全 解 除
―おれはこの世を解除するパスワードを見つけた。
早朝。誰もいない学食のテーブル。
話がある、と俺をよびだした小田が、開口一番そう言った。
―何の…パスワード?
―この世を解除してしまうパスワードだ。
普段から言葉のききづらい奴だが、今日はいつにもまして声が低い。
―意味がわかるように話せよ。
―これを見ろ。
議論は時間の無駄とばかりに、
小田はポケットから卵を一つ取りだした。
そして、目をつぶり何秒か天をあおいだかと思うと、
その卵の表面を人差し指の先で、文字を書くような仕草で撫で始めた。
―ほら。
と小田がこちらに卵を向けると、
殻の表面にきゅるりと直径3センチほどの穴があいた。
その穴の向こうから、人の目玉がぎろりとこちらを覗く。
俺は、うわ、と声をあげて思わず後ろに飛びのき、
隣のテーブルでしたたかに腰を打った。
―ああ、これは、窓だったのか。
そう言いながら小田は、卵をポケットに入れ直した。
―窓?
―窓かどうかは、パスワードを解除してみないとわからない。
そう言いながら小田は、
ポケットからもう一つ別の卵を取りだした。
―一個一個パスワードも違えば、
ロックがかけられる前が何だったのかも違う。
さっきと同じ動作を繰り返してテーブルの上に置く。
見ていると殻の表面にいくつもの亀裂が入り、
…ちょうど団子虫が丸い状態から元に戻るかのように変形した。
白い甲羅の裏に、何百本かの毒々しい赤い脚がもぞもぞと動いている。
―うへ。
小田はそれだけ言って、
すばやい仕草でテーブルにあった紙ナプキンで虫を包むと、
足で踏み潰し、ゴミ箱に捨てた。
小田の話を要約するとこういうことだった。
この世のあらゆるモノは、その「ふり」をしているにすぎない。
卵に見えるものも、机に見えるものも、すべては仮の姿であり、
すべてのモノが固有のパスワードを持っている。
このパスワードを入れることで、そのロックが解除され、
モノ本来の姿が現れる、というのである。
―つまり、お前は全てのモノのパスワードを知ってるというのか?
―正確に言うと、知ってるわけじゃない。分かるんだ。
手を触れると。このあいだ猫を解除したときは、興奮したよ。
腹から裏返って、巨大なエイみたいな生き物になった。
ひでえ匂いがしたけどね。
動物にもあるのか。と俺が言うと、
―人間にもあるんだぜ。
と小田が、にやりと笑った。
―お前にもある。
そのつもりはないだろう?でもそれは気づいていないだけなんだ。
お前にもパスワードがあって、そのパスワードをここに入れれば…
と言って小田はおれのおでこに指で触れた。
思わずのけぞると、小田はげらげらと笑った。
そして、紙ナプキンにすらすらと何か書き、
折りたたんでこちらによこした。
おれはそれを、手で払いのけた。
小田は、くく、と喉がきしむような笑い声をたてた。
―俺も最初は、おまえと同じことが知りたかったよ。
でもな、それは、わからないんだ。
―俺と同じ…って?
―だれが、こんなパスワードをつくったか。
そして、なぜ、俺にそれを教えるか、さ。
でも、そいつは結局わからない。だからおれはあきらめた。
だが、ひとつ、おもしろい発見があった。
小田の顔が、微妙にゆるんだ。
―たまに、ごくたまに、解除した後、本当に、なんというのかな…
エネルギーの…エネルギーの塊のようなものが現れることがあるんだ。
あたたくて…なんだか、えも言われん、
喜びという気持ちが空間の中に独立して存在しているような…。
あれは、本当に、いい。すばらしいんだ。
小田はうっとりと虚空を見つめ、
―もしあれに俺がなれたとしたら…
そう言って、何か遠いところを見る目をした。
しばしの後小田はこちらを向き、どういう意味か、うなずいた。
そして席を立ち、食堂を出て行った。
※ ※ ※
その後、小田の姿を見たものは誰もいない。
おれの「パスワード」が書かれたナプキンは、自宅の机の引き出しにある。
――まだ開いていない。
出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/