小林組・山本貴宏

山本貴宏 20年3月15日放送


Edomura no Tokuzo
桜のはなし 「もったいない」が生んだ和菓子

江戸時代、長命寺に雇われて日々庭掃除をする山本新六という青年がいた。
彼が抱えていた仕事の悩みは、美しく咲き誇る桜並木。

通りすがりの人々を癒やす桜の木は、
秋になると桜の葉を落とし、地面を埋め尽くす。
庭掃除をしている新六にとっては宿敵だったのだ。

彼の悩みを解決したのは日本の美しき良き、「もったいない文化」
「そうだ。甘い餅を桜の葉で包めばお餅が乾燥しないし、
桜のニオイがお餅についてよい風味になるではないか!これは売れるぞ!」
と思いついたのが、今も愛される桜餅だ。

無限に手に入る桜の葉から桜餅を生み出した新六は、
勤めている長命寺に露店を構えた。
参拝にきたお客さんの口コミから、桜餅はたちまち有名に。

現在も、新六が開業した場所で、
当初の味をその子孫である主人が代々守り続けている。

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山本貴宏 20年3月15日放送



桜のはなし アイデア桜

江戸時代に、咲いているだけで人を助ける桜があった。

実は桜の木というのは、
川や土手といった水回りの近辺によく植えられている傾向があるが、
なぜ「川の周りには桜が多い」のか?

今から遡ること江戸時代。
当時大雨が降ると土手の決壊が起こり、洪水の被害に悩まされていた。

お金をかけずに多くの人が土手を踏み固めてくれる方法はないものか。
と、機転をきかせたのは江戸幕府の8代将軍、徳川吉宗である。

土手の周りに桜を植えれば、
お花見目当ての人が来て、結果的に踏み固めてくれるのではないだろうか?

これが、人を助ける桜を生んだ革新的なアイデアとなった。

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山本貴宏 20年3月15日放送


houroumono
桜のはなし ソメイヨシノ

奈良県の桜の名所・吉野にちなんで「吉野桜」と命名され、
江戸末期に染井村から売り出された「染井村の吉野桜」
略してソメイヨシノ。

花付きのよさ。成長の早さなど、
お花見用には最適で、またたく間に全国に広がったという。

そんなソメイヨシノの弱点は、自分で繁殖できないということ。
よって、単一の樹からの接ぎ木や挿し木で人工的に増やされてきた。

樹齢130年にもなる日本最古のソメイヨシノでさえ、
オリジナルのソメイヨシノではなく、第一世代はほとんど絶滅してしまっている。
そんな儚さも、ソメイヨシノの魅力のひとつかもしれない。。

一瞬に咲き誇り散っていくソメイヨシノの季節が、またやってくる。

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山本貴宏 20年3月15日放送


bluefish812
桜のはなし 醍醐の花見

それほど花見がポピュラーではなかった時代、
京都 伏見区の醍醐寺で豪勢な花見を思いついた人物がいた。
それが、天下統一を果たした豊臣秀吉。

秀吉は京都の醍醐寺に足繁く下見へ通い、建物の造りや庭園の改修を指揮し、
醍醐山の山腹にいたるまで全体で700本の桜を植えた。

さらにそこへ1300人もの女性を招き、
その際1人3着ずつの着物を贈呈した上で、花見中に2度もお色直しを行った。
一説によるとその時の衣装代の総額は現代の40億円相当になるという。

一世一代の宴を催したわずか数か月後の8月に秀吉はこの世を去るが、
この豪華絢爛なお花見が、
桜を見ながら宴会を楽しむという現代のスタイルを築き上げた。

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山本貴宏 20年3月15日放送


不比等
桜のはなし 三大桜

日本で最も価値の高い桜、それが日本三大桜。

福島県の三春滝桜。
岐阜県の薄墨桜。
そして、山梨県の神代桜。

神代桜は日本で一番古い桜と言われ、
高さ10m。幹回り11mもある巨大なエドヒガンザクラだ。
その樹齢はなんと想像を絶する約2000年。
古くはヤマトタケルノミコトが自らの手で植えたという伝説や、
日蓮宗の宗祖である、日蓮聖人の祈りによって衰えから回復したという言い伝えなど
神聖な伝説が多く残されている。

一生に一度はお目にかかりたい神代桜へ、今年は少し足を延ばしてみてはいかがだろうか。

何百年も命をはぐくんできた生命力を強く感じると共に、
そのスケールに圧倒されること間違いない。

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山本貴宏 20年3月15日放送


shoma
桜のはなし 三色団子

アイデアマンだった豊臣秀吉が執り行った、醍醐の花見。
そのこだわりは、振舞われる茶菓子にも表れていた。

当時は、茶菓子といえば団子。
甘くない団子が一般的だったものを
「見た目も美しくほのかに甘い団子を」
と、秀吉が考案したのが、三色団子である。

ピンク色の「桜」で春を、白色の「雪」で冬を、
緑色の「ヨモギ」で夏を表現したこの団子。
秋がないので「飽きずに」食べられる。
といった洒落も利いている。

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山本貴宏 19年12月22日放送


masato_saito
雪がふるとき ~ホワイトインパルス~

世界の降雪量ランキング1位は
青森県の青森市となっている。
そんな青森市でのある日、
積雪は29センチを記録したにも関わらず、飛行機の欠航はゼロだった。
活躍したのは、日本一の除雪隊と呼ばれる精鋭たち
通称「ホワイトインパルス」だ。
視界の悪い中、
全長3000メートル 幅60メートルの滑走路をたった16分で除雪する。
総勢110人 除雪車60台を指揮する隊長は、引き締まった表情でこう述べた。
「愛称をつけていただいて、励みになって士気も高まっていますので、
より一層降雪に専念したいと思います」
青森空港の展望デッキからは、彼らのプロ技を目にすることができる。

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山本貴宏 19年12月22日放送



雪がふるとき ~札幌を救った雪~

終戦から間もない1950年。
当時、札幌の街は石炭ストーブを使っていた影響で外は薄暗く、
衣服も汚れるという理由でほとんど外へ出歩かなかったそうだ。

これではいけない!札幌を活気づけよう!
そう考えた札幌市が呼びかけ、
雪像製作に協力してくれる学校をなんとか集めて始まったのが、
今では世界の人を魅了する「さっぽろ雪まつり」だ。

雪捨て場であった場所で、
学生たちが作るたった6基の石像から始まった
「さっぽろ雪まつり」は今年で70回目を迎える。

その精巧な仕上がりに
思わず白い息が漏れてしまう雪像のひとつひとつには
先人たちの想いと歴史が積み重なっている。
冬の北海道で、感動の雪像を眺めてみてはいかがだろう。

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山本貴宏 19年12月22日放送



雪がふるとき ~雪まろげ~

18世紀前後の江戸時代は小氷期といわれ
現代より寒い日が続き、雪の量も多かった。

そこで流行したのが、
雪玉を転がして丸い大きなかたまりを作る「雪まろげ」という遊び。

さらにその雪の塊を積み上げ
縁起物の「達磨」を再現したことから、文字通り「雪だるま」が誕生した。
「雪だるま」はSnowmanの語訳ではなく、は日本古来の言葉だったのだ。

歌川広景による「江戸名所道戯尽」の一葉にも
供え物が置かれた雪だるまが描かれており、
本来の「達磨」と同じく縁起物であったと考えられる。

雪が降ると、
子どもたちが外で雪だるまを作る風景が思い浮かぶが
江戸時代には、
子どもの遊びというよりも大人が作り、
朝起きた子供たちを驚かせるのが目的であったという。
炭の塊で目を付け、ひげなどを墨で描いていたという
本格的なつくりであった。

サンタクロースが西洋から伝わってくる前から
冬の日の朝に子どもたちを喜ばせる親心は、
変わらず存在していたのだった。

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山本貴宏 19年12月22日放送



雪がふるとき ~雪あかり~

晋時代の中国に、
車胤(しゃいん)と孫康(そんこう)という若者がいた。

官僚を目指して勉強していた二人だが、共に貧しい家計で
夜中に必要な明かりを灯す油すら買うことができなかった。

そこで、
車胤(しゃいん)は夏の夜に蛍を捕まえて明かりの代わりを作り
孫康(そんこう)は冬の夜に窓辺に雪を積み上げて明かりの代わり
としたことから
苦労して勉学に励むことを意味した「蛍雪の功」という言葉が生まれた。

なんとしてでも合格してみせようという中国の偉人たちの想いは
卒業式で歌われる「蛍の光」を通して、現代の学生たちに伝えられている。

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