あの桜の樹の下にて
妻はどうしても山に帰ると言う。
山に何があるのかと問えば、
約束があると言う。
いったいどんな約束があるのかと聞くと、
桜と約束したと言う。
「桜とどんな約束をした」
「満開の桜の樹の下へ行かなくてはいけない」
「なぜ行かなくてはいけない」
「桜の花がいっせいにわたしを見る」
「桜がひとを見る?」
「桜がひとを見る」
「それが約束か」
「桜の花がぜんいん、わたしを見る」
「わたしも行く」
「それはだめだ。ひとりでいく約束だ」
妻は苦笑をした。
苦笑というものを初めて見た気がした。
三日後、妻は黙って出ていった。
行き先はわかっていた。
わたしと妻がはじめて出会った山。
どうしても、
あの桜の樹の下へ。
妻が桜を見上げている。
何千何万と咲く桜の花は、
よく見るとすべて地面に向かって
花弁を垂れている。
桜の花が顔だとすれば、
桜はうつむいているように見える。
数えきれない顔たちが、
妻と眼を合わせている景色に見える。
わたしは足音をたてずに
妻とおなじ桜の樹の下へ入る。
とつぜん、どどぉっと
冷たい風が四方から吹いてきて、
それが警戒の合図となって、
侵入者たるわたしを
桜が見とがめる。
花は花芯を眼にしてわたしを見る。
このことを妻は言っていたのだ、
と思って振り向いたとき、
猛烈な速さで近づいてきた妻は
鬼になっていた。
真っ赤な目玉、緑色の髪。
わたしは声にならない声をあげ、
鬼と化した妻の首をしめている。
鬼はわたしの首を絞め返してくる。
すさまじい膂力だった。
眼が霞んで、
だんだん視界がぼやけていく。
気がつくと、
鬼は足下に横たわっている。
眼を閉じた鬼は妻に戻っている。
桜の白い花びらが
秒速5センチメートルで降り、
妻の屍体を隠そうとしている。
何千何万の桜の花の、
何千何万の眼から眼が離せなくなる。
降りつもる白い花びらが、
わたしの眼にふたをするまで、
屍体のように横たわっているしか
ないのだろうか。