水月
その夏借りた下宿は川の土手に面した二階の部屋で
東の窓から月が昇るのが見えた。
土手の向こうを流れる川はゆらゆらと月を映していた。
僕は夜になると明かりを消して窓を開け、
川風に涼みながら空の月と川の月を眺めた。
あんまり月を見ると、と下宿のおばさんが心配をする。
狐に化かされますよ。
この土地には狐の伝説が多い。
子供がとんでもない山奥に連れて行かれたとか、
同じ道をぐるぐるまわって帰れなくなったとか。
昔は山がもっと間近にあって、ここは村というより小さな山里だった。
そんなころに狐を殺した人がいて、
村はずれから自分の家まで、その狐をひきずって持ち帰った。
するとその晩、火事が起きて
狐をひきずって通った道筋の家がぜんぶ燃えてしまった。
それ以来、狐を殺す人がいなくなったという。
「いまはもう狐もたまに人を化かすくらいで
たいして悪さはしませんから」
おばさんは狐の友だちのようなことを言う。
おばさんの爺ちゃんが若かったころ、
月がふたつ見えたと言って騒いだ人がいた。
いまなら火球とか、科学的な説明ができそうだが
そのときは狐のいたずらということで
みんなで大笑いしてお稲荷さんに酒をお供えしたそうだ。
そんな話を聞いてから、
僕の月を見る目には一抹の疑いが宿るようになった。
まさかとは思うけど、これは本物の月なのだろうか?
空に浮かぶ月は本物だとしても、川の月はどうなのだろう。
いや、もともと水に映る月は本物ではない。
本物ではないが、偽物ともいえない。
田圃の一枚一枚に映る月、池に映る月、海の月。
ひと粒の水滴だって月を宿すことがある。
月を宿した水は月でもあり水でもあり、
そして月でもなく水でもない…
水に映る月には水月という名前がついている。
そして水月は禅の教えであり、剣道の極意でもある。
悟りや高度な技の習得は
たぶん日常から離脱する精神のジャンプ力を必要とする。
それにはもしかしたら、狐…
いや、狐に象徴される超自然のパワーを借りるのかもしれない。
そんなことを思いながら、あの夏は月を見た。