卵を片手に、彼の挑戦はつづく。

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福宿桃香 15年12月12日放送

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ケーキの話 ドリー・バードン・ケーキ

イギリスの国民的作家、チャールズ・ディケンズ。

彼の著書『バーナビー・ラッジ』がきっかけで、
19世紀、ひとつのケーキが誕生した。

それが、ドリー・バードン。
砂糖漬けのドライフルーツを散りばめた、
カラフルで、大きなケーキ。

『バーナビー・ラッジ』に登場する
華やかなドレスを着た女の子、
その名もドリー・バードンに触発された読者が
考案したそうだ。

ドリー・バードンはその後ひとりでに広まり、
今では、ドレスを着た人形の形のバースデーケーキは
総じて「ドリー・バードン・ケーキ」と呼ばれている。

「笑いと上機嫌ほどうつりやすいものもこの世にない。」

そう語っていたディケンズがこのことを知ったら、
とても喜んだに違いない。

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福宿桃香 15年12月12日放送

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mezzoblue
ケーキの話 ピエスモンテ

アメリカやイギリスにおいて、
ケーキは昔から、特別な日の家庭料理だ。
母親が自己流のアレンジを加え、
家ごとにそれぞれのケーキが出来上がる。

フランスのケーキは違う。
ケーキ作りは専門職であり、
味、形、飾りつけの果物の数まで、
決められたレシピに従って仕上げることが
最も重要とされている。

レシピのほとんどは、
18世紀・19世紀の菓子職人達によって生み出された。

彼らの頂点にいたのが、アントナン・カレーム。
エクレアやムースなど、彼が考案したケーキは数えきれない。

カレームの最大の功績は、
ピエスモンテと呼ばれるデコレーションケーキ。
クリームやアイシングを建築物のように高く積み上げる、
いまや結婚式に欠かせない、あのケーキである。

類まれなる創造性でケーキを創り続けた彼は、
生前こう語っていた。

「芸術には五種類ある。絵画、彫刻、詩、音楽、建築。
 そこから分かれた大きな枝が菓子だ。」

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福宿桃香 15年8月22日放送

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あるオタクの話 嶺脇育夫

タワーレコード社長、嶺脇育夫。
女性アイドルについて検索すると、必ず彼の名前に辿り着く。

CDショップに入社した理由は、洋楽が好きだったから。
ところが、たまたまテレビで見たモーニング娘。にハマり、
ありとあらゆるアイドルにのめりこんだ。

嶺脇は、周りのスタッフがアイドルというジャンルに対して
意識を向けていないことに不満を持った。

誰もやらないなら、自分がアイドルを売り出すしかない。

今では当たり前となった店舗内でのアイドルイベントの
仕組みを作り出したのは、彼だ。

現場での積極的な活動は評価され、社長に就任。
その数ヶ月後にはなんと、T-Palette Records
というアイドル専用レーベルまで立ち上げた。

「やっぱり売る側が好きだって言わないと、
 お客さまにも届かない。僕でよければ
 アイドルがどんなに好きかってことを語りますよ」

彼は、アイドルオタクにとっても
アイドルにとっても、希望だ。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ①

2015年5月2日、ひとりのバレリーナがこの世を去った。
彼女の名は、マイヤ・プリセツカヤ。
「20世紀最高のバレリーナ」と呼ばれた、伝説のダンサーだった。

生まれ持った運動能力とカリスマ性を考えれば、
プリセツカヤがバレエの道を進むことは、必然だったといえる。
彼女は、生後8ヶ月で歩き始めた。
誰に教わるでもなく爪先立ちで歩き回るようになり、
靴に穴が開くまで踊り騒いだという。
見かねた両親に連れられて行ったバレエ学校の試験では、
彼女が披露した1回のお辞儀に審査員が魅了され、合格となった。

天性の素質が開花した彼女の勢いは止まらない。
バレエの知識も経験も持たずに入学してきた少女は
卒業試験を満点で合格。
世界5大バレエ団のひとつ・ボリショイバレエの一員となった。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ②

20世紀最高のバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤ。
最高のバレリーナと呼ばれる所以は、
最高のパフォーマンスを、どんな時でも、見せてくれたからに他ならない。

フィレンツェで、「かもめ」という演目を踊ったときのこと。
左足の指を骨折していた彼女は、
1時間かけて塩化エチルで指を麻痺させ、いつもどおりに舞台へ立った。

すさまじいまでの忍耐強さが培われたのは、
スターリンの支配下で暮らした幼少期。
父親が処刑され、母親と弟が収容所へ連れていかれた絶望の中でさえも、
彼女は踊ることをやめなかった。
家族の分まで踊らなければ。それが自分の使命だと信じていた。

晩年、彼女はこんな言葉を残している。
「どんな場所にいても、なぜそこにいるのかがわかっていなければならない」
多くの人に支えられて舞台に立てる幸せと責任を、生涯忘れなかったのだろう。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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www.kremlin.ru
マイヤ・プリセツカヤ③

スターバレリーナとして、
80歳を過ぎても踊りつづけたマイヤ・プリセツカヤ。

日本との関係は非常に深かった。
公演のためにたびたび来日していた現役時代はもちろん、
引退後も日本の若手を育成するべく、何度も足を運んだ。

宝塚歌劇団の公演「王家に捧ぐ歌」では、
彼女が自らミュージカルの振付を担当している。
稽古の日に合わせて来日し、
檀れいや湖月わたる、安蘭けいをはじめ
当時のトップダンサー達に厳しく指導をした。

魂と心と技術が一体にならないと、美しさは生まれない。
彼女の教えを、日本のダンサーたちは今も覚えている。
日本の芸術への貢献をたたえて、
黒澤明やオスカー・ピーターソンにつづき88人目となる
高松宮殿下記念世界文化賞をはじめ、旭日中綬章が贈られた。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ④

スターバレリーナ、マイヤ・プリセツカヤの代表作といえば、
「瀕死の白鳥」。

バレリーナの個性が大きく出る踊りで、
彼女が演じる白鳥は、1度しか倒れない。
最後の最後まで死に抵抗し、突然、動きを止めるのだ。

彼女の白鳥は、彼女の人生そのものだったといえる。
自伝には、こんな言葉があった。

蔑まれたり、人間としての尊厳が踏みにじられない日は一日としてない。

ユダヤ系の家系だったことを理由に受けた差別・迫害はすさまじく、
海外公演で滞在していたホテルでは、食事がドッグフードのこともあった。

それでも彼女は、バレエを通じて抗いつづける。
「カルメン組曲」や「ボレロ」など反ソ連的な新作に挑戦を続け、
世界をよりまっとうな方向へと、変えていった。

プリセツカヤの死後、日本のバレリーナ・森下洋子は、こう語った。

自らをなげうって多くの人に喜びを届けるという聖なる仕事を終え、
マイヤさんが彼岸に渡る船から手を振っている姿が、はっきり見えるような気がします。後は任せた、と。

自伝のタイトルは、「闘う白鳥」。
彼女の一生は、長い長い闘いだった。

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福宿桃香 15年7月18日放送

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kimtetsu
ホームランの話 新井兄弟

阪神タイガースの新井良太は、
同じくプロ野球選手の兄を持つ。

もともと野球を始めたのも兄・貴浩のすすめ。
肩を並べて、ただ一緒に野球をやりたい。
やがてプロでも兄と同じ阪神でプレーするまでになった。

しかし待っていたのは、兄とのポジション争い。
体格もプレースタイルも似ていた兄弟にとって、
一人が活躍することは
もう一人の居場所がなくなることだったのだ。
そのとき良太が出した答えは、
兄と同じファーストから、サードへの守備位置変更。

そして試合に揃って出場するようになったふたりは、
2012年7月29日の対横浜戦で快挙を達成する。
4回、まず良太がバックスクリーンに飛び込む特大3ラン。
そして7回には貴浩がダメ押しの2ラン。
じつにプロ野球史上31年ぶりの
兄弟アベックホームランだった。

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福宿桃香 15年5月10日放送

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母を生きた人 オードリー・ヘップバーン

銀幕の妖精オードリー・ヘップバーンが
映画より愛したもの。
それは、二人の息子と過ごす時間だった。

よき女優である前に、よき母であろうと努力した。
息子たちを毎日学校まで送り迎えし、
一夜漬けの勉強にも付き合った。

息子・ショーンが劇に出たときには、
台詞の覚え方を伝授した。

「夜、明かりを消す前に台詞を読むの。
 それで朝、目を開けたときにもう一度読むのよ」

名女優のアドバイスを胸に、ショーンは完璧に役を演じた。
本番当日のオードリーは
仕事を入れずに劇を見に行っておきながら、
ショーンを動揺させないように遠くでそっと見守ったそうだ。

二人の息子にとってオードリーは、
ほかの誰にも演じることのできない
すばらしい母親だった。

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