もうパスポートは、更新しない。
分厚くページを継ぎ足された私の紅い旅券。
同じ国のスタンプが何十回と
押され続けた私の10年間。
旅券に貼られた私の写真は、
ちょっと不機嫌そうな
今にも泣き出しそうな、
それでいて、どこか強い意志のある
前向きな眼差しでカメラを睨んでる。
そんな10年前の私が、
何か言いたそうに今の私を見つめてる。
知らない女だ。そう思った。
あの頃の私は、
こんな髪型で、
こんな服を着て、
こんなピアスをして、
こんな顔で生きていたんだ。
でも、もう、こんな私はいないし、
こんな紅い旅券もいらない。
最初の頃は、
イミグレーション・コントロールの度に、
入国審査官の態度に怯えていた。
それが、いつの間にか、
その態度に無性に腹が立つようになり、
今では、その国の言葉で
口論までするようになった。
それも、もうしないで済む。
バゲッジクレームで、ひとり取り残され、
私の荷物だけが、
北半球の凍えるような知らない国まで
旅することもないだろう。
あの街を記したスタンプの押された
エアメールが毎日のように届いていた頃は、
無様に幸せだった。
でも、そのエアメールが
電子のメールにとって変わるあたりから
途切れがちになった便り。
それでも、私は、あの街に向かった。
何度も、何度も、何度も。
あの街に行く度に、
ふたりで訪れた、レストランやバーの人々。
顔見知りになったバザールの老女にも、
もう、会うことはない。
カルナバルの夜の喧噪と熱気と、
陽気なふりをしたチャランゴが奏でる、
悲しみを湛えた濡れた響きの中で、
あの男の汗と涙とウソと、私の血と、
どちらが重かったのだろう。
あの夜、
男が寝静まったあとに、
男のマチエテ(山刀)をそっと手にして
月明かりに照らして見た。
その切っ先を、
惚けて眠る男の首筋にそっと当てたとき、
もう、終わりにしようと思った。
愚図で、臆病で、怠惰で、愛おしいひとへ。
あなたは、
生まれた国を捨てたというけれど、
そうじゃない、
捨てられたんだよ。
さようなら。さようなら。さようなら。
上空10000メートルの強い偏西風に乗って、
私は、いま、この手紙を書いている。
西から東に向かう銀色の機体も翼も
ナイトフライトのために見ることはできない。
あの男から
毎分15キロ以上の速さで離れてゆく機体から
流れ、生まれる航跡も見えはしないだろう。
男と私の間をつなぐコントレイルは、
闇につづく飛行機雲は、
どんどん曖昧に、
どんどん、どんどん薄く脆くなりながら、
いつか消えてゆく。
搭乗するときから気になっていた
エキゾチックな長身のパーサーを期待して
CAをコールする。
私のコールに応えてやって来たのは
クルーバンクからたった今、
起きてきたばかりといった面持ちの
若い女のCAだった。
眠そうでむくんだ顔に笑顔だけを貼り付けて、
私のひと言を待っている。
「つぎの男は、どんな男にしたらいい?」
若いCAは、怪訝そうな顔のまま、
私の手元に置かれた、
書きかけの手紙を黙って凝視している。
この手紙も、きっと、出すことはない。
不細工な紅いパスポートと一緒に、
ゴミ箱の中に行くはずだ。
私の想いの航跡は、
どのくらい、この闇の中に残り、
続いているんだろう。
今は、なにも見えない。
出演者情報:志村享子 03-5456-3388 ヘリンボーン