少年の帽子が飛ばされたのは停留所を発車したバスが
俄にスピードを上げた折である。
車内を通り抜けた風が少年の帽子を拐って、
瞬く間に窓の外へ飛ばした。
帽子は空色のセーラー帽で、
側面に真鍮のヨットのバッジがついていた。
少年よりはむしろ母親の方が気に入って、
折に触れてその帽子を少年にかぶせていた。
バスを降りて叔父の家に着いた後、
母親は帽子の捜索を叔父に頼んだ。
叔父は車を用意し、少年を連れて捜しに出た。
帽子はおそらく車道に落ちたはずだった。
少年と叔父は辺りを慎重に捜したが、帽子はなかった。
車は車道を二度往復した。
しかし、帽子を見つけることは終にできなかった。
きっと誰かに拾われたのだろう、
叔父は諦めて車を家へと向かわせた。
その時、少年は何かの予感にふと後ろを見返した。
すると、遥か後方の路上に小さな点がぽつんと見えた。
それは帽子のようでもあった。
叔父に告げてすぐに引返してもらおう。
少年はそう思った。
しかし、次の瞬間、何かがそれを押し留めた。
少年の僅かのためらいの間に、
路上の点は消えたように見えなくなった。
なぜあの時叔父に言うことが出来なかったのか。
少年はその夜ひとり思悩んだ。
ひとつにはそれは、これ以上叔父を煩わせることへの遠慮であった。
またひとつは、引返してみたはいいが、
それが見間違いと判明した時の恥を畏れる気持であった。
しかし、それだけではなかった。
そうではない別の感情もそこにはあった。
それが何であるかを理解したのは、
少年が思春期を迎えた後である。
帽子がなくなれば母親はきっと悲しむ。
少年はその姿が見たかったのだ。
愛するがゆえに不幸せを願うという矛盾した愛情が、
人のこころに潜むことを少年はその時初めて知ったのである。
出演者情報:石飛幸治 スタジオライフ所属 http://www.studio-life.com/
動画制作:庄司輝秋
こわ、悲しむ姿を美しいと感じる事もあるし、不幸を願うきもちってあります。ひっかかっていた気持ちを気づかせてもらえました。