バイカル湖に伝わる物語
ストーリー 小野田隆雄
出演 久世星佳
ロシア連邦の南、
モンゴルとの国境に近く
バイカル湖という湖があります。
このあたり、いまは、にぎやかで、
イルクーツクという大きな都会もあり、
飛行場もあります。
けれど、百年ほどまえ、
シベリア鉄道が通るまでは、
森に囲まれた小さな村がいくつか、
のんびりと、あちらこちらに、
あるだけでした。
このお話は、その頃から
伝わっているお話です。
バイカル湖のほとりに近く、
深く美しい森がありました。
細い道を森に入っていくと、
最初のうちは、シラカバやカエデが
明るい影をつくり、草花も咲きみだれ、
木イチゴや野イチゴ、そしてクルミも
みのります。その道を、奥へ、奥へ、
たどっていくと、ブナやカシワや
モミの木が、空いっぱいに枝をひろげて、
昼でも暗いほどに、立ちふさがっています。
そして、ここから奥へつながる道は、
もうありません。かすかに遠く、
木間隠(このまがくれ)にバイカル湖の青い水面(みなも)が、
ひかっています。大きな岩も立っています。
けれど、それは本当の岩ではなくて、
この森に住む、森の精のお家(うち)だったのです。
森の精は、すこし背なかが曲がっています。
銀色の、風のマントをはおり、
ブナの樹皮(じゅひ)でつくった上着とズボン、
カシワの木で作った、太く長く、
曲がりくねった杖をつき、
深緑の髪、トルコ石のような瞳。
もう、百年を二十回以上くり返すほど、
生きてきました。けれど、やさしくて、
少年のような心を持っています。
人間の少女たちが大好きで、
近所の村から少女たちが、
草の実や木の実を摘みにやってくると、
森の精は、そっと、カシワの杖で
地面をたたき、いちばん甘い
木イチゴのある場所を
教えてあげるのでした。
けれど、遠くの村から、
乱暴な猟師たちが、犬をいっぱい連れて、
ずかずかと入ってくると、
森全体がゆれるほどに、カシワの杖で
地面をたたき、ウサギやシカやキツネ、
オオカミやトラまでも、
森の奥深くへ、逃がしてしまうのでした。
まい年まい年、秋が終る頃、
森の精が、風のマントをひるがえすと、
最初の吹雪が襲来し、バイカル湖の水が、
カチカチに氷り始めるのでした。
いつもいつも、冬が終る頃、
森の精が、口笛を高く吹くと、
雪割り草の花が、咲き始めるのでした。
まい年まい年、いつもいつも……
けれど、百年ほどまえ、
森の精は岩のお家で、夢を見ました。
森のなかに、たくさんの人間が入ってきて、
オノをふりまわして、
木を倒しているのです。
動物たちが、バイカル湖へ、
群(むれ)になって逃げていきます。
そして、もっと西のシベリア平原から、
黒い巨大な龍が、火と煙を吐きながら、
長い長い二本の鉄の棒の上を
叫びながら、走ってくるのです。
シベリア鉄道が、モスクワから
バイカル湖に到着する日の、まえの晩。
ひとりの少女は、屋根裏部屋の、
小さな窓から、見たのでした。
オリオン座の三つ星の近くを、
森の精が、マントを広げ、杖にまたがり、
もっと北の、深い森に向かって、
静かに飛び去っていく姿を、
見たのでした。