直川隆久 2014年12月14日

1412naokawa

峠の女

          ストーリー 直川隆久
             出演 遠藤守哉

 峠の茶店。
おはなが二皿目の団子を平らげても、若旦那は姿を見せない。
昼にはここで落ち会い、山を降り、
汽車での駆け落ちの旅に出るはずであった。
が、陽はすでに西に傾き、樹々の影が長くのびる時刻である。
おはなが腹をさすると、もう一皿、といわんばかりに
小さな足が内から蹴った。
「おはな」
 と男の声がした。見上げると、そこには番頭の利吉(りきち)の姿。
「若旦那を待っているのだろう」
「言えねえす」おはなはかぶりを振った。
「若旦那さぁ(わかだんさぁ)との約束ですけえ」
「若旦那は急な病で床に伏せられておって、
今日はおまえと落ち会うことができん。
そのことを伝えておくれと、たってのお頼みでな」
 おはなが心配そうな顔をすると番頭はにこりと頬笑み
「心配するな。店の者は、ほかに誰も知らない」と言った。
お前のために若旦那が家を借りてくれている、
身の回りの世話をしてくれる婆さんもいる、
若旦那の体が元の通りになるまでそこで休んでおればよい、と
利吉はおはなを諭し、
峠をくだったところにある炭焼きの老夫婦の家にまでおはなを連れて行った。

 一日たち、三日たち、一月たった。利吉は毎日きまった時刻に姿を現した。
「番頭さぁ。わかだんさぁはいつになったらおいでになりますけの」
「もう少しの辛抱だよ」
 というやりとりが繰り返された。
そうこうするうち年も暮れ、雪が山を覆う時季に、
おはなは子を産んだ。男の子であった。
夜泣きがひどく、おはなは毎夜、朝まで赤子をかかえて
あやさねばならなかった。

 山桜の花が白く開く頃、利吉が若旦那、そして大旦那と共に三人で現れた。
おはなには目もくれず、縁台で昼寝する赤子にちらと目をやった大旦那は
若旦那に向かって
「おまえに似とるな」と忌々しげに言い、軒先に腰を下ろした。
「まったく、どうにもならなくなってから…」
 ただうつむくだけで言葉を発しない若旦那に代わり、利吉が口を開いた。
「おはな。大旦那からの申し出だ。
 お前のその子どもはお店(たな)で引き取りたい」
「へえ」
「充分なことはさせてもらうよ、と旦那様も仰っておいでだ」
「わしはどうなりますんで」
「お前さんには、よそのくにに移ってもらいたいのだよ」
事情がうまくのみこめないという顔をしているおはなに、利吉は続けた。
「おはな。赤ん坊はお店(たな)の跡取りとして、不自由なく育てられるんだ。
そのかわりおまえは今後うちと関わり合いにならんようにしてもらいたい」
「わかだんさぁ」
 おはなにそう呼ばれた男は、ただ地面を見つめるだけである。
「わかだんさぁ、わしとの約束はどうなりますんで」
「約束?」と、大旦那が口をはさんだ。
「この子は、うちが育てる。おまえは、今までのことを忘れる。
それがすべてだ。それ以外の約束はないのだよ」
「そんなこと、わし、合点が」
「勘違いしてはいかんよ、おはな。おまえは何かを考える立場にはないのだ」
 そう言って、大旦那は利吉に顎をしゃくって指図した。
 利吉が縁台で眠る赤子を抱き上げたとき――

 「そうけぇ」と、おはなが声をあげたかと思うと、
その顔からざわざわと毛が生え始めた。
「人の暮らしに気がひかれるままに居ついてはみたが、潮時じゃろう」
そう言ったおはなの尻のあたりがぐぐ、と盛りあがったかと思うと、
体をつつんでいた着物がはじけ飛んだ。
 呆気にとられる三人の前に、
丈が五尺はあろうかという巨大な一頭の猪(しし)が姿を現した。
人の言葉をあやつる猪。その口の中で舌が動くたび湯気が上がる。
「旦那さぁ(だんさぁ)。わかだんなさぁ。
この子は、猪(しし)と人のあいだの子じゃ。それでもひきとりなさるけの」
 ざり、と猪が前足で土をにじった。
「さあ」
二人はただ、赤子と猪をかわるがわる見るだけである。
なおも詰め寄る猪。
何も言えない二人の男を見て、利吉は赤子をそっと地面におろした。
「そこまでか。人の男は」
そう言って猪は、赤子の寝巻の首後ろをくわえると、
そのまま踵を返し、
木立の中へと進んで行った。
 猪の姿が見えなくなった後は、
ただ落ち葉を踏むばさりばさりという音が聞こえていたが、
それもやがて小さくなり、ついには何も聞こえなくなった。
「おはな。おはな」
と若旦那が声をかけた。
だが返って来たのは、風が木の葉をさらさらと揺らす音のみ。

 人の住む地とその外との境界が、未だ曖昧であった頃の話である。

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/

 


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