「9月の転校生」
2学期の始まりと同時に、東京からの転校生がやってきた。
都会からきた女子というだけで、中学2年の男子たちは皆そわそわした。
「白石すみれです。よろしくお願いします」
それは、久(ひさし)が生で耳にする初めての標準語であった。
テレビの中の芸能人と同じ話し方だった。
だいたい「白石すみれ」という名前自体、
この村にはいない洗練された名前であると思った。
しかし、何より久が驚いたのはすみれの顔である。
すみれの顔は、猫であった。猫のような、ではない。
猫そのものであった。顔中フワフワした白い毛で覆われており、
ヒゲのピンと伸びた口元は、可愛らしいふぐふぐであった。
ω
すみれは、久の隣の席に座った。
久は、すみれから目を離すことができなかった。
担任の先生が、「こら久、ジロジロ見んでねえ。
東京の女子がそんなに珍しいのがぁ?」
と冗談を言い、クラス中がどっと笑った。
すみれが猫であることに関しては、誰も関心を持っていないようだった。
まだこの学校の教科書を持っていないとのことで、
久は机をぴたりとつけ、教科書を見せてやった。
すみれは「落書きばっかりだね」と笑った。
猫が笑うのを久は初めてみた。
ω
その日以来、久はすみれのことが頭から離れなくなった。
勉強は元からできなかったが、サッカー部の練習さえ、
ろくに集中できなくなった。
家にあった分厚い百科事典をいくら眺めても、
二足歩行で学校に通う猫のことは書いていなかった。
友達にすみれのことをいくら話してみても、
芳しい答えは返ってこないどころか、
「おめ、白石のこと好きなんでねのが?」などと濡れ衣を
着せられるところであったため、話題は封印した。
久は独自に調査を開始した。
家から持参した鰹節を給食に大量に散らしては、すみれの様子を伺ったり、
通学途中のあぜ道で引っこ抜いた猫じゃらしを、
授業中、机の上でパタパタさせてみたりした。
しかし先生に叱られるばかりで、すみれは一向に反応せず、
「何バカなことやってんの」と東京弁で言い、また笑った。
ω
すみれは、顔ばかりか腕も足も猫であった。
肉球が邪魔をして持ちづらいのか、
いつも机の下に鉛筆やら消しゴムやらを落とした。
ふと、セーラー服の下はどうなっているんだろう、と久は思った。
ある日、3時間目の国語の授業中に、すみれがまた鉛筆を床に落とし、
拾おうと体を屈めたとき、胸元を見るチャンスがあった。
けれど久はなんだかいけないことであるような気がして、
咄嗟に目をそらしてしまった。
すみれは「見たでしょ」といたずらっぽく笑ったが、
久は慌ててぶんぶんと首を横に振った。
ω
久が半袖シャツから詰襟の学生服に袖を通す頃には、
もはやすみれが猫であることはどうでもよくなった。
その代わり、すみれは休日には何をしているんだろうとか、
どんなマンガが好きなんだろうとか、
そんなことばかりが気になるようになった。
両親が離婚して母の故郷であるこの村へやってきた、
というもっともらしい噂があったが、
真偽を聞くことはもちろんできなかった。
百科事典で「猫」を調べるかわりに、
いつしか「恋」という項目を調べるようになった。
外ではいつのまにか金木犀の香りがした。
ω
「白石すみれです。よろしくおねがいします」
まだ蝉の鳴く9月。転校初日のすみれは思った。
「なんでこの学校の生徒は、誰も疑問に思わないんだろう。
どう見てもこの男子は……犬だ」
すみれを見つめる久の、ふさふさの尻尾がブンブンと振れていた。