深い山で歌を歌った男の話
ストーリー 小野田隆雄
出演 久世星佳
相撲という格闘技は、
神にささげる儀式として誕生しました。
平安時代、現代の暦で言えば八月の終りに、
帝の御前で、力士が東西に分かれて
相撲をとり、「今年は東の国と西の国と
どちらが豊作になるか」、それをうらなう
大切なまつりごとがあったのです。
ところで、その当時、
まだ、専門の力士はいませんでした。
そのために、四月の下旬になると、
宮廷から全国に使者が派遣され、
力自慢を捜し出し、京に連れてきて
力士にしたのでした。
ある年の四月の終り、
たちばなのよしとみという男が
使者をおおせつかり、
はるか東国にまで、出かけていきました。
彼は陸奥国、現代の福島県で、
力自慢を捜しましたが見つからず、
南隣(みなみどなり)の常陸国、
いまの茨城県に,
いってみようと思いました。
陸奥国から常陸国へと抜ける道に
焼山という名前の
山深い峠がありました。
よしとみは馬に乗り、
四人の部下は歩きながら、
峠道を進みました。
その道はしたたるように
若葉がおおいかぶさり、
はるか見あげると
雲ひとつない青空です。
ときおり、カモシカが
姿をみせるほか、何も動くものはありません。
風もまったく吹きません。
静かです。さびしいほどの静けさに、
よしとみは、歌をうたいたくなりました。
彼は京では評判の、のど自慢だったのです。
常陸歌という、この国の神々を
ことほぐ歌を、彼はうたいました。
筑波嶺の このもかのもに
陰はあれど 君がみかげに
ますかげはなし
筑波山のあちらこちらに、ここちよい
木陰はあるけれど、あなたの尊い御影に
よりそっているのが、最高でございます……
よしとみの声は、透きとおるように
高くひびき、青空に消えてゆきます。
すっかりよい気分になって、
彼は、くり返し くり返し歌いました。
そのときです。
「あな、おもしろ」
明るい大きな声が、山にこだまし、
谷底に、ころげ落ちるように、消えました。
そして、ポーンと手を打つ音。
よしとみは馬をとめ、
部下をふりかえり、尋ねました。
「誰そ?」
けれど、部下たちには、その声そのものが
聞えなかったのです。
よしとみは、急に髪の毛一本一本が太くなる
ような感じがしました。
冷たさが全身を走りました。
彼は、馬をいそがせ、いちもくさんに
峠をくだりました。
ようやくたどりついたその夜の宿で、
たちばなのよしとみは、
ふるえが止まらぬまま眠りましたが、
そのまま目覚めることなく、
死んでしまいました。
されば、と、古い物語の言葉は
続きます。
そのようなひとざと離れた
深い山で、
むやみに美しく歌うものではない。
山の神が、その声をめでて、
自分の世界へ、招きよせてしまうのだと。
はてさて、まことやら、いつわりやら、
今は昔の、遠いおはなしでございます。