道山智之

道山智之 14年9月20日放送

140920-03
Amehare
荒城の月③ ~瀧廉太郎 

作曲家・瀧廉太郎。
わずか16歳で東京音楽学校、現在の東京藝術大学に入学。
20歳で助教授になった天才作曲家は、
「荒城の月」「お正月」など、今も歌いつがれる名曲をのこした。

21歳のとき、中学唱歌の公募で、
詩人・土井晩翠が書いた詩に曲をつけて完成した、「荒城の月」。
哀しみをおびた、深く胸にせまるそのメロディは、
1980年代になって、ベルギーの修道院で聖歌としてうたわれるようになった。

みずからクリスチャンの道を選んだが、早逝したため
讃美歌を書く機会はなかった瀧廉太郎。
時をこえて、その機会は訪れていた。

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道山智之 14年9月20日放送

140920-04
Luke.Larry
荒城の月④ ~土井晩翠 

詩人・土井晩翠。
彼が書いた詩「荒城の月」に曲をつけたのは、
8歳下の作曲家、瀧廉太郎。
曲は公募で集められたため、曲づくりのために会うことはなかった。

彼らが出会ったのは1度だけ。
曲ができてから1年後の1902年、晩翠がヨーロッパに遊学中のことだった。
ドイツのライプツィヒ音楽院で学びはじめた廉太郎は、
わずか2カ月で結核を得て帰国の途についた。
その船がロンドン郊外ティルベリーの港に寄ったとき、
晩翠は廉太郎を見舞ったのだ。

最初で最後の対面。
ふたりはどんな言葉をかわしたのだろうか。
おたがいの仕事を、たたえあったのか。
テムズ川に月は映っていただろうか。

それから40年後、この曲を聞いて音楽家を志したのは、
まだ10歳だった中村八大。
その後「上を向いて歩こう」などの名曲を書いて
戦後の日本を勇気づけることになる。

何度会えたか、会えなかったか、にかかわらず、
想いは時をこえて共感され、かたちになっていく。
そんな地上の営みを、月はしずかに照らしている。

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道山智之 14年7月12日放送

140712-01
よっちん
北原白秋 1

詩人、北原白秋。
堀割で有名な福岡県の水郷、柳川に生まれる。
福岡県屈指の造り酒屋の長男として幼年期をすごし、
詩人への道を志した。

16歳のときに酒蔵が火事で焼失。
家業をついで立て直してほしいという父の願いを振りきり、
19歳で上京した。
そして24歳のときに、実家は破産する。

そんなとき、彼が詩にしたのは
みずからが捨てたふるさとのこと。
有明海の広大な干潟をのぞむ故郷の、
けだるく、美しく、鮮烈な色彩に満ちた風景と、
いとおしき人々への想いを描いた。

白秋26歳のときに刊行した詩集「思ひ出」。
出版記念会で、当時の権威・上田敏にはげしく賞賛された。
「筑後柳川の詩人北原白秋を崇拝する。」

白秋は、感激のあまり言葉を失い、泣いた。
ここに北原白秋は国民詩人としての一歩をふみ出した。

「思ひ出」を朗読する彼の声が、
70年以上の歳月をこえて、今ものこる。
その声にのこるイントネーションは、
彼の故郷の海の、やさしい波音のようにも聞こえる。

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道山智之 14年7月12日放送

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北原白秋 2

詩人、北原白秋。
30代の彼は、実家の破産で困窮していた。
葛飾区ののどかな村に居を構え、
つつましく暮らす彼の庭には、
毎日のように村の子どもたちが遊びにきた。

ある朝、妻がたたんだ蚊帳の中から、
蛍が出てくる。
それを庭の蓮の葉にとまらせていると、
いつものように遊びにくる子どもたち。

ふと思いついた白秋は、
ひとりの子どもの手のひらに
絵を描いてやった。
喜びの声を上げる子どもたち。
みんなの手や指に、金魚や花や、すずめの絵を描いた。

子どもたちが帰った後、
妻が「私にも描いてください」と言う。
彼は妻の小指の爪に、小さな蛍を描いてあげた。

お金はなくても、
村の子どもたちや妻との
無邪気でささやかな心のやりとり。

のちに、今も歌いつがれる
数々の童謡を書いてゆくことになる国民詩人の心のありようは、
このころの生活の中に生まれた。

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道山智之 14年7月12日放送

140712-03
tokitsu-kaze
北原白秋 3

詩人、北原白秋。
彼は生涯に、1200もの童謡を残した。
そのうち多くの曲が、
ひとつ年上の作曲家・山田耕筰とのコンビでつくられている。
「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」など、
時をこえて今も愛される歌は多い。

「からたちの花」もそのひとつ。
10歳で父を亡くし、印刷工場で働きながら苦学した山田耕筰。
工場でしごかれ、近くにあった、からたちの垣根にかくれて泣き、
酸っぱいその実を食べ空腹をしのいだ。
そんな耕筰の思い出を、白秋が詩にした。

白秋が故郷の小学校に通った道にも、
からたちの垣根があり、それは彼にとっての原風景だった。
ふたりの想いがとけあって、かたちとなったのだ。
耕筰が、言葉の1音に対して1つの音符をつけたこの曲は、
言葉の響きをやさしく伝える。

 からたちのそばで泣いたよ。
 みんなみんなやさしかったよ。

ふたりは仲がよかった。
耕筰の家でいっしょに酒を酌み交わし、
白秋が酔って、耕筰の坊主頭をペロリとなめたときも、
耕筰は笑っていたという。
そんなふたりが魂をひとつにしてできた歌をうたうとき、
私たちの魂も彼らとひとつになる。

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道山智之 14年7月12日放送

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北原白秋 4

詩人、北原白秋。
「赤い鳥」や「コドモノクニ」など多くの雑誌で、
投稿されてくる詩の選評を担当した。

作家・新美南吉も「赤い鳥」に投稿して来たひとり。
代用教員をしていた18才のときに書いた童謡「窓」が
白秋に選ばれる。
その後「ごんぎつね」などの名作を書いた南吉のスタートラインとなった。

今年2月に旅立った詩人、まど・みちおも、
公務員だった25才のときに「コドモノクニ」に投稿し、
白秋が特選にした。
その後「ぞうさん」「ふしぎなポケット」などの
名曲をつくった詩人の才能は、ここに初めて見出された。

白秋はほかにも、萩原朔太郎や室生犀星を世に送り出し、
たくさんの一般の子どもたちの作品を丁寧に見て、
よいところをほめたたえた。

蛍とすずめ、そして子どもの無垢な心を愛した詩人、
北原白秋。
彼のやさしいまなざしは、多くの門下生に受けつがれ、
その歌をうたう今の子どもたちにも、きっとつながっている。
純粋であることの尊さを信じる気持ちは、
今の私たちの心のなかのどこかにも、生きている。

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道山智之 14年6月21日放送

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Phil Guest
バート・バカラック1

作曲家、バート・バカラック。
今年4月に来日したとき、彼は85歳。
ピアノを弾きながら、歌いながら、同時にオーケストラへの指揮を華麗にこなし、
感動的なステージをつくりあげた。

今回の来日は、前回の2012年から
まだ1年半しかたっていない。
彼はその理由を語っている。

「前回、私が日本へ来たとき、
 心を開き、より深い感情を見せてくれたみなさんに
 とても感動しました。
 それは、以前日本に来たときとくらべると、
 より感動的なものでした。
 私は、地震や津波、それらによって発生した惨状を経験し、
 日本のみなさんが心を開き、感じてくれたのだとほんとうに信じています。
 多くの方々の感動を目の当たりにし、
 心からそう思いました」

コンサートホールに響く彼のメロディは、
悲しみのあとにはなにかが待っているはず、という人生のメッセージそのものだった。

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道山智之 14年6月21日放送

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バート・バカラック2

作曲家、バート・バカラック。
彼は学生時代、作曲家ダリウス・ミヨーのクラスにいた。

他の生徒たちが、複雑で抽象的な曲を披露する中、
バートは自分の書く甘いメロディを引け目に感じていた。

演奏を聞き終わると、ミヨーは言った。

「口笛で吹けるメロディを書いたからと言って、
 恥じる必要はまったくない」

「記憶に残るメロディをつくれる人間はめったにいない。
 そしてそれは本質的な才能なのだ」

バートは、一生の教訓を与えてもらった、と語っている。
若き作曲家志望の学生にかけたひとことが、
その後の音楽史をぬりかえることになった瞬間だった。

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道山智之 14年6月21日放送

140621-03
realjv
バート・バカラック3

作曲家、バート・バカラック。
彼は語る。

「自分の書いた曲を、自分で守ろう、と思うようになってから
 何かが変わった。
 プロデューサーでなく、編曲者だったとしても、
 スタジオに行ってやってしまう。
 プロデューサーのクレジットはほかの人の名前でもかまわない。
 曲を、守ることに興味があったんだ」

名曲「アルフィー」の録音で、
バートは大スター、シラ・ブラックに激しいボーカルを求めた。
テイク数は28にも及んだ。

「もっとうまくやれるんじゃないか?もう1回やってくれないか?」

そんなバートに、
プロデューサーのジョージ・マーティンがしびれをきらした。
「バート、キミはいったい何をほしがってるんだ?」

バートは答えた。
「ちょっとした魔法ですよ」

テイク数の多さに、シラは腹を立てていたが、
それが、がむしゃらな歌を生み、時をこえて心にのこるものとなった。

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道山智之 14年6月21日放送

140621-04
mfhiatt
バート・バカラック4

作曲家、バート・バカラック。
彼は語る。

「たとえただの握手だったり、路上でサインを求められたり、
 自分の曲に誰かがコメントしてくれたりするだけでも、
 そうしたつながりは私にとって大きなパワーと意味を持っている」

2008年、日本での公演終了後、
若い女性がバートと目があった瞬間言葉を失い、
涙を流しはじめた。
心打たれたバートは近づいて、そっと両腕で抱きしめながら思った。

「もし女性をこんな気持ちにさせる音楽をつくれるとしたら、
 それだけで大したものじゃないか」

その女性の名は、椎名林檎。
さっそくバートから、楽曲「It Was You」を贈られた。
この曲は、彼がつくった最新の楽曲だ。

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